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第七章 「初恋」
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どんどん――と絶え間なくドアを叩く音が繰り返される。
「先生?」
「あ、ああ」
気づくと再びスマートフォンが鳴っていた。
慌てて手に取ろうとしたが上手く掴めずに床に転がってしまうと、桜庭美樹が拾い上げて代わりに電話に出てくれる。
「はい。今、ここに二人ともいます」
どうやら相手は村瀬ナツコのようだ。
自分の指先を見ると、小刻みに震えている。
「ええ。分かりました。けど、今ちょうどドアの前に記者の方がいるみたいで……」
美樹は落ち着いて現在の状況を村瀬に伝えているようだったが、耳が遠くなったみたいに、どこか茫洋としてはっきり声が入ってこない。
「先生、今から村瀬さんたちが来てくれるんですけど、何とか表の記者の方の注意を引き付けて欲しいんですって……ねえ先生?」
「分かってる……」
桜庭美樹の話は耳に入ってくるが、まるで遅れてやってきたかのような、女性アレルギィに似た症状だった。少し落ちつく為にゆっくりと呼吸をする。二度、三度と繰り返すうちに徐々に視界が鮮明になったが、それでも思考は絡まりあった糸のようでうまく動いてはくれない。
「先生。いっそのこと、女装でもしますか?」
何を言い出すんだろう、最近の若い子は。
そんな意見しか浮かばなかったが、自分がスカートをひらひらとさせている姿を想像すると少しおかしくなって、こんな時なのに思わず吹き出してしまった。
「あ、笑った。コーヒーでも飲んで落ち着いて下さい。別に警察に捕まったりしませんから」
「桜庭さんて、案外肝が座っているんだね」
「そんなことありませんよ」
そう言いながらも胸の前で手を組みながら少し上を向くと、微笑を浮かべながらこう言った。
「けど、こんな経験滅多にできないじゃないですか。なんか小説の主人公にでもなったみたい」
細い腕で力こぶを作るような仕草を見せた桜庭美樹の気遣いに、原田は自分も無理矢理に笑みを作りながら、キッチンに向かう。
コーヒーメーカーから残りのコーヒーを入れて飲み干してしまうと、原田を見つめたまま小首を傾げた彼女に向かって一つ大きく頷く。それからカップをシンクに置くと、改めて彼女にこう尋ねた。
「ところで僕が着られそうな服、愛里君が持ってると思う?」
玄関ドアを開けて、原田一人だけ先に外に出る。
けれど髭面の男は彼の姿を見るなり、構えていたカメラを落としそうになりそうなほど驚いて仰け反った。
「な、何かご用ですか」
新宿二丁目の方々のような声色は、自分の作品のゲラ確認時に声を出して読む時に使うものだった。慣れてはいるけれど、それでもあまり気持ちの良いものではない。
「あんた、結城貴司先生?」
「誰ですか、それ」
流石に相手は戸惑っていた。
脇のジッパーは途中までしか留まっていないが、ロング丈の花柄のワンピースの上にダウンジャケットを羽織っている。何とも珍妙な格好になっているだろうが、それでも即席で桜庭美樹にしてもらった化粧はそれなりに見られるものになっているのだろう。
「あ!」
そこに村瀬ナツコと岩槻編集長が二人でエレベータから出てきて、声を上げた。
もうどうにでもなれ。
という内心で、原田は岩槻の方に駆けて行くと、
「先生!」
彼のことをそう呼んでから、
「あとはお願いします」
と背中を押してエレベータに乗り込む。
ドアが閉まる寸前に原田のスーツを着た桜庭美樹が滑り込んできて、村瀬ナツコの、
「あとは任せて下さい」
という力強い返事が、閉じたドアで塞がれた。
一階まで下りて外に出ると、待っていたタクシーに飛び込むようにして乗り込み、初老の運転手は二人がちゃんと座ったことを確認してドアを閉めると、
「出ますよ」
勢いよく発車する。
