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第一話「私とわたしとワタシ」
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この日は大学の授業を終えると、その足で電車でニ駅先まで移動する。
中央駅にほど近い繁華街は大学にはない人の賑わいで、それだけで目眩がしてしまいそうになるのだけれど、大事な生活の糧を得る為には少しくらいの我慢が必要だった。
バイト先は雑居ビルの三階にオフィスを構えている。
路地に入り、五分ほど歩くと五階建てのビルが見えてきて、その一階のコンビニに人が忙しなく出入りしているのが分かる。私はその隣の階段を無心で上がっていく。
三階まで登るとドアの前に『株式会社アクセルリンクス』と書かれていて、慎重にドアノブを回して押し開けた。
「こんにちは……」
うつむき加減でぼそりとした声の挨拶をする私に、奥の窓側の席に座ってパソコンで作業中だった鈴森実里だけが小さく手を挙げてくれる。
会釈をしてから入り口脇のタイムカードに時刻を記録して、右手側の机の一つに席を取る。荷物を足元に置いてから、マウスを動かして切り替わった画面でIDとパスワードを打ち込んだ。
「おっはよ、今日子ちゃん」
「あ、はい。おはようございます」
急に肩を叩いて声を掛けてきたのが、室長と呼ばれている現場監督の荒瀬省二だ。堀の深い顔に跳ね返った癖の強い髪から強烈な甘い匂いをさせている。ストライプ柄のスーツがお気に入りで、今日はネイビーブルーのそれにオレンジのタイを合わせていた。
「どう? 大学は順調?」
「ええ。あの、今日の分の打ち込み資料はそれですか?」
荒瀬が手に持っているファイルが私の本日の担当分だと分かっていたけれど、確認の為に敢えて尋ねる。
「そうそう。あと出来れば、もうひとセット頼みたいんだけど今日時間ある?」
最近はいつもこうだ。私が仕事に慣れてきたこともあるのだろうけど、他のパートの人の分まで作業を回そうとするのだ。
「今日は、ちょっと」
だから用事がある風を臭わせて、何とか滞在時間の延長を防ぐ。
「そうだよね。今日子ちゃん真面目な学生だもんね。勉強で忙しいよね」
荒瀬は資料ファイルを机に置くと、ぶつぶつと言いながら自分の席に戻って行く。それを鈴森さんが眼鏡の目で咎めるように見ていたが、彼は気づいていないようだった。
私の視線に気づいた鈴森さんは右の掌をひらひらとやってさっさと仕事するように促すが、その表情は私と同じように苦笑を浮かべていた。
画面に視線を戻すと、作業用ファイルを開いて集計シートの番号を確認する。続いてエクセルのシートをコピーして画面いっぱいに広げると、資料の数字を見ながら該当する項目に打ち込んでいく。
単純なアンケートのデータ集計作業だった。
社員は荒瀬と鈴森さんだけで、他に常時作業をしている派遣の人が数名と、残りは私みたいなパートタイムの人間ばかりだ。
基本的に私語もほとんどなく、黙々と数字を打ち込んで三時間経過すれば、作業が途中でも終わることができる。
時給も悪くないし、文句を言われることもない。
ただ、荒瀬室長がやたらと絡んでくることと、鈴森さんに気に入られないと仕事がしづらい、というだけだ。
前髪を右の眉毛の端あたりできっちりピンで留めているその几帳面さは、少しだけ私の母親を思い出させる。何事もきっちりと決められたようにこなしていないと駄目な人で、それを自分だけでなく相手にも求めてしまう。結果、周囲の人間は疲れ果てて彼女からは離れていってしまう。
私の最初の父親も、そうだった。
画面にはただ数字が並ぶ。その意味するところなんか考えなくても、とにかく空白を埋めていくだけで誰かの役には立つのだろう。
それでも、と少し気になって資料のタイトルを見やると『家族の会話について』と書かれていた。
仕事を終えて外に出た時には、すっかり夜の街に様変わりしていた。
会社帰りのサラリーマンの集団や、既に酔っ払っている人の大きな声が路上に響く。
