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其の弐 ぬいぐるみを捨てるためのぬいぐるみ屋
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京都の街は夏の夕暮れともなると、通りには浴衣姿になった観光客がちらほらと目に付くようになる。まだ昼の熱気が残っている路地に、着物姿で打ち水をしている老婆の姿を見ると初夏を感じるが、そろそろ店終いだとその狭い路地を戻り、店の軒先に掛けられた『ぬいぐるみ承〼』という手書きの文字が印刷された暖簾を下げる。
がらりと木戸を開けて薄暗い店内に戻ると、そこに小さな女の子が座っていた。足を曲げ、スカートをひざ掛けのようにして、その上でタヌキのぬいぐるみを抱いている。髪型はおかっぱだが前髪が長く目元はよく見えない。けれどこちらを見てその小さな唇が動いたのが分かった。
「おじさん、これ、引き取ってくれる?」
これ――と差し出したのはそのタヌキだ。右の目玉が取れ、お腹は破れて中綿が出ている。手足は汚れ、何とも酷い有様だ。
「また随分と年代物だねえ」
「ここ、ぬいぐるみを捨てていい場所なんでしょ?」
「捨てる? いや、そんな場所じゃあない。うちはね、そういう捨てられることになったものたちを預かって、きちんと直してやる店なんだ。良かったらそのタヌキもちゃんと元通りにしてあげるよ」
けれどその子は首を横に振ると「これ、捨てないといけないんだ」と言った。何やら訳ありなのだろう。しかしここではその事情を尋ねたりはしない。深入りしない、というのもこの街で生きる上で大切な決まり事だからだ。
「分かった。それじゃあそいつはうちで引き取るとしよう。ああ、お代はいいよ」
そう口にするまでもなく女の子は足元にタヌキを置いて、さっさと店を出ていく。最近の子どもというのは何とも愛想のないものだ。
大事にしていたものではなかったのだろうか。拾い上げるとそれが随分と土で汚れているのが分かった。しかも湿った枯れ草がタヌキのお尻に貼り付いている。それを剥がして店の前に捨てると、地面に落ちる前に風がそれを巻き上げ、空高くに飛ばしてしまった。
その視線を戻すと、狭い脇路地が表の通りに面しているその隙間に、頭をすっぽりと覆う籠を被った僧侶――いわゆる虚無僧と呼ばれるスタイルだろう、その僧が一人立ち、じっとこちらを見ていた。しかし会釈も何もする間もなくさっと立ち去ってしまう。
不意に首筋に寒気を感じたが、夏の夕暮れというのはよくアレが出るとも聞く。さっさと店に入り戸締まりをすると、カウンターの裏から居室へと戻った。
翌日も蝉の鳴き声がよく通る晴れだった。
その日の夕方にも、また女の子はぬいぐるみを持って現れた。今度はタヌキではなく、犬と猫だ。どちらも酷く汚れ、手や足が取れている。
「ここ、ぬいぐるみを捨てていいんでしょ?」
「昨日も言ったが捨てる場所じゃあない。預かってきちんと直すんだ。そうだ。昨日のタヌキも今直しているところだ」
そう言って前髪の長い女の子を店先で待たせると、奥に入り、まだマチ針が刺さっているが破れたお腹は仮縫いで閉じられているタヌキのぬいぐるみを手に取った。
「どうかね?」
「これはわたしのじゃない」
「誰のものかは知らないし、興味もない。それより明日には直しておくから、良かったら取りに来なさい」
「これ」
けれど女の子はそのタヌキに興味がないのか、手足の取れた犬と猫を差し出すと、私がなかなか受け取らないのに不機嫌な口元を見せ、足元に置いて走り去ってしまった。
子どもというのは元々よく分からない生き物だが、最近の子は輪を掛けて理解出来ない。頭を振り、置かれた二体のぬいぐるみを拾うと、店内へと戻った。
