4 / 5
4
しおりを挟む「じ、神宮寺さん? 酔ってますか?」
「少し飲んだけど、全然酔えてない。大丈夫よ。ちゃんと正気だったから」
その意味について尋ねた方がいいのだろうか。晴樹は一歩、後ずさって距離を置こうとしたが、浴衣の彼女の足元が覚束ないのを見て、肩を貸す形でその場に留まる。
「私はね、本当は夏担当じゃなかったの」
「そこ、座って下さい」
事務椅子を持ってきて、それに彼女を座らせる。神宮寺はありがとうも言わず、そのよく分からない話の続きを始めた。
「本当は冬を担当する予定だった。でも、無理を言って上司に変えてもらったの。しばらく本庁から離れたかったから」
晴樹は給湯室に向かい、水を入れる。あまり昔の話はしない人だった。特に私生活についてはうまくはぐらかしてしまう。人に好かれるようでいて、仕事以外の付き合いの話を聞かない。そういう人でもあった。だから、今話そうとしていることが彼女にとってあまり外に持ち出したくない類の話なことは想像できた。
「はい。飲んで下さい。少し、楽になりますよ」
「酔ってないけど、ありがとう」
コップを受け取ると、その水は一気に彼女の口へと注がれた。喉が鳴り、口の端をいくつか水が流れていく。コップに間接照明が反射して、一瞬だけ彼女の顔が映ったが、泣いているようにも見えた。
「仕事はそれなりに充実してたから、それは理由じゃないわ。そこにね、三年先輩の同じ大学の人がいたの。学生時代、好きだった人だけど、既婚者よ。だから、何もないんだけど、何もなかったんだけど、その人が夏担当だった。彼は夏が本当に好きでね、こんな世界になってもサーフィンを趣味って言い張って、部屋にはいくつもサーフボードが飾られてる。いつか外の世界の本物の海でサーフィンをするっていうのが彼の夢で、その人、シェルターAの大手企業から引き抜きの話があったのを受けたの。それでね、一緒に来ないかって。どういう意味だと思う?」
「僕にはよく分かりません」
「数年は単身赴任になるから世話をしてくれる愛人が欲しかったのよ。でもね、誘われた瞬間、私は喜んじゃったわ。だって憧れの人だったから。けど同時に悲しくもあった。そんな人だとは思ってなかったから。それでね、私は彼が抜けた空いた夏担当になって、ここにやってきたの。もう、その期間も今日で終わりだけど」
はい、とも、うん、とも、つかない返答をもごもごと返しながら、晴樹は心の中にすうっと流れる冷たい雫を感じていた。
「夏ってさ、人を少し開放的な気分にする力があるのよね。暑くて薄着になる、って意味じゃないわよ。ちょっと警戒心が緩むんだと思う。本質的に人間てさ、楽しみたいから。一度くらいなら、過ちもいいかなって思っちゃうのよ。そういう人間の弱さが露出するのも、この夏だと思う。ねえ、晴樹君。君にはそういうの、ないの?」
晴樹、君――その呼び方の甘ったるさは毒だった。まるで媚薬のように晴樹の心を蝕む。
「神宮寺さん。やっぱり酔っ払ってますよ」
「そうやって冷静な振りをしててもちゃんとドキドキしてる。もし今ここで私担当になって欲しいって言ったら、どうする?」
「仮定の話はやめて下さい。それはさすがにズルいと思います」
「じゃあ、本音で聞くわ。どう? 私じゃ、いけないかな?」
たぶんここで頷ける、状況を受け入れられる男性だったら、晴樹は同級生たちからバカにされたりはしなかっただろう。でも、ここで受け入れて生温い幸せを手に入れた先にもやはり終わりがあることが分かっていたから、お互いを無駄に傷つけて終わる未来が待っていることを知っていたから、彼は違う選択をした。
「夏仕舞い、神宮寺さんも手伝いませんか?」
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
小さな恋のトライアングル
葉月 まい
恋愛
OL × 課長 × 保育園児
わちゃわちゃ・ラブラブ・バチバチの三角関係
人づき合いが苦手な真美は ある日近所の保育園から 男の子と手を繋いで現れた課長を見かけ 親子だと勘違いする 小さな男の子、岳を中心に 三人のちょっと不思議で ほんわか温かい 恋の三角関係が始まった
*✻:::✻*✻:::✻* 登場人物 *✻:::✻*✻:::✻*
望月 真美(25歳)… ITソリューション課 OL
五十嵐 潤(29歳)… ITソリューション課 課長
五十嵐 岳(4歳)… 潤の甥

