上 下
19 / 37
第二章 硝子の靴

8

しおりを挟む
 一方その頃、右腕を痛めて眠っていた元オオカミ卿こと、オルフはと言えば、実に奇妙なことになったとその毛深い目元に深く皺を刻んでいた。

「お姉さま、ほんと、オルフ様のもふもふときたら、触れているだけでまるで天にも昇ってしまいそうな心地ですわね」

 応接間の金細工が施された手すり付きの椅子に腰を深く下ろしたオルフの足元に屈み込み、エルマと自己紹介した二人姉妹の妹の方が頬を赤らめながらも、その手で彼のお腹や胸の毛並みをでている。

「このような高貴なもふもふをお持ちのお方が偶然わたくしたちの家の前で倒れていただなんて、何という好機、いえ、本当に危ないところでしたわね。賊にでも襲われていたらどうなっていたことか」

 背後に周り、その豊満な胸元をオルフの後頭部に押し付けながら、姉のデボラの方も彼の首筋からあごの下に掛けて、何度も撫で付ける。
 その様子を部屋の入口に立ち、ボロ頭巾を被ったシンデレラはじっと見つめながら、その視線が合う度にオルフに小さく頭を下げていた。それで謝罪をしているつもりなのだろうか。

 チェルが屋敷を出ていったすぐ後のことだ。客室に寝かされていたオルフはそろそろ腕の痛みが紛れてきたので水でも飲みに起きようと、部屋を出たところ、ちょうど歩いてきた姉のデボラとぶつかってしまった。幸いどちらも怪我こそなかったが、自分の家に全く知らない人物、それも見た目が明らかに人ではないそれがいたとなると、悲鳴だけに留まらず、失神してしまったのだ。
 そこに駆けつけた継母と妹に、シンデレラが思わず、

「この方はさる侯爵様ですが、悪い魔法使いに呪いに掛けられ、今はこうしてオオカミの姿をしていらっしゃるのです。危うく行き倒れになりそうなところを、家の前で拾いました」

 そんなへんてこな理屈を並べたのだが、継母たちはすっかり信用してしまったらしく、高貴な人物として丁重に扱われる運びとなったのだ。しかも何故か姉妹はオルフの毛並みをえらく気に入ってしまい、一度撫で始めたら離れなくなってしまった。
 オルフは娘たちを何とかしようと自身の不機嫌さを荒々しい鼻息に混ぜるが、彼女たちの水仕事を知らない綺麗な手で撫でられる度に体の芯からぞわわぞわわと言いようのない快感が競り上がり、その気が紛れてしまう。

 ――何故こんなことになってしまったのか。

 かつて誰もが恐れ慄き、その前にひれ伏したあのヴァーンストル侯爵の威厳は今や微塵みじんもない。娘二人に籠絡ろうらくされているかの如くに体毛を撫でられ、甘えた声を掛けられ、それを振り払うことすら叶わない。
 オルフは必死に自分に言い聞かせようとしていた――これは儂が弱くなったのではなく、この首輪の所為だ――と。
 しかしいくらそう言い訳してみたところで、こんな痴態ちたいを自分を知る人間に晒せる訳がなく、ずっとチェルとかいうあの娘が戻ってこないことを願っていた。

「あなたたち、そろそろオルフ様もお疲れでしょう?」

 部屋に入ってきたのは薄く透けた紫のワンピースと、その内側に白の上下の下着を身に着けている彼女たちの母親だった。名前は確かバルバラとか言ったか。化粧を直してきたようで、先程までは濃く塗られた頬と唇の赤みの強い紫が目立っていたが、今はそれらが抑えめになり、代わりに目元が強調され、睫毛まつげが増え、そこにかすかに光る粉が掛かっているようだ。
 オルフに近寄ると鼻が曲がりそうな強烈な香水の臭いがした。いや、これは人間ではなくオオカミになった所為かも知れない。ともかくこの世界に来て以来、オルフは自分の感覚が今までと違い過ぎて戸惑うことが増えている。特に嗅覚に関しては元々敏感な方ではあったとはいえ、それとは比べ物にならない程に鋭敏になっていた。

