35 / 134
第4章 茶器と美しい姉妹 編
第34話 呉服屋の凋落
しおりを挟む
鎌倉、東慶寺の近くで呉服屋を営んでいた『山村屋』は、未曽有の危機に瀕していた。
これまで玉縄藩の御用聞きとして、商売繁盛していたのだが、本多正信の死去に伴い、藩主が新しく松平正綱に代わった途端、呉服所※1の看板を下ろすことになったからである。
玉縄藩からの仕事がなくなると、次第に経営は傾き始め、五代目である権兵衛の顔は日に日に険しいものへと変わっていく。
そこに店を立て直すための融資の話が舞い込んだ。
但し、それにはある条件が示されるのだった。
権兵衛は、その条件を満たすため、妻の紫乃を屋敷内で探す。
「紫乃、紫乃はどこへ行った?」
「はい。こちらです」
お勝手から、妻の声が聞こえてくるのに対して、権兵衛は、あからさまに嫌な顔をした。
恐らく、夕食の準備をしているのだろうが、そのような事は他の家の者に任せるように、いつも言っていたのである。
ところが、働き者の紫乃は、体を動かしていないと気がすまないらしく、ついつい手伝いをしてしまうようだった。
また、言い聞かせねばならぬと思った権兵衛だが、今はそんな事よりも重要な話がある。
紫乃が、お勝手から顔を出すと、居間に来るように命じた。
それは融資を得るための条件が、紫乃に大きく関係していたからである。
ほどなくして、妻がやって来ると自分の前に座らせた。
咳ばらいを一つした後、権兵衛はつらつらと山村屋の歴史を語り出す。
要は百年以上続いて、自分が今、五代目だということを言いたいのだが、ここら辺は酒に酔うと、いつも権兵衛に聞かされる話なので、紫乃にとっては耳にタコであった。
本題は、その次にある。
「今、山村屋は非常に厳しい状況にあるのだが、さるお方から融資の話をいただいている」
「それは、ありがたいことでございますね」
紫乃は相槌を打ちながらも、そこまで経営状態が悪いことを初めて知るのだった。
藩御用聞きから外れたのは確かに痛手だったが、それを挽回しようとして権兵衛が他の事業に手を出したのが、ケチのつき始めと記憶する。
その新事業とやらに失敗し、先月、店をたたんだことは、すでに耳に入っていた。
紫乃からすれば、地道に呉服屋だけの商売をしていれば、いいと思うのだが、権兵衛にとって、自分の代で呉服所ではなくなったことが、よほど気にくわないのであろう。
何としても自分の手で山村屋の隆盛を極めたいと考えているようだった。
「それで、融資についてだが、ある条件がある」
それは当然そうなる。ただで金子を出す物好きなどいないことくらい、あまり商売に携わっていない紫乃にだって分かることだ。
「それは、どのような条件なのでしょうか?」
そう問いかけると、権兵衛の目が妖しく光った。紫乃は、嫌な予感に見舞われるのだった。
「先方は、『紫白一対の茶器』を所望している」
「えっ」
紫乃は、思わず絶句する。それは嫁入りの際に、父から頂いた大切な茶器なのだ。
その父親は、すでに他界しており、言わば形見とも呼べる品。
おいそれと、他人に渡せるものではない。それに・・・
「私が大事にしているものと知って、おっしゃっていますか?」
「分かっているが、お前もすでに山村屋の人間だ。お家のために尽くすのは、当然のことだろう」
権兵衛は紫乃に頼むでもなく命令をしてきている。その当たり前のように、何でも思い通りになるという態度が癪に障った。
手をついて頭を下げて来るのなら、紫乃も少しは考えたかもしれないのだが、これでは納得のしようがない。
紫乃は権兵衛と結婚して、三年。初めて、反抗するのである。
「お断りします。あれは父の形見、私の大切な茶器をお渡しすることはできません」
「何だと」
権兵衛は激高し、立ち上がった。そして、その勢いで紫乃に手をあげる。
「お前の意見など聞いていない。こちらは気を聞かせて、前もって報告してやったのに、何だ、その態度は!」
叩かれた勢いで畳の上に倒れた紫乃は、キッと睨み返すが権兵衛は痛痒を感じない。
この家では、自分が絶対だという自負があるのだった。
「勝手に持っていくぞ」
「お止めください」
足元にすがる紫乃を振り払って、権兵衛は居間を出て行く。
紫乃の部屋で家探しをするつもりなのだろう。
だが、茶器はすぐに見つかると思われる。紫乃がそれは大切に、毎日、磨いては見やすい場所に置いているからだ。
ただ、それでは、権兵衛は絶対に納得しないことも知っている。
あの茶器だけでは、一対とはならないためだ。
紫乃は急いで、文をしたためる準備を始めた。妹に、この家には絶対に近づかないよう伝える必要があるからである。
そこに権兵衛が、すごい勢いで戻って来た。
「もう一つの茶器はどこだ?」
紫乃は口を固く結び、答えるのを拒絶する。
権兵衛の罵声と激しい追及も、血を分けた妹のことを思えば耐えることができた。
