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「ねえねえ」
空は小春日和と言ってよく、もう一月もすれば街路樹の銀杏も綺麗に色づくだろう。自分も来年は高校三年生。そろそろ将来なんて言葉もちらつき始める頃だ。まだまだ社会に出るとか、仕事をするとか、そんな考えを抱けない大悟にとっては大学という逃げの一手に頼ることになるのだろうが、結局それも先延ばしでしかなく、どう歩いていけばいいものやらと悩むしかない。
「ねえ……ねえ!」
住宅街の路地を歩く学生は、見たところ大悟一人だ。
「ねえ?」
その大悟の耳元に先程から数えること二十五回、呼びかける声がしていた。姉だ。
「ねえったら」
「何だよ。外で話しかけるなって言ってるだろ?」
「じゃあ、独り言だから返事しなくていいよ」
返事しなくていい、と言われたので、大悟は鼻を鳴らして何も言わないでおく。
「あんたってさ、姉のあたしが言うのも何だけど、身長も高くてガタイもいいし女慣れしてなくて真面目でちょっと勉強の方はアレだけどさ、意外と優良物件だと思うのよ」
それは褒めているのだろうか。
「そりゃあ小さい頃のキラキラした瞳にぷっくりとした頬でおねーたん言ってた頃に比べたら何だけど、でも結構いい感じに育ったと思う訳よね、我が弟ながら」
制服はまだ夏服だったが、白シャツに男子も女子もそれぞれ学年毎に決められたタイをしていて、下は紺のスカートかズボンという、地味だが実に分かりやすい。路地から大通りに出ると、そこかしこに同じ学校の生徒の姿が見え始める。中央分離帯のこちら側だけでなく、向こう側にも三人の女子生徒が楽しげに笑いながらスカートの裾をひらひらさせて歩いていた。
「それなのにあんたは一向に女子に対してアクションするということがない。このままだと一生を童貞で終えるわよ。占術では祖母を凌駕しているとまで云われたあたしの見立てよ。間違いないわ」
「何言い出すんだよ、いきなり! そんな恐ろしい見立てを勝手にしないでくれ」
「あーら。返事しなくていいって言ったのに、ほんと、我慢のなってない子ねえ。そういうの、早漏って呼ぶのよ」
いつも登下校の最中、こんな風に姉は話しかけてくる。それを可能な限り無視するスキルを備えているつもりだが、流石に向こうの方が年長者で、肉親だ。よく大悟のことを分かっている。
思わず答えてしまい仏頂面になった大悟は口を噤んで先を急いだ。
「ねえねえ」
けれど姉の声は遠ざからない。何故なら姉は霊体だからだ。寧ろ普通に隣で話していた距離感から一気に耳元に近づき、ふう、と息を吹きかけられた。
「イヤン、て、何言わせるんだ」
「あんたって右より左の方が弱いのよね。赤ん坊の頃にずっとあたしが左側に寝てた所為かしら」
実は小さい頃、というか、姉が生きていた頃の記憶はほとんどない。覚えていないというよりはある時点からすっぽりと抜け落ちたみたいに、あるいは重要な資料の一部を黒塗りにされたみたいに思い出せない。
「ねえ」
無視して、歩を進める。
「ねえねえ」
姉はいつも大悟に対して「ねえ」と呼びかける。それは彼女の中の大悟が、いつまで経っても十歳下の弟のままだからだ。けれど姉の時間は不幸な事故により止められてしまった。あの日、十七歳の誕生日を迎えた朝から。
「ねえったら」
「返事はしなくていいって言ってなかったか?」
「ほんと、そういうとこ、モテないわよ」
「大きなお世話だ」
「それでさ、お世話ついでに、あんたの童貞、あたしが面倒見てあげようかなって」
何を言い出すんだ――という言葉を呑み込んだのは大悟の視野が赤信号を無視して交差点を抜けるトラックを捉えたからだ。その先の横断歩道には小さな子どもの手を引いて渡り始めている若い女性がいる。
こういう時の大悟の決断は早い。
鞄を投げて駆け出すこと、一歩、二歩の僅かな動作でトップスピードに乗り、トラックがクラクションを鳴らすその間にも子どもの腕を掴み、女性の腰を抱きかかえて自分の体を背に、地面へと倒れ込む。人間マットレスとなった彼の上、子どもはぺたんと座っただけで、女性の豊満な肉体はその二つの大きな膨らみを大悟の顔へと押し付けながらも、前のめりに倒れた。
ほんの数秒の出来事だ。
トラックは僅かにケツを左右に振ったがどうやら事故なく行ってしまったらしい。
「あの」
「大丈夫でしたか」
「あなたこそ」
「俺は、女性の尻に敷かれることに慣れてますから」
起き上がった女性は笑っている子どもの手を握りながら眉を顰め、それでも一応お辞儀をしてから、再び横断歩道を渡っていった。
大悟に霊感と呼べるものはほとんどない。だからといって勘が悪い訳ではないし、寧ろ鋭い方だ。ただ女性とのコミュニケーション能力における勘の良さというのは皆無といってよかった。
「ああいうの、本当に困るよな」
「うん」
姉の「うん」が単純な相槌の「うん」ではなかったが、大悟は気にせず歩き始める。
何故かこの日の通学路ではそれ以降、姉は話しかけてこなかった。
空は小春日和と言ってよく、もう一月もすれば街路樹の銀杏も綺麗に色づくだろう。自分も来年は高校三年生。そろそろ将来なんて言葉もちらつき始める頃だ。まだまだ社会に出るとか、仕事をするとか、そんな考えを抱けない大悟にとっては大学という逃げの一手に頼ることになるのだろうが、結局それも先延ばしでしかなく、どう歩いていけばいいものやらと悩むしかない。
「ねえ……ねえ!」
住宅街の路地を歩く学生は、見たところ大悟一人だ。
「ねえ?」
その大悟の耳元に先程から数えること二十五回、呼びかける声がしていた。姉だ。
「ねえったら」
「何だよ。外で話しかけるなって言ってるだろ?」
「じゃあ、独り言だから返事しなくていいよ」
返事しなくていい、と言われたので、大悟は鼻を鳴らして何も言わないでおく。
「あんたってさ、姉のあたしが言うのも何だけど、身長も高くてガタイもいいし女慣れしてなくて真面目でちょっと勉強の方はアレだけどさ、意外と優良物件だと思うのよ」
それは褒めているのだろうか。
「そりゃあ小さい頃のキラキラした瞳にぷっくりとした頬でおねーたん言ってた頃に比べたら何だけど、でも結構いい感じに育ったと思う訳よね、我が弟ながら」
制服はまだ夏服だったが、白シャツに男子も女子もそれぞれ学年毎に決められたタイをしていて、下は紺のスカートかズボンという、地味だが実に分かりやすい。路地から大通りに出ると、そこかしこに同じ学校の生徒の姿が見え始める。中央分離帯のこちら側だけでなく、向こう側にも三人の女子生徒が楽しげに笑いながらスカートの裾をひらひらさせて歩いていた。
「それなのにあんたは一向に女子に対してアクションするということがない。このままだと一生を童貞で終えるわよ。占術では祖母を凌駕しているとまで云われたあたしの見立てよ。間違いないわ」
「何言い出すんだよ、いきなり! そんな恐ろしい見立てを勝手にしないでくれ」
「あーら。返事しなくていいって言ったのに、ほんと、我慢のなってない子ねえ。そういうの、早漏って呼ぶのよ」
いつも登下校の最中、こんな風に姉は話しかけてくる。それを可能な限り無視するスキルを備えているつもりだが、流石に向こうの方が年長者で、肉親だ。よく大悟のことを分かっている。
思わず答えてしまい仏頂面になった大悟は口を噤んで先を急いだ。
「ねえねえ」
けれど姉の声は遠ざからない。何故なら姉は霊体だからだ。寧ろ普通に隣で話していた距離感から一気に耳元に近づき、ふう、と息を吹きかけられた。
「イヤン、て、何言わせるんだ」
「あんたって右より左の方が弱いのよね。赤ん坊の頃にずっとあたしが左側に寝てた所為かしら」
実は小さい頃、というか、姉が生きていた頃の記憶はほとんどない。覚えていないというよりはある時点からすっぽりと抜け落ちたみたいに、あるいは重要な資料の一部を黒塗りにされたみたいに思い出せない。
「ねえ」
無視して、歩を進める。
「ねえねえ」
姉はいつも大悟に対して「ねえ」と呼びかける。それは彼女の中の大悟が、いつまで経っても十歳下の弟のままだからだ。けれど姉の時間は不幸な事故により止められてしまった。あの日、十七歳の誕生日を迎えた朝から。
「ねえったら」
「返事はしなくていいって言ってなかったか?」
「ほんと、そういうとこ、モテないわよ」
「大きなお世話だ」
「それでさ、お世話ついでに、あんたの童貞、あたしが面倒見てあげようかなって」
何を言い出すんだ――という言葉を呑み込んだのは大悟の視野が赤信号を無視して交差点を抜けるトラックを捉えたからだ。その先の横断歩道には小さな子どもの手を引いて渡り始めている若い女性がいる。
こういう時の大悟の決断は早い。
鞄を投げて駆け出すこと、一歩、二歩の僅かな動作でトップスピードに乗り、トラックがクラクションを鳴らすその間にも子どもの腕を掴み、女性の腰を抱きかかえて自分の体を背に、地面へと倒れ込む。人間マットレスとなった彼の上、子どもはぺたんと座っただけで、女性の豊満な肉体はその二つの大きな膨らみを大悟の顔へと押し付けながらも、前のめりに倒れた。
ほんの数秒の出来事だ。
トラックは僅かにケツを左右に振ったがどうやら事故なく行ってしまったらしい。
「あの」
「大丈夫でしたか」
「あなたこそ」
「俺は、女性の尻に敷かれることに慣れてますから」
起き上がった女性は笑っている子どもの手を握りながら眉を顰め、それでも一応お辞儀をしてから、再び横断歩道を渡っていった。
大悟に霊感と呼べるものはほとんどない。だからといって勘が悪い訳ではないし、寧ろ鋭い方だ。ただ女性とのコミュニケーション能力における勘の良さというのは皆無といってよかった。
「ああいうの、本当に困るよな」
「うん」
姉の「うん」が単純な相槌の「うん」ではなかったが、大悟は気にせず歩き始める。
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