「ほら、あなたたちがずっと撫でているからオルフ様もお困りじゃない。そうですよね?」

 それは貴様の香水の所為だ、と言いたいところだったが、母親の言葉で娘二人がようやく離れてくれたので、文句は控えておいた。

「すみません。つい、こう、触れるといつまでももふもふとしていたくなりまして」
「そんなこと言って、本当はお母様が楽しみたいんじゃないの?」

 妹は素直に謝ったが、姉は名残惜しそうに離れた後で、母親を意味ありげに見つめてそう言った。

「あのぉ……」

 か細い、それこそ虫のような声だ。シンデレラのものだが、それすらも今のオルフの耳にはよく響く。

「何? あんた、自分がオルフ様を助けたとでも思ってるの?」

 エルマは小柄で、どことなくチェルに似た雰囲気があるが、その口ぶりの生意気さもそっくりだとオルフには思える。ただチェルと比較して、知識も教養も語彙力ごいりょくも足りていない。おそらく姉と母親の影響だろう。後ろ盾として彼女たちの存在を利用し、自分では何もしてこなかったことが、チェルのそれとは大きく差をつけたのだ。

 オルフはおよそ三十年の人生の中で、様々な人間と対峙してきた。出会う、ではなく、それぞれと命のやり取りをするような対話ややり取りをして、侯爵の地位を掴んだ。そこで養われた経験と選別眼にはそれなりに自信を持っていたし、チェルに何度も馬鹿呼ばわりされたが、そういう態度を取ることでこちらを冷静ではなくさせようという意図があったことも、見抜いていた。
 ただそれでも頭に血が上りやすく、面倒ならさっさと殴るか殺すかして相手を黙らせてきたオルフだ。
 それが気に入らない娘たちにこんなに長時間囲まれ、しかもまるで犬コロのように撫でられ、甘やかされ、可愛がられているという屈辱くつじょくに、自分が爆発してしまわないことが不思議だった。
 牙が抜けたオオカミ卿など、確かに役立たずでしかない。そんな自分に苦笑する。

「だから何? シンデレラ。はっきりお言い」

 いつまでもぼそぼそとしか話さない彼女に苛立った姉が、床をりつけてそう言った。

「ひ、ひぃ! す、すみません! あ、あのですねぇ、ヴァーンストル侯爵様もとてもお疲れになられていらっしゃるので、今日のところは客室にて、お休みいただいた方がよろしいのではないかと、こう思う訳でしてぇ」
「そんなことあなたに言われるまでもなく分かっているわよ。ねえ、お母様」
「ええ、そうよ。分かっているわ。ただ」

 ただ、とバルバラは付け加える。

「オルフ様がどこで寝たいのか、ということについては、聞いてみないとねえ」

 目を細め、オルフに向けてそう言うと、バラバラは唇をゆっくりとナメクジのような舌で撫で回し、軽くキスする真似をした。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

転生墓守は伝説騎士団の後継者

深田くれと
ファンタジー
 歴代最高の墓守のロアが圧倒的な力で無双する物語。

アイドルグループの裏の顔 新人アイドルの洗礼

甲乙夫
恋愛
清純な新人アイドルが、先輩アイドルから、強引に性的な責めを受ける話です。

【完結】悪役令嬢に転生したけど、王太子妃にならない方が幸せじゃない?