いずれ、もう一つの茶器の所有者を権兵衛に気づかれるとしても、自分の口からは決して、妹が持っているとは言うまいと誓う紫乃だった。
※1 呉服所:大名などの御用聞きとなる呉服店のこと
これまで玉縄藩の御用聞きとして、商売繁盛していたのだが、本多正信の死去に伴い、藩主が新しく松平正綱に代わった途端、呉服所※1の看板を下ろすことになったからである。
玉縄藩からの仕事がなくなると、次第に経営は傾き始め、五代目である権兵衛の顔は日に日に険しいものへと変わっていく。
そこに店を立て直すための融資の話が舞い込んだ。
但し、それにはある条件が示されるのだった。
権兵衛は、その条件を満たすため、妻の紫乃を屋敷内で探す。
「紫乃、紫乃はどこへ行った?」
「はい。こちらです」
お勝手から、妻の声が聞こえてくるのに対して、権兵衛は、あからさまに嫌な顔をした。
恐らく、夕食の準備をしているのだろうが、そのような事は他の家の者に任せるように、いつも言っていたのである。
ところが、働き者の紫乃は、体を動かしていないと気がすまないらしく、ついつい手伝いをしてしまうようだった。
また、言い聞かせねばならぬと思った権兵衛だが、今はそんな事よりも重要な話がある。
紫乃が、お勝手から顔を出すと、居間に来るように命じた。
それは融資を得るための条件が、紫乃に大きく関係していたからである。
ほどなくして、妻がやって来ると自分の前に座らせた。
咳ばらいを一つした後、権兵衛はつらつらと山村屋の歴史を語り出す。
要は百年以上続いて、自分が今、五代目だということを言いたいのだが、ここら辺は酒に酔うと、いつも権兵衛に聞かされる話なので、紫乃にとっては耳にタコであった。
本題は、その次にある。
「今、山村屋は非常に厳しい状況にあるのだが、さるお方から融資の話をいただいている」
「それは、ありがたいことでございますね」
紫乃は相槌を打ちながらも、そこまで経営状態が悪いことを初めて知るのだった。
藩御用聞きから外れたのは確かに痛手だったが、それを挽回しようとして権兵衛が他の事業に手を出したのが、ケチのつき始めと記憶する。
その新事業とやらに失敗し、先月、店をたたんだことは、すでに耳に入っていた。
紫乃からすれば、地道に呉服屋だけの商売をしていれば、いいと思うのだが、権兵衛にとって、自分の代で呉服所ではなくなったことが、よほど気にくわないのであろう。
何としても自分の手で山村屋の隆盛を極めたいと考えているようだった。
「それで、融資についてだが、ある条件がある」
それは当然そうなる。ただで金子を出す物好きなどいないことくらい、あまり商売に携わっていない紫乃にだって分かることだ。
「それは、どのような条件なのでしょうか?」
そう問いかけると、権兵衛の目が妖しく光った。紫乃は、嫌な予感に見舞われるのだった。
「先方は、『紫白一対の茶器』を所望している」
「えっ」
紫乃は、思わず絶句する。それは嫁入りの際に、父から頂いた大切な茶器なのだ。
その父親は、すでに他界しており、言わば形見とも呼べる品。
おいそれと、他人に渡せるものではない。それに・・・
「私が大事にしているものと知って、おっしゃっていますか?」
「分かっているが、お前もすでに山村屋の人間だ。お家のために尽くすのは、当然のことだろう」
権兵衛は紫乃に頼むでもなく命令をしてきている。その当たり前のように、何でも思い通りになるという態度が癪に障った。
手をついて頭を下げて来るのなら、紫乃も少しは考えたかもしれないのだが、これでは納得のしようがない。
紫乃は権兵衛と結婚して、三年。初めて、反抗するのである。
「お断りします。あれは父の形見、私の大切な茶器をお渡しすることはできません」
「何だと」
権兵衛は激高し、立ち上がった。そして、その勢いで紫乃に手をあげる。
「お前の意見など聞いていない。こちらは気を聞かせて、前もって報告してやったのに、何だ、その態度は!」
叩かれた勢いで畳の上に倒れた紫乃は、キッと睨み返すが権兵衛は痛痒を感じない。
この家では、自分が絶対だという自負があるのだった。
「勝手に持っていくぞ」
「お止めください」
足元にすがる紫乃を振り払って、権兵衛は居間を出て行く。
紫乃の部屋で家探しをするつもりなのだろう。
だが、茶器はすぐに見つかると思われる。紫乃がそれは大切に、毎日、磨いては見やすい場所に置いているからだ。
ただ、それでは、権兵衛は絶対に納得しないことも知っている。
あの茶器だけでは、一対とはならないためだ。
紫乃は急いで、文をしたためる準備を始めた。妹に、この家には絶対に近づかないよう伝える必要があるからである。
そこに権兵衛が、すごい勢いで戻って来た。
「もう一つの茶器はどこだ?」
紫乃は口を固く結び、答えるのを拒絶する。
権兵衛の罵声と激しい追及も、血を分けた妹のことを思えば耐えることができた。
いずれ、もう一つの茶器の所有者を権兵衛に気づかれるとしても、自分の口からは決して、妹が持っているとは言うまいと誓う紫乃だった。
