幽霊な姉と妖精な同級生〜ささやき幽霊の怪編

凪司工房

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 ねえねえ――。
 
 右耳の表面をくすぐる微かな響きを感じ、まぶたを持ち上げようとした。けれどまだ全身が重く、とても夢現ゆめうつつから抜け出せない。
 もう少しだけ……と声にならない声で、土筆屋大悟つくしやだいごは息を吐き出す。
 
 ねえ。ねえねえ――。
 
 けれどその愛らしい声は、彼の意識を無視して今度は左の耳へと囁かれた。
 吐息のようなささやきは大悟を良い加減に脱力させる。ついで、鼻の先を甘い匂いが掠めた。それは教室に入った瞬間にいつも漂う香り、即ち森ノ宮静華もりのみやしずかのものだ。
 大悟たち、二年C組の教室の一番前の廊下側の席には、妖精が座っている。ある者は彼女を天使と呼び、ある者は女神と崇める。金髪ではなく黒髪だが細い髪質で光に透かすとわずかに茶色く見える、その絹のようなストレートの美しい髪に、造形の良い卵型の顔は誰が見ても美人だと思うだろう。スタイルは充分にモデルが務まるほどで、何度か雑誌の取材に答えている場面を同級生が目撃している。だが容姿だけが彼女を妖精にしているのではなかった。その穏やかな佇まいに、誰に対しても優しく語りかけ、彼女の周囲だけ光の粉が舞っているようにすら見えてしまう、その心身合わせた総合評価が、彼女をクラスの、いや、学校一の特別にしていた。
 休み時間ともなれば彼女は女子生徒に取り囲まれ、いつもそこは花園と男子から呼ばれていた。近づいた女子はこんなことを口にしていたそうだ。
 
 ――傍にいるだけで自分まで美しくなったような気分になるの。
 
 そんな人間がこの世に存在していいのだろうか。

「故に彼女は人間ではないのだ!」

 と同級生の海螺貝つぶがいは断言していたが、大悟にとってはそういう分類に当てはめることすら烏滸がましいという思いがあった。
 その森ノ宮静華の匂いが、漂ってくる。それもこんなに近くで。その意味を理解出来ないほど、大悟は夢の最中ではない。

「まだ、眠い?」
「あ、ああ」

 森ノ宮静華が、自分に問いかけていた。教室ですら目は合わせても向こうから積極的に声を掛けてくることはない。大悟にとって森ノ宮静華は教室の窓際の一番後ろの自分の席から対角線上に位置する、何もかもが遠い存在なのだ。

「でもそろそろ起きないと、ほら、遅刻しちゃうかも知れないし」

 その森ノ宮静華が、自分の心配をしてくれている。自分を気遣ってくれている。そんな現実が存在するだろうか。

「けれど泥の中にいるように瞼が重いんだ」
「それじゃあ眠ったままでいいから、一つね、聞いてもらいたい言葉があるの。君が起きている時にはうまく言えない言葉」

 何だろう。そもそも森ノ宮静華が自分如きを歯牙に掛けているとは世界に天変地異でも起こらない限りはあり得ない。つまり絶対に“ない”訳だ。それが「言いたいことがある」とは、世界が崩壊しようとしているのだろうか。
 そんな訳はない。
 
 ――そう。つまりこれは夢だ。夢だから彼女がこんなに近くにいるのだ。
 
 その考えに納得し、大悟は「ふふ」と小鳥のように笑う彼女の、次の言葉を待った。

「あのね、わたし、実はずっと大悟くんのこと、見ていたんだ」

 嘘だ。夢の中だから。それでも嬉しい。森ノ宮静華が自分をずっと見てくれていたのだ。嘘であっても喜ばないでか。
 どうせならこのまま一生覚めないでいて欲しいとすら思う。夢の中でくらいしか、憧れの森ノ宮静華と会話をするなんて奇跡は起こらないのだから。

「高校だけじゃない。中学では子猫の悪徳ブリーダーの家で苦しんでいる子たちを一斉に解放して近所がまたたく間に猫だらけになったり、小学六年の時には中学のカツアゲグループを神社に呼び出してもう絶対にカツアゲしませんというまで制裁を続けて警察にやり過ぎだって注意されたり、そういう正義感の強いところも、本当に素敵だと思う」