次の日も女の子は別のぬいぐるみを抱え、やってきた。今度は人間のぬいぐるみだ。それはスカートを履いていたからおそらくは女の子で、黄色の髪の毛が半分抜けてしまっていた。しかも今日のはいつものように土で汚れていないし、新品に見えた。
「なんとも酷いね。これは今すぐ直してあげよう」
「ううん。これ、捨てるの」
「あのね。何度も言うがここは」
「だって捨ててきなさいって言うんだもの」
「お母さんがそう言うのかい?」
「お前には女の子の玩具は似合わないから捨ててきなさいって言うんだもの!」
そう叫ぶとその子は手にしていた女の子のぬいぐるみを思い切り床に叩きつけ、そのまま走り去って行ってしまった。
誰だって色々な事情を抱えて生きている。あの子を最初に見たとき、それこそ自分も女の子だと認識をした。けれどおそらくは女の子ではないのだろう。少なくとも彼、いや、彼女の母親にとって彼は男の子なのだ。
地面にだらりと寝そべっている髪の抜けた女の子のぬいぐるみを拾うと、それを手に店へと戻る。
カウンターには大量の種類の糸が虹色に並べてある。その一つを手に取り、針穴に通すと、ちぎれかけた腕や足を縫い合わせる。次いで新しい黄色い毛糸を適当な長さに切り揃え、抜けてしまった髪の毛の部分に植えた。汚れはそれほどではなかったが、軽くブラシを掛けて埃を落とし、それから中性洗剤を薄めたものをスポンジに付け、軽く表面を叩いていく。軽い汚れならわざわざ洗ったりする必要はない。汚れが落ちたら硬く絞った布巾で洗剤を落とし、あとは自然乾燥すれば綺麗に戻る。
今は何でも捨てて新しいものを買えば良い、という風潮がある。けれど捨てられたものはゴミにしかならない。それはゴミをどんどん作ってしまえ、という言葉の言い換えのようにも、思うのだ。
このぬいぐるみ屋には新しいものは一体として置かれていない。全てが何か訳アリの物ばかりだ。
長く使えば、大切にすれば、その物にも魂が宿る。そう昔の人は言った。果たしてここにあるぬいぐるみにそんなものがあるかどうかは知らないが、囲まれていると不思議と一人ではない、と感じる。
外はいつの間にか日暮れとなり、そろそろ店仕舞いだとカウンターから出る。
まだ昼間の熱気が残り、暖簾も温かい。
「すまないが」
「はい?」
振り返ると、先日の虚無僧が立っていた。その手には一体のぬいぐるみがある。動物ではなく、人間の、それも男の子のものだ。
「どうかされましたか」
「こちらは壊れたり傷ついたりした物を引き取ってくれると伺ったのだが」
「ええ。お直ししますよ」
「いや。これは私の物ではない。だから返却の必要はないのだ」
「そうですか。それでも構いません。お預かりします」
その虚無僧は男の子のぬいぐるみを差し出すと、何故か小さなため息を落とした。
「やはり、どうかされましたか」
「ずっと、ここにいるのか」
「ええ、そうですね。ずっとここで店を出させてもらっています」
「そうか」
それだけ言うと背を向け、草履の掠れた足音をさせながら店から歩き去っていった。
男の子のぬいぐるみは前髪が長く、それで目元が隠されている。しかもそれはスカートを履いていた。
カウンターに戻ると、丁寧にブラシを掛け、埃を落とし、それから破れたスカートを補修する。あの男の子はまだ、スカートを履いているだろうか。
店の戸が音もなく閉じると、明かりが消えた。
※
京都という街は少し歩けば人が一人、通れるか通れないかといったような狭い路地が幾つも見つかる。その奥には時々奇妙な店が暖簾を出していることがある。
私は被っていた笠を取り、改めてその場所を見た。
