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第3章 家光の元服 編
第27話 登羽の心情
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鬼の形相のお多江。
その前にしゅんとして、大人しく座る女性が二人。
散々、暴れまくった二人がようやく落ち着いたのだが、冷静になってから、辺りを見回すと、柏屋の中が酷い惨状になっていることに猛省した。
恥ずかしさと相まって、穴があったら入りたい気分となる。
体を小さくする女性の名は、登羽ともう一人の方は、美代と名乗った。
「それで、登羽さんは由吉さんと離縁したいということだけど、美代さんはどういう理由で、こちらに来たんだい?」
「私も由吉さんと離縁したいです」
「はぁ?」
おかしな声を上げたのは登羽である。その流れを真に受ければ、由吉が行ったのは、単なる浮気ではすまなくなった。
何と美代とも祝言を挙げていたことになるのだ。
素っ頓狂な声もあげたくなるというもの。
信じていた日常生活が崩れ去っていく。
後の世には整備されることだが、婚姻届けは不要だが別れるときには離縁状が必要というおかしな時代。
一応、戸籍代わりの人別改帳はあるものの、それほど、厳密というわけではなかった。
由吉がいい加減な男であった場合、十分に考えらえるとお多江は踏む。
「ちょいと、喧嘩はやめとくれよ。それじゃあ、二人とも離縁でいいんだね」
手続きを続けようとお多江は、そう言いながら筆を走らせる。
ところが、「それは困ります」と、異口同音の予想外の答えが返って来るのだった。
「な、何だい。離縁したいんじゃなかったのかい?」
「私はしたいです・・・」
「私もそうです。・・・でも」
何だが二人とも含みがある言い方である。自身の決断が揺らいだようにも見えず、どういう心情なのかお多江には、さっぱり理解できなかった。
利平や天秀を顧みるが、当然、二人にも分かるわけがない。
「この人の離縁は認めないでください」
「そ、それなら、反対にこの人の離縁を認めないでください」
登羽と美代は互いに指をさして、懇願する。これは、一体、どういう状況だろうか?
お多江は、ますます混乱してしまった。
自分のための縁切りである。この東慶寺を訪れる女たちは、自分のことで精一杯という者が大半であり、人の事をとやかく言うなんて、通常ないことだ。
「ちょ、ちょっと待っとくれ。何だって、そんなことを言い出すのさ?」
「由吉さんを一人にしちゃあ、可愛そうじゃないですか」
美代がそう言うと、登羽も頷いた。
「まぁ、あの人が一人で、生活できるとは思えないからねぇ」
二人して、別れようとしている亭主のことを本気で心配しているのである。
こんなこと、お多江が御用宿に務めるようになってから、初めてのことだ。
「お多江さん。一人ずつ、お話を伺った方がいいかもしれません」
天秀が提案するように、この二人は分けて話を聞いた方が良さそうだ。
そもそも身元調べは、まとめて実施するものではない。今回は、変な騒ぎが起こったので、その流れでやってしまったが、お多江は通常営業に戻すことにする。
まずは、先にやって来た登羽の方から、改めて身元調べを開始した。
「それじゃあ、再開するけど、離縁の理由は美代さんの件でいいのかい?」
登羽は頷くと、由吉と美代が会っている現場に偶然、出くわしたのが発端だったと話し始める。
但し、それは男と女の密会で連想するような甘い濡れ場などではなく、乱闘寸前の修羅場だったそうだ。
由吉は、暴漢のような男たちから美代を必死に庇い、そんな由吉に美代がしがみつく。
その様子に登羽は、二人の間にはしっかりと結ばれた絆があると、遠目でも分かったと認めた。
偶然か、運命のいたずらか。ただ、見てしまった以上、この二人の間に割って入ることはせず、大人しく身を引こうと決断したらしい。
この話を聞いてお多江は、登羽が由吉のことを、まだ想っていることが十分に伝わった。
だからこそ、美代が由吉と離縁するのを阻止したいと考えているのだろう。
登羽の心情については、十分に理解するのだった。
そして、次に招いたのは美代である。
登羽の話を信用すれば、二人は相思相愛の関係だと思われた。
それが、どうして決別の道を選ばなければならなかったのか?
