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第三話「私とわたしたち」

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 翌朝になってもまだ夢の中を彷徨さまよっているような気分だった。
 布団を首元まで被ったまま天井を見上げる。
 ぼうっとしたままの頭で、何度も彼が口にした約束の内容がリフレインした。

「ねえ。今日バイトあるんでしょ? 大丈夫なの?」

 キョウコは本を手にしたまま、先程からずっとページをめくらずに私に何度も「大丈夫?」と呼びかける。

「大丈夫よ。三十八度とか平熱から二度高いだけじゃない。昼から三時間だけ我慢できればいいから」

 枕元の時計に腕を伸ばす。なかなか届かないなと思っていたら、

「はい」

 きょう子が渡してくれた。

「ありがとう」

 彼女の癖のある髪を少しだけでてやり、改めて時刻を確認する。十一時を過ぎていた。
 何か食べておこうと起き上がろうとするが、額の上に乗せた濡らしタオルが随分ずいぶんと重い。
 それでも起きなきゃ、という無駄な使命感だけが体を起こさせた。
 立ち上がろうとすると目の前が明滅してふらついたから、四つんいになって何とかキッチンに向かう。冷蔵庫にスポーツドリンクのペットボトルがまだ一本残っていたはずだ。
 息が熱い。
 朝からまた体温が上がったのだろうか。解熱剤は飲んだけれど、目が覚める度に全然効いていないとしか思えない。
 喉が甘くて冷たいバニラの風味を求めた。
 小さい頃からよく熱を出した。もともと風邪にかかりやすかったのもあるが、その日だけは母お手製のバニラアイスを食べることができたからだ。
 台所で母親がホイップクリームを作るのにカンカンという子気味良い音がずっとしていて、それが聞こえなくなってから二時間ほど待つと、冷たくて黄色がかったアイスが器に盛られて出された。それをスプーンですくって口に含むと、火照ほてった顔からすうっと熱が溶けて消えてしまう。
 苦手な母親がそんな風に風邪の時だけは、怒ったりわめいたりせず、ただ黙々と私だけの為に作ってくれたアイスクリームは、こうして親元を離れて一人暮らしをするようになってから、ただ一つ永遠に手に入らないものだった。
 冷蔵庫を開けると漏れ出した冷気が額に心地良い。

「あった」

 寝かせて入れてあったボトルを見つけ、それを引っ張り出してキャップを何とか開けると、一気に喉に流し入れた。
 何度目かの喉のゴクリという音を聞いた時、インタフォンが鳴らされた。
 こんな時に。という思いを抱えながら返事をすると、ドア越しに聞こえたのは、

「ボクだよ。今日子」

 今すぐ帰れと腹の底から声を出したいくらいのこちらの気持ちを微塵みじんも考えていない、脳天気な彼の声だった。

 布団に横になる私を、宮内翔太郎は心配そうに覗き込みながら、彼の背中にまとわりつくきょう子をあやしていた。

「風邪ならバイト休んだ方がいいよ。ボクが電話しようか?」
「やめて」

 いつもの十分の一くらいの小さな声で言うと、私は肩を大きく動かして呼吸をする。怠いより辛いより、とにかく黙っていて欲しい。今考えられることはただそれだけだ。

「せめて誰か友だちとかに来てもらいなよ。寝てれば治るとか思ってるかも知れないけど、風邪をこじらせて死んじゃったりする人もいるから、あまり簡単に考えてちゃ駄目だよ、今日子」

 わかってる。と声にすることすら億劫おっくうだ。
 もういいから帰って、と布団から出した左手を彼の膝に押し付けてみるけれど、「なに? 何か食べたい?」とにこやかな表情が返ってくるだけで、私の意図は全然んでくれない。
 諦めたように目を閉じた私に、彼はぽつりぽつりと自己紹介のような話を始めた。

「小さい頃はボクもよく風邪を引いたり熱を出したりするような子だった」

 その声は普段彼が話す時のようにやや高めの元気なものではなく、落ち着いて、聞いているとすっと耳馴染みのする優しい音質だった。

「熱が少しでもあると両親がすぐ学校を休ませて、部屋に閉じ込もって一日や二日を過ごすことになる。ボクはそれが嫌でさ、こっそりベランダから外に出て、ロープを使って庭に降りるんだ」
「二階?」
「そうそう。あれって今思えば子供の力でよく解けないように結べたよなあ。軽かったから大丈夫だっただけかな」