かつては古い民家が建っていたというが、そこには今、何もない。
そう思っていたが、風で落ち葉が流れていくと、そこに何かが現れた。それは一体のぬいぐるみだ。ふてぶてしいタヌキが、その手に小さな男の子の人形を抱えている、そんなぬいぐるみだった。(了)
がらりと木戸を開けて薄暗い店内に戻ると、そこに小さな女の子が座っていた。足を曲げ、スカートをひざ掛けのようにして、その上でタヌキのぬいぐるみを抱いている。髪型はおかっぱだが前髪が長く目元はよく見えない。けれどこちらを見てその小さな唇が動いたのが分かった。
「おじさん、これ、引き取ってくれる?」
これ――と差し出したのはそのタヌキだ。右の目玉が取れ、お腹は破れて中綿が出ている。手足は汚れ、何とも酷い有様だ。
「また随分と年代物だねえ」
「ここ、ぬいぐるみを捨てていい場所なんでしょ?」
「捨てる? いや、そんな場所じゃあない。うちはね、そういう捨てられることになったものたちを預かって、きちんと直してやる店なんだ。良かったらそのタヌキもちゃんと元通りにしてあげるよ」
けれどその子は首を横に振ると「これ、捨てないといけないんだ」と言った。何やら訳ありなのだろう。しかしここではその事情を尋ねたりはしない。深入りしない、というのもこの街で生きる上で大切な決まり事だからだ。
「分かった。それじゃあそいつはうちで引き取るとしよう。ああ、お代はいいよ」
そう口にするまでもなく女の子は足元にタヌキを置いて、さっさと店を出ていく。最近の子どもというのは何とも愛想のないものだ。
大事にしていたものではなかったのだろうか。拾い上げるとそれが随分と土で汚れているのが分かった。しかも湿った枯れ草がタヌキのお尻に貼り付いている。それを剥がして店の前に捨てると、地面に落ちる前に風がそれを巻き上げ、空高くに飛ばしてしまった。
その視線を戻すと、狭い脇路地が表の通りに面しているその隙間に、頭をすっぽりと覆う籠を被った僧侶――いわゆる虚無僧と呼ばれるスタイルだろう、その僧が一人立ち、じっとこちらを見ていた。しかし会釈も何もする間もなくさっと立ち去ってしまう。
不意に首筋に寒気を感じたが、夏の夕暮れというのはよくアレが出るとも聞く。さっさと店に入り戸締まりをすると、カウンターの裏から居室へと戻った。
翌日も蝉の鳴き声がよく通る晴れだった。
その日の夕方にも、また女の子はぬいぐるみを持って現れた。今度はタヌキではなく、犬と猫だ。どちらも酷く汚れ、手や足が取れている。
「ここ、ぬいぐるみを捨てていいんでしょ?」
「昨日も言ったが捨てる場所じゃあない。預かってきちんと直すんだ。そうだ。昨日のタヌキも今直しているところだ」
そう言って前髪の長い女の子を店先で待たせると、奥に入り、まだマチ針が刺さっているが破れたお腹は仮縫いで閉じられているタヌキのぬいぐるみを手に取った。
「どうかね?」
「これはわたしのじゃない」
「誰のものかは知らないし、興味もない。それより明日には直しておくから、良かったら取りに来なさい」
「これ」
けれど女の子はそのタヌキに興味がないのか、手足の取れた犬と猫を差し出すと、私がなかなか受け取らないのに不機嫌な口元を見せ、足元に置いて走り去ってしまった。
子どもというのは元々よく分からない生き物だが、最近の子は輪を掛けて理解出来ない。頭を振り、置かれた二体のぬいぐるみを拾うと、店内へと戻った。
次の日も女の子は別のぬいぐるみを抱え、やってきた。今度は人間のぬいぐるみだ。それはスカートを履いていたからおそらくは女の子で、黄色の髪の毛が半分抜けてしまっていた。しかも今日のはいつものように土で汚れていないし、新品に見えた。
「なんとも酷いね。これは今すぐ直してあげよう」