みちこ
ファンタジー
12歳の時に前世の記憶を思い出し、自分が悪役令嬢なのに気が付いた主人公。 ずっと王太子に片思いしていて、将来は王太子妃になることしか頭になかった主人公だけど、前世の記憶を思い出したことで、王太子の何が良かったのか疑問に思うようになる 色々としがらみがある王太子妃になるより、このまま公爵家の娘として暮らす方が幸せだと気が付く

転生したら脳筋魔法使い男爵の子供だった。見渡す限り荒野の領地でスローライフを目指します。

克全
ファンタジー
「第3回次世代ファンタジーカップ」参加作。面白いと感じましたらお気に入り登録と感想をくださると作者の励みになります! 辺境も辺境、水一滴手に入れるのも大変なマクネイア男爵家生まれた待望の男子には、誰にも言えない秘密があった。それは前世の記憶がある事だった。姉四人に続いてようやく生まれた嫡男フェルディナンドは、この世界の常識だった『魔法の才能は遺伝しない』を覆す存在だった。だが、五〇年戦争で大活躍したマクネイア男爵インマヌエルは、敵対していた旧教徒から怨敵扱いされ、味方だった新教徒達からも畏れられ、炎竜が砂漠にしてしまったと言う伝説がある地に押し込められたいた。そんな父親達を救うべく、前世の知識と魔法を駆使するのだった。

病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない

月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。 人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。 2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事) 。 誰も俺に気付いてはくれない。そう。 2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。 もう、全部どうでもよく感じた。

システムバグで輪廻の輪から外れましたが、便利グッズ詰め合わせ付きで他の星に転生しました。

大国 鹿児
ファンタジー
輪廻転生のシステムのバグで輪廻の輪から外れちゃった! でも神様から便利なチートグッズ(笑)の詰め合わせをもらって、 他の星に転生しました!特に使命も無いなら自由気ままに生きてみよう! 主人公はチート無双するのか!? それともハーレムか!? はたまた、壮大なファンタジーが始まるのか!? いえ、実は単なる趣味全開の主人公です。 色々な秘密がだんだん明らかになりますので、ゆっくりとお楽しみください。 *** 作品について *** この作品は、真面目なチート物ではありません。 コメディーやギャグ要素やネタの多い作品となっております 重厚な世界観や派手な戦闘描写、ざまあ展開などをお求めの方は、 この作品をスルーして下さい。 *カクヨム様,小説家になろう様でも、別PNで先行して投稿しております。

貴方が側妃を望んだのです

cyaru
恋愛
「君はそれでいいのか」王太子ハロルドは言った。 「えぇ。勿論ですわ」婚約者の公爵令嬢フランセアは答えた。 誠の愛に気がついたと言われたフランセアは微笑んで答えた。 ※2022年6月12日。一部書き足しました。 ※架空のお話です。現実世界の話ではありません。  史実などに基づいたものではない事をご理解ください。 ※話の都合上、残酷な描写がありますがそれがざまぁなのかは受け取り方は人それぞれです。  表現的にどうかと思う回は冒頭に注意喚起を書き込むようにしますが有無は作者の判断です。 ※更新していくうえでタグは幾つか増えます。 ※作者都合のご都合主義です。 ※リアルで似たようなものが出てくると思いますが気のせいです。 ※爵位や言葉使いなど現実世界、他の作者さんの作品とは異なります(似てるモノ、同じものもあります) ※誤字脱字結構多い作者です(ごめんなさい)コメント欄より教えて頂けると非常に助かります。

貧民街の元娼婦に育てられた孤児は前世の記憶が蘇り底辺から成り上がり世界の救世主になる。

黒ハット
ファンタジー
【完結しました】捨て子だった主人公は、元貴族の側室で騙せれて娼婦だった女性に拾われて最下層階級の貧民街で育てられるが、13歳の時に崖から川に突き落とされて意識が無くなり。気が付くと前世の日本で物理学の研究生だった記憶が蘇り、周りの人たちの善意で底辺から抜け出し成り上がって世界の救世主と呼ばれる様になる。 この作品は小説書き始めた初期の作品で内容と書き方をリメイクして再投稿を始めました。感想、応援よろしくお願いいたします。

処理中です...