通りにはタクシーが並び、綺麗に着飾った女の人と男性がその一台に乗り込んでいく。
私も将来、あの中の誰かになるのだろうか。
そんなことを考えながら駅へと急いだ。
電車で大学まで戻り、自転車を取りに行って夜道の家路を帰る。
日中の青空の下を駆けるのも心地良かったが、こうして夜風を切るのも悪くない。
それでもアパートが近づくと胃袋の下の方が重くなり始め、彼女たちの存在が自分の中で膨らみ始める。別に何か危害を加えるということはないのだけれど、彼女たちを目にすることで否応なく、自身のトラウマを思い出してしまう。
電信柱に取り付けられた外灯が、嘲るように明滅した。
そこから左に曲がり、アパートの駐輪場へと滑り込む。
普通IF、つまりイマジナリーフレンドを持つというのはその人物にとっての精神安定剤のようなものらしいが、三浦先生にも指摘されたように、私のように常にアパートにいて一緒に暮らしている他人のように振る舞うというのは珍しいそうだ。通常何か精神的なストレスを抱えた時、不意に現れたり、相談相手として振る舞ったりする。ごっこ遊びの延長としてのイマジナリーフレンドというのが患者によく見られる症状だと、別の先生からも説明された。
そんなことを言われても実際問題、私のIFたちは、きょう子とキョウコは、私にとっての同居人でしかなかった。
自転車を降りて階段を登ろうとしたところで、そこに座り込んでいる見慣れない男性に気づいた。
その彼は隣に座ったきょう子と一緒に、綾取りをして遊んでいる。
え……。
その違和感は、最初は分からなかった。
「あの」
けれどじわじわと足元から這い上がってきて、それが首筋まで到達すると同時に、その正体である彼が私を見て、人懐こい笑顔になった。
「岩根……今日子さん、でいいかな?」
その声は甲高く、少年のそれのように聞こえる。
「そうだけど」
と答えてから思い出した。教室を覗いていたマッシュルームだ。
「おかえり」
五歳の私が言う。
そのきょう子の手の上から指を差し込んで器用に紐を受け取ると、私に向けて真っ直ぐ三本になった川を見せながら、彼も同じようにこう言った。
「おかえり……今日子さん」
中央駅にほど近い繁華街は大学にはない人の賑わいで、それだけで目眩がしてしまいそうになるのだけれど、大事な生活の糧を得る為には少しくらいの我慢が必要だった。
バイト先は雑居ビルの三階にオフィスを構えている。
路地に入り、五分ほど歩くと五階建てのビルが見えてきて、その一階のコンビニに人が忙しなく出入りしているのが分かる。私はその隣の階段を無心で上がっていく。
三階まで登るとドアの前に『株式会社アクセルリンクス』と書かれていて、慎重にドアノブを回して押し開けた。
「こんにちは……」
うつむき加減でぼそりとした声の挨拶をする私に、奥の窓側の席に座ってパソコンで作業中だった鈴森実里だけが小さく手を挙げてくれる。
会釈をしてから入り口脇のタイムカードに時刻を記録して、右手側の机の一つに席を取る。荷物を足元に置いてから、マウスを動かして切り替わった画面でIDとパスワードを打ち込んだ。
「おっはよ、今日子ちゃん」
「あ、はい。おはようございます」
急に肩を叩いて声を掛けてきたのが、室長と呼ばれている現場監督の荒瀬省二だ。堀の深い顔に跳ね返った癖の強い髪から強烈な甘い匂いをさせている。ストライプ柄のスーツがお気に入りで、今日はネイビーブルーのそれにオレンジのタイを合わせていた。
「どう? 大学は順調?」
「ええ。あの、今日の分の打ち込み資料はそれですか?」
荒瀬が手に持っているファイルが私の本日の担当分だと分かっていたけれど、確認の為に敢えて尋ねる。
「そうそう。あと出来れば、もうひとセット頼みたいんだけど今日時間ある?」
最近はいつもこうだ。私が仕事に慣れてきたこともあるのだろうけど、他のパートの人の分まで作業を回そうとするのだ。
「今日は、ちょっと」
だから用事がある風を臭わせて、何とか滞在時間の延長を防ぐ。
「そうだよね。今日子ちゃん真面目な学生だもんね。勉強で忙しいよね」
