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鷺ノ森北高校は全校生徒千名ほどの学校だ。校門が近づくと挨拶運動に立つ体育教師の元気な声と、やる気のない生徒の「おはようございます」と尻すぼみになる声のコントラストが耳に入ってくる。
この日は姉の声がなかった所為か、いつもは無視してしまう教師の挨拶に大きな声で返事をしてしまい驚かれた。
何かが違う一日というのは、こんな風に靴下の柄が左右で違ったり、珍しくポケットにハンカチを忍ばせていたり、下駄箱にきっちりとスニーカーを揃えて入れておいたり、するようなものだ。そんなちょっとしたボタンの掛け違えみたいな日常を過ごしつつも、本人にはそういった気は微塵もない。嵐の前の静けさとはよく言ったものだ。
階段を上がり、二階に出る。
どの教室にも既に半分の生徒がいて、賑やかに雑談をしている。大悟たちの教室は二年C組だ。三つ目の教室になるが、いつもながら自分の教室が近づくと独特の緊張感が走る。それは何もどんな顔で入ろうとか第一声をどうしようとか、悩み事の多い学生にありがちな自分の高校生活の朝の第一歩に対する余計な考えが浮かんでしまうから、なんて事情ではなく、もっと単純な、それでいて切実な条件が、教室の入口には存在するからだ。
大悟は三十センチほど開いている木製の引き戸に手を掛けると、広背筋の緊張感を味わいつつ、そっとそれを滑らせる。刹那、ふわり、とあの香りが漂ってきた。それは石鹸とは異なる。ラベンダーでもない。柑橘系のような、けれど酸味は感じず、もっと甘さがある。
二年C組の教室の入口すぐの一番前の席には、妖精がいた。
その名は森ノ宮静華。十七歳。
毎朝手入れに一体どれくらいの時間が掛かるのだろうか。その黒髪は細くしなやかで、普段はストレートにそのまま後ろへと流していることが多いが、今日は珍しく丁寧に編み込まれ、後頭部で一本の房が垂れている。ポニーテールとは異なるが、それを目にしただけでついため息が零れてしまいそうだ。いつ見ても実に姿勢よく自席に鎮座し、すっと伸びた背中がほどよく白いシャツの胸元を強調している。その上に赤いタイが座るようにして載っていた。
今日は同級生の取り巻きたちに囲まれてはおらず、花柄のブックカバーを掛けた文庫本を開き、一人、読書をしていた。その黒い瞳には長く僅かに先がカールした睫毛が掛かる。ページを捲るその仕草すら優雅で気品があった。
どこからどう切り取っても森ノ宮静華だ。
彼女がいるだけで教室は水を得た魚のように、あるいは薔薇を添えた花束のように、絵になる。
その妖精の前を通り抜ける僅か一、二秒の刹那が、大悟の毎日の学生生活の中でのクライマックスだった。つまり、朝教室に入るこの時が唯一、大悟が彼女の至近距離に足を踏み入れることの出来る時間だった。
甘い柑橘系の匂いが遠ざかり、大悟は自分の席、窓際の一番後ろから二番目の机に鞄を置いて座る。一学期はここまでは離れていなかった。席替えというのは実に生徒の青春時代を大きく左右する。おそらく宝くじよりもずっと、当たって欲しいと誰もが願うものだろう。だが大悟は残念ながら昔から悪運の方が強かった。望んだことからかけ離れた結果を得るのは日常茶飯事で、それでもこの時ばかりは席替えの神様を恨んだものだ。
「おう大悟。どうしたんだ、その汚れ」
前の席の海螺貝新治が腰を下ろした大悟を振り返り、目を大きくする。
「ああ、ちょっと転んだんだ」
「転んだって。お前、相変わらずだな」
「そうだな」
この相変わらずがドジとかおっちょこちょいという言葉に掛かっている訳でないことは、大悟、海螺貝、共に理解していた。「また危ないことに首突っ込んだのか?」くらいのつもりで苦笑を浮かべ、海螺貝は昨夜見た超常現象倶楽部の話を始めた。
オタクにも色々な種類があると思うが、海螺貝新治の場合は怪奇現象オタクとでも言えばいいのだろうか。科学では説明出来ない現象や事件が大好物で、都市伝説や心霊番組、怪談にB級ホラー映画だけでなく、妖怪や西洋の悪魔にまで詳しい。そういうのを全部まとめて「オカルトだ」というのだが“そういうの”というのが専門ではない大悟にはいまいちピンとこなかった。
その海螺貝に云わせれば大悟は「巻き込まれ体質」だということになるそうだ。そんな面倒な体質は要らないと言ったが「これがもしライトノベルの主人公だったら必須の属性でな」と、オタク語りが始まったので大悟は適当に頷いて古典の教科書を鞄から取り出した。
この日は姉の声がなかった所為か、いつもは無視してしまう教師の挨拶に大きな声で返事をしてしまい驚かれた。
何かが違う一日というのは、こんな風に靴下の柄が左右で違ったり、珍しくポケットにハンカチを忍ばせていたり、下駄箱にきっちりとスニーカーを揃えて入れておいたり、するようなものだ。そんなちょっとしたボタンの掛け違えみたいな日常を過ごしつつも、本人にはそういった気は微塵もない。嵐の前の静けさとはよく言ったものだ。
階段を上がり、二階に出る。
どの教室にも既に半分の生徒がいて、賑やかに雑談をしている。大悟たちの教室は二年C組だ。三つ目の教室になるが、いつもながら自分の教室が近づくと独特の緊張感が走る。それは何もどんな顔で入ろうとか第一声をどうしようとか、悩み事の多い学生にありがちな自分の高校生活の朝の第一歩に対する余計な考えが浮かんでしまうから、なんて事情ではなく、もっと単純な、それでいて切実な条件が、教室の入口には存在するからだ。
大悟は三十センチほど開いている木製の引き戸に手を掛けると、広背筋の緊張感を味わいつつ、そっとそれを滑らせる。刹那、ふわり、とあの香りが漂ってきた。それは石鹸とは異なる。ラベンダーでもない。柑橘系のような、けれど酸味は感じず、もっと甘さがある。
二年C組の教室の入口すぐの一番前の席には、妖精がいた。
その名は森ノ宮静華。十七歳。
毎朝手入れに一体どれくらいの時間が掛かるのだろうか。その黒髪は細くしなやかで、普段はストレートにそのまま後ろへと流していることが多いが、今日は珍しく丁寧に編み込まれ、後頭部で一本の房が垂れている。ポニーテールとは異なるが、それを目にしただけでついため息が零れてしまいそうだ。いつ見ても実に姿勢よく自席に鎮座し、すっと伸びた背中がほどよく白いシャツの胸元を強調している。その上に赤いタイが座るようにして載っていた。
今日は同級生の取り巻きたちに囲まれてはおらず、花柄のブックカバーを掛けた文庫本を開き、一人、読書をしていた。その黒い瞳には長く僅かに先がカールした睫毛が掛かる。ページを捲るその仕草すら優雅で気品があった。
どこからどう切り取っても森ノ宮静華だ。
彼女がいるだけで教室は水を得た魚のように、あるいは薔薇を添えた花束のように、絵になる。
その妖精の前を通り抜ける僅か一、二秒の刹那が、大悟の毎日の学生生活の中でのクライマックスだった。つまり、朝教室に入るこの時が唯一、大悟が彼女の至近距離に足を踏み入れることの出来る時間だった。
甘い柑橘系の匂いが遠ざかり、大悟は自分の席、窓際の一番後ろから二番目の机に鞄を置いて座る。一学期はここまでは離れていなかった。席替えというのは実に生徒の青春時代を大きく左右する。おそらく宝くじよりもずっと、当たって欲しいと誰もが願うものだろう。だが大悟は残念ながら昔から悪運の方が強かった。望んだことからかけ離れた結果を得るのは日常茶飯事で、それでもこの時ばかりは席替えの神様を恨んだものだ。
「おう大悟。どうしたんだ、その汚れ」
前の席の海螺貝新治が腰を下ろした大悟を振り返り、目を大きくする。
「ああ、ちょっと転んだんだ」
「転んだって。お前、相変わらずだな」
「そうだな」
この相変わらずがドジとかおっちょこちょいという言葉に掛かっている訳でないことは、大悟、海螺貝、共に理解していた。「また危ないことに首突っ込んだのか?」くらいのつもりで苦笑を浮かべ、海螺貝は昨夜見た超常現象倶楽部の話を始めた。
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