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第二章 「ナチュラルに恋して」

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 その日は十時のモーニング終了時間までずっと、まとまったお客が入っていた。まず開店と同時に観劇仲間らしい主婦四人組、しばらくしてウェブデザイン系の会社の集団、それに東南アジア系と中国系の外国人旅行者が入れ替わり立ち替わり、店を訪れた。
 席は外のテラスの方まであっという間に埋まってしまい、愛里は一人でその対応に追われた。

「あ、はい。ただいま」

 何をしたらいいのか分からずに、立ち止まってその視線を愛里や涌井に投げているだけの詩乃に代わり、愛里が注文を聞いて回る。祐介は早々にキッチンに引っ込んで、準備をおこたったツケを払わされていた。詩乃を見れば今にも泣きそうで、彼が彼女に何一つ教えていないことが腹立たしかった。

「……あの、すみません」

 コーヒーカップを下げてきた詩乃が、愛里を見て突然謝る。

「何が?」
「わたし、その……全然使えなくて」
「いいよいいよ。どうせまだ何も教えてもらってないんでしょ?」

 詩乃はクマのぬいぐるみを思わせるつぶらな瞳をうるませて黙り込む。それが返事だった。

「これくらい慣れてるから。それより、ほら」

 ティッシュを渡すと、詩乃はそれを目元に当てる。

「二番のパンケーキ」

 機嫌悪そうにそう言って皿を出した涌井をにらみつけ、愛里は、

「はいはい、かしこまり」

 と大きな声で返事をしてから、フロアに出て行った。

 何とか客をさばると、愛里は煙草を吸いに出ようとする祐介を呼び止めた。

「何だよ、沖君」

 店内に今、客はいない。詩乃は愛里が教えた通りに伝票の整理をしている。

「どうして織田さんにちゃんと教えてあげないんですか?」
「一気に教えても分からなくなる。それに今日はお客さん多かっただろ」

 逃げ出したい。そんな表情だ。愛里は背を向けようとする祐介の腕を掴むと、真っ赤なマニキュアを塗った指を食い込ませた。

「アタシから織田さんに乗り換えるつもりなんだったら、もっとちゃんと彼女に接してあげればいいじゃない」
「お、おい。沖君」
「いつもみたいに何も知らない新人の女子に教えるふりして、口うるさい小田川さんとは違って俺は優しいからねって言いながらイチャイチャすればいいじゃない! アタシのことを振ってまで彼女を選ぼうっていうんでしょ? それとも何? ほんとは織田さんのことは単なる口実でアタシが鬱陶うっとうしくなっただけなの?」

 キッチンで渡部典行わたべのりゆきが金属製のバットやボールを落とした音が激しく響いた。

「ねえ祐介。アタシまだ何も言ってもらってない。少し苛ついたり、喧嘩したり。そんなことよくあるって分かってるよ。ちょっとくらい他の子に目移りするのだって何も言わないし、何がそんなに気に入らないの? アタシ、ちゃんとした彼女じゃないって言われるような、そんな女かな?」

 祐介は愛里の肩に手を置いて「とにかく落ち着け」と何度も言う。
 けれど愛里は自分でも分かっていたが、次々と湧き上がってくる訳の分からないものが、どうにも止められないのだ。

「体だけでも別にいいんだよ。ちゃんと愛してくれてるって感じる瞬間があるし、一緒に朝を迎えて、まだ眠たい祐介のために朝ご飯作ったり、いってらっしゃいのキスして見送ったりさ。そういう幸せをこの三ヶ月間、アタシ、ちゃんと感じてたから。それってさ、ちゃんとした恋愛じゃなかったのかな?」
「お前のそういうとこなんだよ。ちゃんとした恋愛とか、何だよそれ。体から始まった関係は飽きたら終わりだろ? お前バカかよ」
「どんなにバカにされたっていい。けど、今の一時的な感情からそう言ってるだけなら、考え直してよ。まだ戻れる。今度は祐介の言うちゃんとした彼女に、なってみるから」

 ――まただ。

 彼はその二重の目に更に皺を寄せ、冷たい眼差しを向けた。

「ちゃんとした彼女だったら、彼氏の仕事先でバカみたいに騒いだりしない。見てみろよ……」

 言われて愛里はキッチンの方を見た。詩乃も渡部も、口を半開きにしてこちらを見ている。

「……全く」

 声がしたのは、店の入口の方だった。

「センセ!」

 戸口に立っていたのは原田貴明はらだたかあきだ。ボーダー柄のニットにスラックスという姿で、一重の目が大きく開かれていた。

「ねえセンセ。アタシが祐介の彼女でいられるように何とか」
「君は自分が何をしてるか分かってるのか? そもそも僕は」

 何か言いかけて、原田は愛里を手招きする。

「何?」
「ちょっと……外」

 大きく溜息をつくと、そう言って原田は背を向けて店を出た。愛里もその後を追った。
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