※1 呉服所:大名などの御用聞きとなる呉服店のこと
2
お気に入りに追加
16
あなたにおすすめの小説
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
陸のくじら侍 -元禄の竜-
陸 理明
歴史・時代
元禄時代、江戸に「くじら侍」と呼ばれた男がいた。かつて武士であるにも関わらず鯨漁に没頭し、そして誰も知らない理由で江戸に流れてきた赤銅色の大男――権藤伊佐馬という。海の巨獣との命を削る凄絶な戦いの果てに会得した正確無比な投げ銛術と、苛烈なまでの剛剣の使い手でもある伊佐馬は、南町奉行所の戦闘狂の美貌の同心・青碕伯之進とともに江戸の悪を討ちつつ、日がな一日ずっと釣りをして生きていくだけの暮らしを続けていた……
天竜川で逢いましょう 起きたら関ヶ原の戦い直前の石田三成になっていた 。そもそも現代人が生首とか無理なので平和な世の中を作ろうと思います。
岩 大志
歴史・時代
ごくありふれた高校教師津久見裕太は、ひょんなことから頭を打ち、気を失う。
けたたましい轟音に気付き目を覚ますと多数の軍旗。
髭もじゃの男に「いよいよですな。」と、言われ混乱する津久見。
戦国時代の大きな分かれ道のド真ん中に転生した津久見はどうするのか!?
三賢人の日本史
高鉢 健太
歴史・時代
とある世界線の日本の歴史。
その日本は首都は京都、政庁は江戸。幕末を迎えた日本は幕府が勝利し、中央集権化に成功する。薩摩?長州?負け組ですね。
なぜそうなったのだろうか。
※小説家になろうで掲載した作品です。
父(とと)さん 母(かか)さん 求めたし
佐倉 蘭
歴史・時代
★第10回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★
ある日、丑丸(うしまる)の父親が流行病でこの世を去った。
貧乏裏店(長屋)暮らしゆえ、家守(大家)のツケでなんとか弔いを終えたと思いきや……
脱藩浪人だった父親が江戸に出てきてから知り合い夫婦(めおと)となった母親が、裏店の連中がなけなしの金を叩いて出し合った線香代(香典)をすべて持って夜逃げした。
齢八つにして丑丸はたった一人、無一文で残された——
※「今宵は遣らずの雨」 「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
東洲斎写楽の懊悩
橋本洋一
歴史・時代
時は寛政五年。長崎奉行に呼ばれ出島までやってきた江戸の版元、蔦屋重三郎は囚われの身の異国人、シャーロック・カーライルと出会う。奉行からシャーロックを江戸で世話をするように脅されて、渋々従う重三郎。その道中、シャーロックは非凡な絵の才能を明らかにしていく。そして江戸の手前、箱根の関所で詮議を受けることになった彼ら。シャーロックの名を訊ねられ、咄嗟に出たのは『写楽』という名だった――江戸を熱狂した写楽の絵。描かれた理由とは? そして金髪碧眼の写楽が江戸にやってきた目的とは?
独裁者・武田信玄
いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます!
平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。
『事実は小説よりも奇なり』
この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに……
歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。
過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い
【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形
【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人
【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある
【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
武蔵要塞1945 ~ 戦艦武蔵あらため第34特別根拠地隊、沖縄の地で斯く戦えり
もろこし
歴史・時代
史実ではレイテ湾に向かう途上で沈んだ戦艦武蔵ですが、本作ではからくも生き残り、最終的に沖縄の海岸に座礁します。
海軍からは見捨てられた武蔵でしたが、戦力不足に悩む現地陸軍と手を握り沖縄防衛の中核となります。
無敵の要塞と化した武蔵は沖縄に来襲する連合軍を次々と撃破。その活躍は連合国の戦争計画を徐々に狂わせていきます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる