千文字小説百物騙

凪司工房

文字の大きさ
上 下
8 / 100
第壱乃段

涙の大河

しおりを挟む
 向こう岸が見えないほどの大きな河がゆったりと流れていた。その流れを見やり、一人の老女が涙を浮かべている。どうかしたのですか、と尋ねると、彼女は首を横に振り「いつも思い出してしまうのです」と口にしてから、それを語り始めた。

 かつてこの地域には富希村ふきむらと呼ばれる小さな集落があった。七龍川しちりゅうがわが運んでくる恵まれた土は、この地で作物を育てるのにうってつけだった。
 詠華えいかはそんな村に嫁いできた女性で、今日も畑の手入れに精を出していた。

「あら、あなた。お帰りなさい」

 彼女の夫長明ちょうめいは鍛冶職人をしており、あれこれと頼まれては器具の修繕をしていた。
 ただ最近、その仕事を全て放り出し、一人でどこかに出かけているようなのだ。何をしているのかと尋ねても彼は「お前には関係ない」の一点張りで、気難しい人だと感じていたのが最近はこの人と一緒にやっていけるだろうかと、不安ばかりが詠華の心に影を落としていた。

「そういえば今年も雨季が近づいてきましたね。また去年のようなことにならなければ良いのですが」
「村の人間どもはいつもそう言っておきながら何一つ対策を講じてこなかった。雨季になればいつ洪水になるだろうとびくびくおびえ、いざ村が流されれば天災だとあきらめる。俺はそういう村の奴らが嫌なんだ」

 そう言うと、さっさと家に入っていってしまった。

 雨季になり、村は雨の日が多くなった。
 詠華は家の中でつくろいものをしながら、こんな天気にもかかわらずに出かけていった夫の身を案じていた。そこに近所の春未しゅんみが慌てた様子でやってきた。

「詠華さん、上流で村が一つ流されたそうよ。村のみんなが避難しようって」
「そうなんですか。ただ、まだ夫が出かけたままで」
「旦那さんだって考えてるわよ。とにかく大事なものだけ持って、早く逃げるのよ」

 それでも詠華は雨の中、しばらく夫の姿を探した。しかし彼はどこにも見当たらず、言われるがまま春未たちと共に村を離れた。

 それから雨が止むまでに、実に十日余りを要した。
 誰もが村が流されているだろうと思って戻ってきたのだが、そこには水たまり一つない、以前のままの村の姿が残っていた。

 村の皆は口々に今回は神様が見逃してくれたのだと感謝した。だが詠華が後で聞いた話では、川が氾濫しなかった訳ではなかったそうだ。村の方に水が流れないよう、誰かが石と鋼で水路を造っていたらしい。
 詠華は夫の仕業なのだと直感したが、あの日以来、彼は二度と村に戻ってこなかった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

春を売る少年

凪司工房
現代文学
少年は男娼をして生計を立てていた。ある時、彼を買った紳士は少年に服と住処を与え、自分の屋敷に住まわせる。 何故そんなことをしたのか? 一体彼が買った「少年の春」とは何なのか? 疑問を抱いたまま日々を過ごし、やがて彼はある回答に至るのだが。 これは少年たちの春を巡る大人のファンタジー作品。

【完結】元お義父様が謝りに来ました。 「婚約破棄にした息子を許して欲しい」って…。

BBやっこ
恋愛
婚約はお父様の親友同士の約束だった。 だから、生まれた時から婚約者だったし。成長を共にしたようなもの。仲もほどほどに良かった。そんな私達も学園に入学して、色んな人と交流する中。彼は変わったわ。 女学生と腕を組んでいたという、噂とか。婚約破棄、婚約者はにないと言っている。噂よね? けど、噂が本当ではなくても、真にうけて行動する人もいる。やり方は選べた筈なのに。

最初で最後の親孝行

ゆりえる
現代文学
毎度のように、母さんとは、絶えず口喧嘩を繰り返えしていた。 それは、僕にとって、今までの日常だったが、ある日、突然、その日常が奪われた。 登校する時には、あんなに元気だったのに......

怪奇短編集

木村 忠司
ホラー
一話完結の怪談奇譚です。と思っていたんですが、長編になってしまった物語は、5分くらいで読めるくらいに分割してます。 いろんな意味でゾワりとしてもらえたらありがたいです。

粗暴で優しい幼馴染彼氏はおっとり系彼女を好きすぎる

春音優月
恋愛
おっとりふわふわ大学生の一色のどかは、中学生の時から付き合っている幼馴染彼氏の黒瀬逸希と同棲中。態度や口は荒っぽい逸希だけど、のどかへの愛は大きすぎるほど。 幸せいっぱいなはずなのに、逸希から一度も「好き」と言われてないことに気がついてしまって……? 幼馴染大学生の糖度高めなショートストーリー。 2024.03.06 イラスト:雪緒さま

処理中です...