 彼はくしゃっと笑うと、ボウルに入れた氷水にタオルを浸してそれを絞る。

「父親がこれをするとさ、雑に絞れてなくて、額に置いたらべちゃっとなるもんだから、部屋を出て行ってからわざわざ絞り直すことになるんだよ」

 タオルより先に額に置かれた彼の手が冷たくて、心地よい。
 苦しい時に誰かが傍にいてくれる。それもきょう子やキョウコといった私のIFでない誰かが世話をしてくれる。
 ただそれだけのことなのに、心が弱っているからか、こんなにも安心の中にいられて、私は小さい頃の気分を思い出した。
 きょう子が私の隣にひっついて横になっている。
 その額にきつく絞ったタオルを置いて、ひんやりとした手が頬や首筋に当てられる。

「おかあさん」

 か細い声を上げ、そのひんやりとした手を小さな手で包み込もうとする。普段なら「やめて」と声が投げつけられるのに、この日だけは許してくれる。手をただ握るだけで、心までも落ち着いて安心が広がる、その感覚が大好きだった。

「どうして母親はいつもきちんとタオルを絞れたんだろう。あれって誰かに教わったのかな?」
「おかーさん」

 私の代わりに小さなきょう子が答える。

「じゃあ、濡れタオルの絞り方はずっと親子で受け継いでいくものなんだね。うん。きっとそうだ」

 彼の満足そうな声に続いて、私のお腹の上に手が置かれる。うっすら目を開くと翔太郎の手だった。
 女性のような毛のないつるりとした手と、ちんまりとした五本の指。それが私のお腹の上を軽く叩く。

「ボクが寝ているとね、こうやって傍にやってきて手を置いてくれて、即興で作ったお話をしてくれたんだ。まあいつも決まって小さな男の子か女の子が主人公の、友だちを作る話だったんだけど」
「どんな?」

 風邪の時に少しだけ優しくなる私の母親だったけれど、そんな風にお話をしてくれたりはしなかった。絵本を読み聞かせてもらった記憶もなく、図書館に行ってもいつも一人で本を探して読んでいた気がする。
 だから少しだけ、彼の話が気になった。

「そうだな……例えば、そう。砂場で一人の男の子が遊んでいました。けど夕方になっても誰も彼を迎えに来ません。そしてブランコで遊ぶ一人の女の子がいて、彼女も誰も迎えに来ませんでした」

 声のリズムが心地良い。

「いつまでも迎えに来ないので、男の子は女の子に尋ねます。『まだ帰らないの?』と」

 それは子守唄のようにも聞こえて。

「女の子は『ママもパパも忙しいから』と答えたので、男の子は彼女の両親が迎えに来るまで、そこで一緒に遊んであげることにしました……あれ? 寝ちゃった?」

 まだ寝てない、と答えようとしたところで、急に意識が途切れた。

 ぺた、と小さな手が私の右頬に当てられた。

「何? きょう子……」

 目を開けると既に窓の外が暗い。カーテンは閉め切ってなかったから、遠くにビルの明かりが見切れていた。

「あ……」

 すぐに眉をひそめているきょう子の顔が視界に入り、それから目線を部屋の隅にいるキョウコへと向けた。

「どうしよう、バイト……」
「ちゃんと断ってたよ……あいつが」

 あいつ。
 その言葉にキョウコときょう子、二人の顔をじっと見たが、その間にあったもう一つの顔が消えていることに気づいた。

「翔太郎?」

 自信のなさそうな呟きに二人ともが大きく頷いて答えた。
 私は枕元に落ちていたタオルがもう温くなっていることを知り、布団を抜け出す。

「いつ頃?」

 感謝の言葉の一つも彼に返していないことを申し訳なく感じて、私はふらつく足を押さえて玄関に向かおうとする。けれどその手をキョウコがつかんだ。

「ずっと前に帰ったから確かめるだけ無駄だよ」
「そっか……彼って、一体何なんだろう」

 案外好い人なのかも知れない。
 そう感じて不意に脳裏に浮上した彼は、

『二十歳になったらボクと結婚をするという約束について、正式に返事が欲しいんです。できれば近日中に』

 そんなことを言っていたと思い出す。

「なに顔赤くしてんの?」
「また熱が上がったんじゃない?」

 そうキョウコに答えて背を向けると、冷蔵庫まで歩いてドアを開けた。ひんやりした空気が火照った顔に優しいが、あまり買い置きをしていないので中身は寂しい。

「あれ?」

 私は妙に思って今一度枕元に視線を向けた。そこにはすっかり融けてしまっているが氷水を入れたボウルと、その脇に空になった清涼飲料水のペットボトルがある。
 けれどそれとは別のペットボトルが二本、サイドポケットに入れられていた。他にも買った覚えのないチョコレートに林檎が目立つ場所に鎮座していて、おまけにカップアイスのバニラまで置いてある。
 そのカップを手に取るとまだ冷たくて、それでも蓋の周囲はしっかり汗をかいていて、開けると縁から溶けかかっていた。

「翔太郎?」

 思わず口に出してきょう子とキョウコを見たけれど、彼女たちはどちらも分からないといった様子のきょとんとした表情だった。
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