「ううん。これ、捨てるの」
「あのね。何度も言うがここは」
「だって捨ててきなさいって言うんだもの」
「お母さんがそう言うのかい?」
「お前には女の子の玩具は似合わないから捨ててきなさいって言うんだもの!」
そう叫ぶとその子は手にしていた女の子のぬいぐるみを思い切り床に叩きつけ、そのまま走り去って行ってしまった。
誰だって色々な事情を抱えて生きている。あの子を最初に見たとき、それこそ自分も女の子だと認識をした。けれどおそらくは女の子ではないのだろう。少なくとも彼、いや、彼女の母親にとって彼は男の子なのだ。
地面にだらりと寝そべっている髪の抜けた女の子のぬいぐるみを拾うと、それを手に店へと戻る。
カウンターには大量の種類の糸が虹色に並べてある。その一つを手に取り、針穴に通すと、ちぎれかけた腕や足を縫い合わせる。次いで新しい黄色い毛糸を適当な長さに切り揃え、抜けてしまった髪の毛の部分に植えた。汚れはそれほどではなかったが、軽くブラシを掛けて埃を落とし、それから中性洗剤を薄めたものをスポンジに付け、軽く表面を叩いていく。軽い汚れならわざわざ洗ったりする必要はない。汚れが落ちたら硬く絞った布巾で洗剤を落とし、あとは自然乾燥すれば綺麗に戻る。
今は何でも捨てて新しいものを買えば良い、という風潮がある。けれど捨てられたものはゴミにしかならない。それはゴミをどんどん作ってしまえ、という言葉の言い換えのようにも、思うのだ。
このぬいぐるみ屋には新しいものは一体として置かれていない。全てが何か訳アリの物ばかりだ。
長く使えば、大切にすれば、その物にも魂が宿る。そう昔の人は言った。果たしてここにあるぬいぐるみにそんなものがあるかどうかは知らないが、囲まれていると不思議と一人ではない、と感じる。
外はいつの間にか日暮れとなり、そろそろ店仕舞いだとカウンターから出る。
まだ昼間の熱気が残り、暖簾も温かい。
「すまないが」
「はい?」
振り返ると、先日の虚無僧が立っていた。その手には一体のぬいぐるみがある。動物ではなく、人間の、それも男の子のものだ。
「どうかされましたか」
「こちらは壊れたり傷ついたりした物を引き取ってくれると伺ったのだが」
「ええ。お直ししますよ」
「いや。これは私の物ではない。だから返却の必要はないのだ」
「そうですか。それでも構いません。お預かりします」
その虚無僧は男の子のぬいぐるみを差し出すと、何故か小さなため息を落とした。
「やはり、どうかされましたか」
「ずっと、ここにいるのか」
「ええ、そうですね。ずっとここで店を出させてもらっています」
「そうか」
それだけ言うと背を向け、草履の掠れた足音をさせながら店から歩き去っていった。
男の子のぬいぐるみは前髪が長く、それで目元が隠されている。しかもそれはスカートを履いていた。
カウンターに戻ると、丁寧にブラシを掛け、埃を落とし、それから破れたスカートを補修する。あの男の子はまだ、スカートを履いているだろうか。
店の戸が音もなく閉じると、明かりが消えた。
※
京都という街は少し歩けば人が一人、通れるか通れないかといったような狭い路地が幾つも見つかる。その奥には時々奇妙な店が暖簾を出していることがある。
私は被っていた笠を取り、改めてその場所を見た。
かつては古い民家が建っていたというが、そこには今、何もない。
そう思っていたが、風で落ち葉が流れていくと、そこに何かが現れた。それは一体のぬいぐるみだ。ふてぶてしいタヌキが、その手に小さな男の子の人形を抱えている、そんなぬいぐるみだった。(了)
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