千文字小説百物騙

凪司工房

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第壱乃段

人形師の女

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 約束してね、と女は言った。

 陰鬱いんうつとした暗がりの森の小路を抜けた先に彼岸花が目立つ庭が広がった。その奥に見える二階建ての洋館が女の住居らしい。男はそれを見上げて笑み、彼女に促されるまま玄関を潜った。出会いは取材の場だった。彼女は若き人形師として一部で名を知られ、作家志望の男は一度話を聞きたいと思っていた。偶然個展のチケットが手に入り、何度か会う内に徐々に惹かれていった。

 案内されたのは彼女の仕事部屋だった。黒光りする木戸が音もせずに開くと、入ってきた彼女はティーセットをテーブルに置き、男がまじまじと見つめているその巨大な箱まで歩いてくる。

「これは個展に出さないのか?」

 透明な箱の中には等身大の男性の人形が収められていた。彼女の作品はそのリアルさ以上に指から髪の毛一本一本に至る丁寧な仕事ぶりが評価されていたが、今目の前にいる人形は個展で見たものとは全然違う迫力だ。苦悶くもんに満ちた表情で必死に何かを訴えかけている。彼女は首を横に振る。

「これはとても大切なものなの」

 そうか、とうなずいた男は紅茶を一口飲み、改めて人形を見る。その男の背に向け、彼女は尋ねた。

「ところでどうしてあの方とキスなんてされたの?」

 男は一瞬背筋を伸ばした。それが予期していた質問だったからだ。

「酒の席で断りきれなかったというのもある。その場のノリというのかな。けど安心して欲しい。彼女とは何もない」
「覚えていらっしゃいますか、約束」

 それは女が付き合う時に男と交わした「浮気はしない」という文言のことだった。

「たった一度のことだろう?」
「たった一度」

 彼女は言葉を重ねる。

「その一度で充分だと、私は思うのです」

 涼しげな声だったが女の表情は真剣そのものだ。眉を立てることも寝かすこともせず、ただ真っ直ぐ向けられたその視線に男はたじろいだ。

「白い布を汚すには一滴の墨汁があれば良い、そう思いませんか?」

 彼女の涼やかな表情に男は何も答えず視線を床に向けようとしたが、急な目眩めまいだった。舌先から痺れを感じ、そのままカップを落としてしまう。歩く為の足は出ず、床板にしたたか右頬を打ち付けたが、その痛みすら感じないまま意識は闇に沈んでいった。

    ◆

「ここが君の仕事部屋か。この箱は?」
「新作を入れる為の箱よ」

 女は案内した白シャツの男性に紅茶を勧めながら、こう口にした。

「一つ、約束して欲しいの。浮気はしない、と」

 男の足元の絨毯じゅうたんには黒くなった小さな染みが残っていた。
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