 まるで本当にずっと見てきたみたいだ。ただこれは夢だ。問題ない。夢というのは論理性も整合性も無視して、何とも都合の良いように出来事が連なっている。だから大悟も一切の疑問を持たずにそれを聞いていた。

「そんな大悟くんも小さい頃はひょろんとしてて本当に泣き虫で、風邪を引く度に病院に運ばれていたのに、知らない間にこんなに胸板が厚く逞しくなって」

 改めて言う。これは夢だ。だからおかしいところなどは何もない。何もないのだが、確か森ノ宮静華は大悟が小学生の頃には海外で暮らしていたのではなかっただろうか。それともその記憶そのものが夢なのだろうか。

「男の子っていつの間にかしっかりと男になっているのね」

 いや、明らかに何かがおかしい。
 一点でも疑問を持ち始めると、たとえ夢の世界であってもその頓珍漢とんちんかんな整合性というのは瓦解を始める。

「ねえねえ、大悟くん」

 声音をオクターブ高くして愛らしく聞かせているけれど、その不必要に舌足らずでウェット感のある声を、森ノ宮静華は出さない。

「大悟くんも、その、私のこと、好き?」

 森ノ宮静華はそんな問いかけをしない。そもそも大悟のことを「大悟くん」と彼女は呼ばない。絶対に男子に対して名前にくん付けなどしないからだ。

「私は大悟くんのこと、ずっと前から……」

 砂糖菓子よりもずっと、ねっとりとして甘い声だった。それは生クリームにバターにあんこにチョコレートソースに、更に粉砂糖までふりかけて、これでもかと誤魔化したもののようだ。そんな甘さは、森ノ宮静華にはない。

「好きなら、好きって言って。ねえ、大悟くん」

 彼女の声はもっと凛として、それこそ制汗剤のようにすっきりとしている。柑橘系の、爽やかさこそが彼女には似合うのだ。
 
 ――ああ、そうか。これはいつものアレか。
 
 大悟はかっと目を見開く。その様は正に金剛力士像の如くで上半身をむっくと起こすと、ここが自分の部屋のベッドの上で、本棚には見慣れたライトノベルの背表紙が番号順にきっちり並び、勉強机にはノートパソコンが蓋を閉じた状態でちゃんと置かれていることを確認した。更に押入れは開いておらず、入口のドアもしっかり閉じられたままだ。当然、自分の隣には誰もいない。森ノ宮静華など存在しない。その欠片すら見当たらない。

「ねえねえ、大悟くぅん。ほらぁ、そろそろちゃんとわたしのことぉ、好きって言ってよぉ。ねえってばぁ」

 クリームをたっぷり詰め込んだロールケーキに更にハチミツとシロップと焦がしバターをトッピングしたような声音に対し、大悟はドライアイスを投げつけるかのように言った。

「姉ちゃん、いい加減にしてくれ」
「何だい。ケチだねえ、相変わらず」
「俺の好きはそんな安売りはしない」
「何さ。十年前ならおねーたんおねーたんて言って、しょうらいケッコンするんだぁ、なんて可愛らしかったのに」
「いつの時代の話だよ」
「あんたがまだ可愛いチンチン見せながら、一緒にお風呂入ってた頃」
「それ三歳までだろ?」
「いいや。小学校に入る前まで一緒に入ってあげてたじゃない。忘れちゃったの?」
「俺が入ってるところに無理やり押し入ってきたんだろ。それは一緒に入ってたと言わない」
「じゃあ、あんたの大切な森ノ宮静華に話してもいい?」
「やめろ。てか、やめて下さい。お願いします」
「じゃあ、お姉ちゃん大好きですと言いなさい」
「それは嫌だ」
「森ノ宮さーん」
「あのな」

 大悟は何もない空間に向かってため息を吐いた。
 そう。姉ちゃん、とは言ったものの、その存在はどこにも見えない。この部屋には正真正銘、大悟しかいない。それなのに、

「もうちょっと姉に優しさの欠片を見せてくれてもいいのにさ。ふんだ」

 拗ねたような声が、大悟の耳には届いていた。
 おそらく傍から見ればきょろきょろと何もない空間を見回しながら喋っている大悟の姿は、実に滑稽なことだろう。頭がちょっとおかしいんだと思われても仕方ない。
 それでも大悟にとって、姉はちゃんと存在している。ただ見えないし、生きてもいない。
 大悟の姉、土筆屋美薗つくしやみそのは既に亡くなっている。
 そう。彼の姉は幽霊だった。
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