あなたの秘密を知ってしまったから私は消えます
おぜいくと
恋愛
「あなたの秘密を知ってしまったから私は消えます。さようなら」
そう書き残してエアリーはいなくなった……
緑豊かな高原地帯にあるデニスミール王国の王子ロイスは、来月にエアリーと結婚式を挙げる予定だった。エアリーは隣国アーランドの王女で、元々は政略結婚が目的で引き合わされたのだが、誰にでも平等に接するエアリーの姿勢や穢れを知らない澄んだ目に俺は惹かれた。俺はエアリーに素直な気持ちを伝え、王家に代々伝わる指輪を渡した。エアリーはとても喜んでくれた。俺は早めにエアリーを呼び寄せた。デニスミールでの暮らしに慣れてほしかったからだ。初めは人見知りを発揮していたエアリーだったが、次第に打ち解けていった。
そう思っていたのに。
エアリーは突然姿を消した。俺が渡した指輪を置いて……
※ストーリーは、ロイスとエアリーそれぞれの視点で交互に進みます。


【完結】夏色の玻璃
那月 結音
恋愛
大学一年生の日野紫(ひのゆかり)は夏が苦手だった。
夜空に咲いた大輪の花。優しい二人の笑顔。
美しいはずの夏色の記憶が、紫を暗い暗い過去に縛りつける。
だが、ミステリアスな麗人——久我響(くがひびき)との出会いにより、紫の運命は大きく変化することに。
八月一日。
紫にとって儚く、けれど、特別な夏が始まった——。
❈ ❈ ❈
※2018年完結作品
※エブリスタ小説大賞2020「スターツ出版文庫大賞」優秀作品
私は心を捨てました 〜「お前なんかどうでもいい」と言ったあなた、どうして今更なのですか?〜
月橋りら
恋愛
私に婚約の打診をしてきたのは、ルイス・フォン・ラグリー侯爵子息。
だが、彼には幼い頃から大切に想う少女がいたーー。
「お前なんかどうでもいい」 そうあなたが言ったから。
私は心を捨てたのに。
あなたはいきなり許しを乞うてきた。
そして優しくしてくるようになった。
ーー私が想いを捨てた後で。
どうして今更なのですかーー。
*この小説はカクヨム様、エブリスタ様でも連載しております。

【完結】巻き戻りを望みましたが、それでもあなたは遠い人
白雨 音
恋愛
14歳のリリアーヌは、淡い恋をしていた。相手は家同士付き合いのある、幼馴染みのレーニエ。
だが、その年、彼はリリアーヌを庇い酷い傷を負ってしまった。その所為で、二人の運命は狂い始める。
罪悪感に苛まれるリリアーヌは、時が戻れば良いと切に願うのだった。
そして、それは現実になったのだが…短編、全6話。
切ないですが、最後はハッピーエンドです☆《完結しました》

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません
ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは
私に似た待望の男児だった。
なのに認められず、
不貞の濡れ衣を着せられ、
追い出されてしまった。
実家からも勘当され
息子と2人で生きていくことにした。
* 作り話です
* 暇つぶしにどうぞ
* 4万文字未満
* 完結保証付き
* 少し大人表現あり

人生を共にしてほしい、そう言った最愛の人は不倫をしました。
松茸
恋愛
どうか僕と人生を共にしてほしい。
そう言われてのぼせ上った私は、侯爵令息の彼との結婚に踏み切る。
しかし結婚して一年、彼は私を愛さず、別の女性と不倫をした。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる