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彼女が指定した喫茶店は駅から徒歩で十五分ほど歩いた狭い路地にあり、店内には私より十も二十も歳上に見える人ばかりが座って歓談していた。時間の指定は特になかったが、シフトが十二時までだと言っていたので二十分ほど遅れて着くようにやってきたのだが、まだ彼女らしき人影は見えない。
「あの」
店の前でうろついていた私はやはり不審者に映ったのだろうか。誰かに背中越しに声を掛けられ、恐る恐る振り返った。そこに立っていたのは女性だ。後ろで髪をまとめ、黒のロングワンピースにピンクのカーディガンを掛けている。ヒールも黒でかなり高い。化粧は濃く、目の周りが赤っぽい紫色で強調されていた。目を瞬かせると長い付け睫毛が音を立てそうになる。
「何か」
知らない女性、しかも自分の今まで生きてきた人生では近くにいなかったタイプが、私に一体何の用があるというのか。
「わたしです」
詐欺か。
「あの、コンビニで、ゴミ箱の件があってお約束した」
その説明がすぐに店員の女性を示しているとは考えなかった。それくらい、あの疲れた風貌の彼女と今目の前にいる女性はかけ離れている。なかなか私の脳内で同一人物の認定をしなかったが、それでも「ああ」と、とりあえずの頷きを見せると彼女はほっとしたようで、
「それじゃあ、入りましょうか」
私に微笑み掛けてから、店のドアを引いた。
彼女は慣れているようで、店員と交渉し、奥側の外からはちょうど陰になって見づらい二人席へと私たちは案内された。
「ここのビフテキが美味しいんです。あ、オムライスとかナポリタンもですけど」
「それじゃあ久しく食べていないナポリタンでも頼もうかな」
本屋や雑貨屋をぶらついていたけれど、思ったよりはお腹が減っていなかった。彼女はビフテキの他にもエビフライやセットのサラダを選び、食後の飲み物にコーヒーと、それからデザートとしてケーキのアソートを注文した。
「お腹、空いちゃって。いつもはこんなに頼まないんですけどね……生きてることに喜びがないから」
それは今この瞬間はどこかに喜びを感じているということだろうか。私は思ったが、質問にはしなかった。
水を一口飲むと、彼女は一旦周囲の客を見やり、声を潜めて話を切り出した。
「急にお誘いして、これって迷惑でしたか? わたし、迷惑掛けてますか?」
「いえ。もし迷惑だったら断っています。何か距離を感じるとしたら、たぶん、まだ目の前のあなたに見慣れていないから……ああ、そうだ。私は園崎と言います。よく考えたらまだお互いの名前も知らなかった」
「下は?」
「園崎、継春。春を継ぐと書いて継春です」
「春を継ぐと夏なんですかね、それとも秋までいってしまうのか。私は冬子です。大垣冬子。でもずっと髪を長くしているので学生時代のあだ名は定番の貞子でした。雰囲気も、暗かったですし」
おそらく彼女のお決まりの紹介文なのだろう。少し笑うようにしたが、そのすぐ後で目元が過去の記憶を睨むように鋭くなった。
「園崎さんは、自殺願望がありますか?」
彼女の瞳が真っ直ぐに私に向けられる。その質問をするのを楽しみにしていたようで、明らかに私がイエスと答えるのを待ち構えているように思えた。
「本当は先月、私は死んでいるはずでした。でも、それは直前にキャンセルになったんです。私を殺すはずだった友人が、事故で死んでしまったので」
情報量が多かったかも知れない。けれどこの話はどこを省略しても成立しないし、かといって仔細を語るほど、まだ私の中で整理がついてもいない。彼女は考え込み、一人でぶつぶつと口の中で私が言ったフレーズを復唱し、私の表情を何度か確かめてから、言葉もなく、二度、大きく頷いた。
「それは自殺願望とは云えないと思うんだが、大垣さんからすれば同じことだろうか」
「私のしょぼい希望よりも、園崎さんの方がずっと素敵です。もしそれが成立していたなら、わたしからすれば最高の最期だったでしょう。失礼ですが、その後で自ら死のうとは思わなかったんですか?」
