キスマーク

凪司工房

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 リノリウムの床の上を俺と水川の足音だけが滑る。
 通路の一番奥まで歩いていき、そこの教室に誰もいないことを確認し、

「え?」

 ドアを開けて中に入った。

「入れよ」
「う、うん」

 水川を机に座らせると、別の机の上に過去問の束を放り出して俺は自分のシャツのボタンを外す。

「は……蜂須賀君」

 露出した鎖骨の下の黒く細い染みに、彼女の指を這わせる。

「これ。そん時のキスマークの痕。ここだけ消えないんだよ」

 目を潤ませて、同情でもしてくれているんだろうか。
 すると彼女はそこを舐めようと口を近づける。

「やめろって」

 顔を押しやり、俺はボタンを留めた。

「何でよ。付き合ってくれてるのに、どうして駄目なの?」
「小学生の時に嫌いになったものを今更好きになれっての、無理だろ」
「じゃあ、代わりに、してよ」

 水川は真剣な表情で薄いブラウスを脱いで、それから背中に腕を回してブラのホックを外そうとする。花柄のブラジャーはたわわな胸を支えているが、カチリ、という音を聞いてそれが脱力した。

「ねえ。キスマーク、つけてよ。知ってるよ。ほんとは、ずっとキスしたかったんでしょ?」

 大きな黒目だな、と思っていた。ふっくらした唇が、震えている。

「さっきの話。本当はミッツもこうして花がキスマークつけてくれるの待ってたんじゃないの? ただされるがままを受け入れているだけの花から本当の愛をもらいたかったんじゃないの?」
「何が本当の愛だよ? いきなり何言い出すんだよ。俺を虐めるのが楽しかっただけだよ」
「虐めるのが愛情表現な人だっているじゃないの!」

 大きな声だった。
 水川は俺の肩を二度押しやり、少しよろめいたのを見てそのまま床に押し倒した。シャツを掴むとそのまま左右に開いてボタンを飛ばす。

「……なん、だよ」

 顎《あご》が震えた。

「やめろ、よ……」
「わたしが……ミッツだよ」

 低い声だった。
 それに続いて水川は胸の上に唇をつける。唾液が温くて、鼓動が早まる。俺は押しのけようと彼女の胸を持ち上げるがそれ以上力が入らない。吸われる。体が、あの日の一輪車倉庫を思い出す。

「花……」

 彼女は熱っぽい声を発して。俺の胸元に吸い付く。音を立て、唾液をからませ、じゅるじゅると汚く吸う。けれどそんな音が出るというのは上手く吸えていないからで、水川は俺にキスマークを付けられない。
 何度挑戦したのだろう。どれくらいの時間そうやってされるがままだったろう。頭がぼんやりとして、彼女に頬を触られてから自分がここにいると気づいた。

「キスマーク……」

 水川に言われ、胸元を見た。やっと一つだけ付いた小さな赤い染みが見つかる。

「違う」
「え……」
「こんなのじゃない」

 途中から分かっていた。彼女は違うって。

「これは、俺が待ってたやつじゃない……お前、ミッツじゃないんだろ?」
「何で!」

 そう叫んで俺の胸を叩く。

「わたしがミッツでいいじゃない!」

 叩く。

「わたしをあなたのミッツにしてよ!」

 何度も。

「あの頃は彼女がずっと恐くて本当のこと言い出せなかったけど、やっと今、花を手に入れたのに」

 叩くことを止めない。

「何で! 何でわたしじゃ駄目なのよ!」。

 叩こうとした手を、受け止めた。

「ミッツのキスマークはもっと鋭くて、全然優しくなんてないんだよ」

 体を起こして水川の背中に腕を回すと、そのまま抱き締める。彼女の胸が押し潰されて、その圧力が心地良い。

「あいつのどうしようもなく攻撃的な、苛立ちや怒りに任せたキスマークの味は、俺が母親にされたそれに、とてもよく似てたんだよ」
「はは、おや?」
「浮気しまくった挙句にヤクザの女に手を出して殺された男を愛した、可哀想な女のことだよ。あいつは俺を親父代わりにしたんだよ。まだ何も分からない俺を、愛してるっていう言葉で縛り付けて、自分のぬめった股間を顔に押し付けて、よがってやがったんだよ!」

 水川の手が、俺の背中に爪を立てた。

「でもそれを我慢したら、ご褒美だって菓子パンやインスタントラーメンをくれた。俺にとって、それが唯一の飯だったんだ……」

 爪は更にきつくなり、背中の皮を引き裂いた。その心地良い痛みに応えて強く抱き締める。

「だから……ずっと待ってたんだ。けど、帰ってこなかった」

 水川の手を振り解いて、押し倒す。
 その瞳は涙で濡れて右目のマスカラが取れている。

「同情してるのか? 俺のこと可哀想なヤツだって思ってんだろ!」

 自分の中に刻まれたあの時のミッツが蘇《よみがえ》る。
 ブラジャーの花柄に手を置いて露出した素肌に唇を合わせる。そこに思い切り歯を立てた。
 あ。という小さな声を上げた彼女は覚悟をしたように目を閉じたが、俺の中のミッツは止まらない。思い切り噛み付いて、痛いと言われても噛み付いて、血が舌先に触れた。
 それを吸い、鉄臭い味が広がると頭の中が真っ赤になって、俺は必死に吸い付いた。

「うれしい……」

 痛いでも苦しいでもなくそう呟いて、水川は胸を震わせる。
 俺は止まらない。止められない。

「……うん。いいよ。もっと、シテ」

 嫌と言わず、ただ受け入れる。まるであの時の俺だ。

「好き。あなたのそれをずっと、待ってたから」

 俺は答えず。ただ必死にキスマークを作る。

「うん……」

 吸う。
 彼女が苦しそうな声を漏らすけれど構わずに吸い続けた。
 いくら吸っても吸っても、俺の乾きは癒《い》えない。

「わたしを、壊して」

 ああ。そうだ。俺は未だにミッツを探している。あのキスマークを、求めているんだ。(了)
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