お多江としても、非常に気になるところだった。
美代がやって来たので、その辺を含めて確認しようと、新しく台帳の準備をする。
「どうぞ、そちらに腰を掛け下さいな」
促されるまま、美代はお多江の対面に腰を下ろした。
「それじゃあ、美代さんは、どうして由吉さんと別れようと思ったんだい?」
「・・・なさい」
「えっ?」
美代の声が予想外に小さくお多江はよく聞き取れない。もう一度、確認しようとするが、声をかけるのを躊躇った。
美代の膝の上に置いてあった手の上に、涙の雫が落ちたのである。
そして、今度ははっきりと大きな声で、「ごめんなさい」と美代が言ったのだ。
「ごめんなさいって、一体、どういうことなのさ?」
お多江の問いかけにも涙を流しながら、首を振るだけ。これでは、一向に埒が明かないのだ。
「お茶を持ってきます」
身元調べの内容には口を出せないが、こういった提案はできる。天秀が立ち上がると、お多江も「そうだね」と、了承した。
改めて、肩を震わす美代を見ながらため息を漏らす。
本日の身元調べは、長くかかりそうだと思ったからだった。
その前にしゅんとして、大人しく座る女性が二人。
散々、暴れまくった二人がようやく落ち着いたのだが、冷静になってから、辺りを見回すと、柏屋の中が酷い惨状になっていることに猛省した。
恥ずかしさと相まって、穴があったら入りたい気分となる。
体を小さくする女性の名は、登羽ともう一人の方は、美代と名乗った。
「それで、登羽さんは由吉さんと離縁したいということだけど、美代さんはどういう理由で、こちらに来たんだい?」
「私も由吉さんと離縁したいです」
「はぁ?」
おかしな声を上げたのは登羽である。その流れを真に受ければ、由吉が行ったのは、単なる浮気ではすまなくなった。
何と美代とも祝言を挙げていたことになるのだ。
素っ頓狂な声もあげたくなるというもの。
信じていた日常生活が崩れ去っていく。
後の世には整備されることだが、婚姻届けは不要だが別れるときには離縁状が必要というおかしな時代。
一応、戸籍代わりの人別改帳はあるものの、それほど、厳密というわけではなかった。
由吉がいい加減な男であった場合、十分に考えらえるとお多江は踏む。
「ちょいと、喧嘩はやめとくれよ。それじゃあ、二人とも離縁でいいんだね」
手続きを続けようとお多江は、そう言いながら筆を走らせる。
ところが、「それは困ります」と、異口同音の予想外の答えが返って来るのだった。
「な、何だい。離縁したいんじゃなかったのかい?」
「私はしたいです・・・」
「私もそうです。・・・でも」
何だが二人とも含みがある言い方である。自身の決断が揺らいだようにも見えず、どういう心情なのかお多江には、さっぱり理解できなかった。
利平や天秀を顧みるが、当然、二人にも分かるわけがない。
「この人の離縁は認めないでください」
「そ、それなら、反対にこの人の離縁を認めないでください」
登羽と美代は互いに指をさして、懇願する。これは、一体、どういう状況だろうか?
お多江は、ますます混乱してしまった。
自分のための縁切りである。この東慶寺を訪れる女たちは、自分のことで精一杯という者が大半であり、人の事をとやかく言うなんて、通常ないことだ。
「ちょ、ちょっと待っとくれ。何だって、そんなことを言い出すのさ?」
「由吉さんを一人にしちゃあ、可愛そうじゃないですか」
美代がそう言うと、登羽も頷いた。
「まぁ、あの人が一人で、生活できるとは思えないからねぇ」
二人して、別れようとしている亭主のことを本気で心配しているのである。
こんなこと、お多江が御用宿に務めるようになってから、初めてのことだ。
「お多江さん。一人ずつ、お話を伺った方がいいかもしれません」
天秀が提案するように、この二人は分けて話を聞いた方が良さそうだ。
そもそも身元調べは、まとめて実施するものではない。今回は、変な騒ぎが起こったので、その流れでやってしまったが、お多江は通常営業に戻すことにする。
まずは、先にやって来た登羽の方から、改めて身元調べを開始した。
「それじゃあ、再開するけど、離縁の理由は美代さんの件でいいのかい?」
登羽は頷くと、由吉と美代が会っている現場に偶然、出くわしたのが発端だったと話し始める。
但し、それは男と女の密会で連想するような甘い濡れ場などではなく、乱闘寸前の修羅場だったそうだ。
由吉は、暴漢のような男たちから美代を必死に庇い、そんな由吉に美代がしがみつく。
その様子に登羽は、二人の間にはしっかりと結ばれた絆があると、遠目でも分かったと認めた。
偶然か、運命のいたずらか。ただ、見てしまった以上、この二人の間に割って入ることはせず、大人しく身を引こうと決断したらしい。
この話を聞いてお多江は、登羽が由吉のことを、まだ想っていることが十分に伝わった。
だからこそ、美代が由吉と離縁するのを阻止したいと考えているのだろう。
登羽の心情については、十分に理解するのだった。
そして、次に招いたのは美代である。
登羽の話を信用すれば、二人は相思相愛の関係だと思われた。
それが、どうして決別の道を選ばなければならなかったのか?
お多江としても、非常に気になるところだった。
美代がやって来たので、その辺を含めて確認しようと、新しく台帳の準備をする。
「どうぞ、そちらに腰を掛け下さいな」
促されるまま、美代はお多江の対面に腰を下ろした。
「それじゃあ、美代さんは、どうして由吉さんと別れようと思ったんだい?」
「・・・なさい」
「えっ?」
美代の声が予想外に小さくお多江はよく聞き取れない。もう一度、確認しようとするが、声をかけるのを躊躇った。
美代の膝の上に置いてあった手の上に、涙の雫が落ちたのである。
そして、今度ははっきりと大きな声で、「ごめんなさい」と美代が言ったのだ。
「ごめんなさいって、一体、どういうことなのさ?」
お多江の問いかけにも涙を流しながら、首を振るだけ。これでは、一向に埒が明かないのだ。
「お茶を持ってきます」
身元調べの内容には口を出せないが、こういった提案はできる。天秀が立ち上がると、お多江も「そうだね」と、了承した。
改めて、肩を震わす美代を見ながらため息を漏らす。
本日の身元調べは、長くかかりそうだと思ったからだった。
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