「そういうことは全然考えませんでしたね。死にたかった訳じゃ、ないんで」
どういうこと? と彼女が小首を傾げ、私に話を促す。そういう仕草になる時の彼女は、見た目よりもずっと子どもっぽく感じられた。年齢はいくつだろう。私よりも若いのだろうか。
「死にたかった、いや“死”に魅入られていたのは友人なんです。彼は死ぬ方法をずっと考えてきて、辿り着いた結論が誰かを殺して死刑になるということだった。けれどそれでは他人に酷い迷惑が掛かりますよね。だから、その殺される役を私が買って出たという訳です。私は死にたい訳じゃないけれど、彼に殺されて人生を終えるならそれもいいだろうと、そういう感じですかね」
本当にそうなのかは、私自身もよく分かっていない。ただ気持ちを整理してみると、今言った順序が一番しっくりとくる。
「死ぬことに対しての、というか、殺されることに対しての恐怖はなかったんですか?」
「殺される直前を経験していないので確信はありませんけど、少なくとも前日も平常でしたし、当日の朝、友人の事故死を知るまでも変わりませんでした。ただ」
「ただ?」
「ただ、死の予定日を超えてしまってから、よく分からない、軽い鬱のような症状が続いています。今日も本当は会社に行かなければならないのに、上司からの連絡も無視してしまった」
テーブルの上に置いたスマートフォンは既に電源が切られていたが、あれからも何度か妹尾さんからのメッセージが入っていたり、着信があったりしたが、そのどれも私の気持ちを会社に向けることは出来なかった。ひょっとすると既に私の心は、この目の前のよく分からない、けれどもおそらくは自殺志願者の女性に向いてしまっていたのだろう。
「園崎さん、すごく良いです。私はあなたの考え方や感じ方に、とても共感があります。たぶん私たち、とても合うと思うんです」
「そうかも、しれないね」
「いいえ。そうです。だから、もし迷惑じゃなければ、ですけど」
彼女はやや上目遣いになって私を見た。
「死の予定日まで一緒に暮らしませんか?」
「あの」
店の前でうろついていた私はやはり不審者に映ったのだろうか。誰かに背中越しに声を掛けられ、恐る恐る振り返った。そこに立っていたのは女性だ。後ろで髪をまとめ、黒のロングワンピースにピンクのカーディガンを掛けている。ヒールも黒でかなり高い。化粧は濃く、目の周りが赤っぽい紫色で強調されていた。目を瞬かせると長い付け睫毛が音を立てそうになる。
「何か」
知らない女性、しかも自分の今まで生きてきた人生では近くにいなかったタイプが、私に一体何の用があるというのか。
「わたしです」
詐欺か。
「あの、コンビニで、ゴミ箱の件があってお約束した」
その説明がすぐに店員の女性を示しているとは考えなかった。それくらい、あの疲れた風貌の彼女と今目の前にいる女性はかけ離れている。なかなか私の脳内で同一人物の認定をしなかったが、それでも「ああ」と、とりあえずの頷きを見せると彼女はほっとしたようで、
「それじゃあ、入りましょうか」
私に微笑み掛けてから、店のドアを引いた。
彼女は慣れているようで、店員と交渉し、奥側の外からはちょうど陰になって見づらい二人席へと私たちは案内された。
「ここのビフテキが美味しいんです。あ、オムライスとかナポリタンもですけど」
「それじゃあ久しく食べていないナポリタンでも頼もうかな」
本屋や雑貨屋をぶらついていたけれど、思ったよりはお腹が減っていなかった。彼女はビフテキの他にもエビフライやセットのサラダを選び、食後の飲み物にコーヒーと、それからデザートとしてケーキのアソートを注文した。
「お腹、空いちゃって。いつもはこんなに頼まないんですけどね……生きてることに喜びがないから」
それは今この瞬間はどこかに喜びを感じているということだろうか。私は思ったが、質問にはしなかった。