マンション前に集まりつつあった記者やカメラマンが慌てて追いかけようとしたが、その姿はすぐに遠くなり、原田も美樹もほっと胸を撫で下ろすと、互いの顔を見て、声を出して笑った。
「先生?」
「あ、ああ」
気づくと再びスマートフォンが鳴っていた。
慌てて手に取ろうとしたが上手く掴めずに床に転がってしまうと、桜庭美樹が拾い上げて代わりに電話に出てくれる。
「はい。今、ここに二人ともいます」
どうやら相手は村瀬ナツコのようだ。
自分の指先を見ると、小刻みに震えている。
「ええ。分かりました。けど、今ちょうどドアの前に記者の方がいるみたいで……」
美樹は落ち着いて現在の状況を村瀬に伝えているようだったが、耳が遠くなったみたいに、どこか茫洋としてはっきり声が入ってこない。
「先生、今から村瀬さんたちが来てくれるんですけど、何とか表の記者の方の注意を引き付けて欲しいんですって……ねえ先生?」
「分かってる……」
桜庭美樹の話は耳に入ってくるが、まるで遅れてやってきたかのような、女性アレルギィに似た症状だった。少し落ちつく為にゆっくりと呼吸をする。二度、三度と繰り返すうちに徐々に視界が鮮明になったが、それでも思考は絡まりあった糸のようでうまく動いてはくれない。
「先生。いっそのこと、女装でもしますか?」
何を言い出すんだろう、最近の若い子は。
そんな意見しか浮かばなかったが、自分がスカートをひらひらとさせている姿を想像すると少しおかしくなって、こんな時なのに思わず吹き出してしまった。
「あ、笑った。コーヒーでも飲んで落ち着いて下さい。別に警察に捕まったりしませんから」
「桜庭さんて、案外肝が座っているんだね」
「そんなことありませんよ」
そう言いながらも胸の前で手を組みながら少し上を向くと、微笑を浮かべながらこう言った。
「けど、こんな経験滅多にできないじゃないですか。なんか小説の主人公にでもなったみたい」
細い腕で力こぶを作るような仕草を見せた桜庭美樹の気遣いに、原田は自分も無理矢理に笑みを作りながら、キッチンに向かう。
コーヒーメーカーから残りのコーヒーを入れて飲み干してしまうと、原田を見つめたまま小首を傾げた彼女に向かって一つ大きく頷く。それからカップをシンクに置くと、改めて彼女にこう尋ねた。
「ところで僕が着られそうな服、愛里君が持ってると思う?」
玄関ドアを開けて、原田一人だけ先に外に出る。
けれど髭面の男は彼の姿を見るなり、構えていたカメラを落としそうになりそうなほど驚いて仰け反った。
「な、何かご用ですか」
新宿二丁目の方々のような声色は、自分の作品のゲラ確認時に声を出して読む時に使うものだった。慣れてはいるけれど、それでもあまり気持ちの良いものではない。
「あんた、結城貴司先生?」
「誰ですか、それ」
流石に相手は戸惑っていた。
脇のジッパーは途中までしか留まっていないが、ロング丈の花柄のワンピースの上にダウンジャケットを羽織っている。何とも珍妙な格好になっているだろうが、それでも即席で桜庭美樹にしてもらった化粧はそれなりに見られるものになっているのだろう。
「あ!」
そこに村瀬ナツコと岩槻編集長が二人でエレベータから出てきて、声を上げた。
もうどうにでもなれ。
という内心で、原田は岩槻の方に駆けて行くと、
「先生!」
彼のことをそう呼んでから、
「あとはお願いします」
と背中を押してエレベータに乗り込む。
ドアが閉まる寸前に原田のスーツを着た桜庭美樹が滑り込んできて、村瀬ナツコの、
「あとは任せて下さい」
という力強い返事が、閉じたドアで塞がれた。
一階まで下りて外に出ると、待っていたタクシーに飛び込むようにして乗り込み、初老の運転手は二人がちゃんと座ったことを確認してドアを閉めると、
「出ますよ」
勢いよく発車する。
マンション前に集まりつつあった記者やカメラマンが慌てて追いかけようとしたが、その姿はすぐに遠くなり、原田も美樹もほっと胸を撫で下ろすと、互いの顔を見て、声を出して笑った。
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