荒瀬は資料ファイルを机に置くと、ぶつぶつと言いながら自分の席に戻って行く。それを鈴森さんが眼鏡の目で咎めるように見ていたが、彼は気づいていないようだった。
私の視線に気づいた鈴森さんは右の掌をひらひらとやってさっさと仕事するように促すが、その表情は私と同じように苦笑を浮かべていた。
画面に視線を戻すと、作業用ファイルを開いて集計シートの番号を確認する。続いてエクセルのシートをコピーして画面いっぱいに広げると、資料の数字を見ながら該当する項目に打ち込んでいく。
単純なアンケートのデータ集計作業だった。
社員は荒瀬と鈴森さんだけで、他に常時作業をしている派遣の人が数名と、残りは私みたいなパートタイムの人間ばかりだ。
基本的に私語もほとんどなく、黙々と数字を打ち込んで三時間経過すれば、作業が途中でも終わることができる。
時給も悪くないし、文句を言われることもない。
ただ、荒瀬室長がやたらと絡んでくることと、鈴森さんに気に入られないと仕事がしづらい、というだけだ。
前髪を右の眉毛の端あたりできっちりピンで留めているその几帳面さは、少しだけ私の母親を思い出させる。何事もきっちりと決められたようにこなしていないと駄目な人で、それを自分だけでなく相手にも求めてしまう。結果、周囲の人間は疲れ果てて彼女からは離れていってしまう。
私の最初の父親も、そうだった。
画面にはただ数字が並ぶ。その意味するところなんか考えなくても、とにかく空白を埋めていくだけで誰かの役には立つのだろう。
それでも、と少し気になって資料のタイトルを見やると『家族の会話について』と書かれていた。
仕事を終えて外に出た時には、すっかり夜の街に様変わりしていた。
会社帰りのサラリーマンの集団や、既に酔っ払っている人の大きな声が路上に響く。
通りにはタクシーが並び、綺麗に着飾った女の人と男性がその一台に乗り込んでいく。
私も将来、あの中の誰かになるのだろうか。
そんなことを考えながら駅へと急いだ。
電車で大学まで戻り、自転車を取りに行って夜道の家路を帰る。
日中の青空の下を駆けるのも心地良かったが、こうして夜風を切るのも悪くない。
それでもアパートが近づくと胃袋の下の方が重くなり始め、彼女たちの存在が自分の中で膨らみ始める。別に何か危害を加えるということはないのだけれど、彼女たちを目にすることで否応なく、自身のトラウマを思い出してしまう。
電信柱に取り付けられた外灯が、嘲るように明滅した。
そこから左に曲がり、アパートの駐輪場へと滑り込む。
普通IF、つまりイマジナリーフレンドを持つというのはその人物にとっての精神安定剤のようなものらしいが、三浦先生にも指摘されたように、私のように常にアパートにいて一緒に暮らしている他人のように振る舞うというのは珍しいそうだ。通常何か精神的なストレスを抱えた時、不意に現れたり、相談相手として振る舞ったりする。ごっこ遊びの延長としてのイマジナリーフレンドというのが患者によく見られる症状だと、別の先生からも説明された。
そんなことを言われても実際問題、私のIFたちは、きょう子とキョウコは、私にとっての同居人でしかなかった。
自転車を降りて階段を登ろうとしたところで、そこに座り込んでいる見慣れない男性に気づいた。
その彼は隣に座ったきょう子と一緒に、綾取りをして遊んでいる。
え……。
その違和感は、最初は分からなかった。
「あの」
けれどじわじわと足元から這い上がってきて、それが首筋まで到達すると同時に、その正体である彼が私を見て、人懐こい笑顔になった。
「岩根……今日子さん、でいいかな?」
その声は甲高く、少年のそれのように聞こえる。
「そうだけど」
と答えてから思い出した。教室を覗いていたマッシュルームだ。
「おかえり」
五歳の私が言う。
そのきょう子の手の上から指を差し込んで器用に紐を受け取ると、私に向けて真っ直ぐ三本になった川を見せながら、彼も同じようにこう言った。
「おかえり……今日子さん」
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