水を一口飲むと、彼女は一旦周囲の客を見やり、声を潜めて話を切り出した。
「急にお誘いして、これって迷惑でしたか? わたし、迷惑掛けてますか?」
「いえ。もし迷惑だったら断っています。何か距離を感じるとしたら、たぶん、まだ目の前のあなたに見慣れていないから……ああ、そうだ。私は園崎と言います。よく考えたらまだお互いの名前も知らなかった」
「下は?」
「園崎、継春。春を継ぐと書いて継春です」
「春を継ぐと夏なんですかね、それとも秋までいってしまうのか。私は冬子です。大垣冬子。でもずっと髪を長くしているので学生時代のあだ名は定番の貞子でした。雰囲気も、暗かったですし」
おそらく彼女のお決まりの紹介文なのだろう。少し笑うようにしたが、そのすぐ後で目元が過去の記憶を睨むように鋭くなった。
「園崎さんは、自殺願望がありますか?」
彼女の瞳が真っ直ぐに私に向けられる。その質問をするのを楽しみにしていたようで、明らかに私がイエスと答えるのを待ち構えているように思えた。
「本当は先月、私は死んでいるはずでした。でも、それは直前にキャンセルになったんです。私を殺すはずだった友人が、事故で死んでしまったので」
情報量が多かったかも知れない。けれどこの話はどこを省略しても成立しないし、かといって仔細を語るほど、まだ私の中で整理がついてもいない。彼女は考え込み、一人でぶつぶつと口の中で私が言ったフレーズを復唱し、私の表情を何度か確かめてから、言葉もなく、二度、大きく頷いた。
「それは自殺願望とは云えないと思うんだが、大垣さんからすれば同じことだろうか」
「私のしょぼい希望よりも、園崎さんの方がずっと素敵です。もしそれが成立していたなら、わたしからすれば最高の最期だったでしょう。失礼ですが、その後で自ら死のうとは思わなかったんですか?」
「そういうことは全然考えませんでしたね。死にたかった訳じゃ、ないんで」
どういうこと? と彼女が小首を傾げ、私に話を促す。そういう仕草になる時の彼女は、見た目よりもずっと子どもっぽく感じられた。年齢はいくつだろう。私よりも若いのだろうか。
「死にたかった、いや“死”に魅入られていたのは友人なんです。彼は死ぬ方法をずっと考えてきて、辿り着いた結論が誰かを殺して死刑になるということだった。けれどそれでは他人に酷い迷惑が掛かりますよね。だから、その殺される役を私が買って出たという訳です。私は死にたい訳じゃないけれど、彼に殺されて人生を終えるならそれもいいだろうと、そういう感じですかね」
本当にそうなのかは、私自身もよく分かっていない。ただ気持ちを整理してみると、今言った順序が一番しっくりとくる。
「死ぬことに対しての、というか、殺されることに対しての恐怖はなかったんですか?」
「殺される直前を経験していないので確信はありませんけど、少なくとも前日も平常でしたし、当日の朝、友人の事故死を知るまでも変わりませんでした。ただ」
「ただ?」
「ただ、死の予定日を超えてしまってから、よく分からない、軽い鬱のような症状が続いています。今日も本当は会社に行かなければならないのに、上司からの連絡も無視してしまった」
テーブルの上に置いたスマートフォンは既に電源が切られていたが、あれからも何度か妹尾さんからのメッセージが入っていたり、着信があったりしたが、そのどれも私の気持ちを会社に向けることは出来なかった。ひょっとすると既に私の心は、この目の前のよく分からない、けれどもおそらくは自殺志願者の女性に向いてしまっていたのだろう。
「園崎さん、すごく良いです。私はあなたの考え方や感じ方に、とても共感があります。たぶん私たち、とても合うと思うんです」
「そうかも、しれないね」
「いいえ。そうです。だから、もし迷惑じゃなければ、ですけど」
彼女はやや上目遣いになって私を見た。
「死の予定日まで一緒に暮らしませんか?」
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