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第二章 硝子の靴
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見上げると木漏れ日が差し込んでいる。
そこは木々に囲まれた泉の畔だった。
チェルはあの辛気臭い場所から離れられただけで随分と気分が良くなっていたが、自分が妙に弾力のある椅子に座っていることに気づいて足元を見た。そこには大きく横たわる毛皮のもふもふが置かれている。
――あ。
彼だ。
チェルたちがいた世界ではヴァーンストル侯爵を名乗り、その傍若無人で嗜虐趣味な暴君の有様から誰ともなく「オオカミ卿」と呼んでいた。
しかし今や彼はただのオオカミである。自分の領土も持たず、臣下もなく、ましてや人ですらない。
「おい、小娘。いつまで儂の上に載っているつもりだ?」
「あら、もう起きていたの? 眠っていたから盗賊に大事なものを取られないよう、見張っていてあげたのよ」
よいしょ、と彼女がその毛皮の塊から降りると、塊だったものは四肢を踏ん張り、一気に立ち上がる。かつての二メートル近い巨漢ではないものの、それでもチェルよりは頭二つほど大きい。頭部がオオカミで全身を触り心地の良い黒色の毛並みで覆われているので、一瞬熊のように見えないこともない。
「小娘が、これさえ無ければ今直ぐにその首を捻ってくれるものを」
これ、と卿が呼んだのは自分の首に付けられた鎖の付いた首輪だ。その鎖の先端は二十センチほどで途切れているが、どこにも繋がっていないという訳ではないらしい。
その証拠にチェルに向けてその右腕の鋭い爪先を思い切り近づけて喉元を切り裂こうとすると、
「うげっ」
首輪が締まり、更に背中の方へと引っ張られてしまう。
「あの女神女、儂に何てものを付けてくれたんだ。全く」
「あんたが誰彼構わずに殴りつけたり、ましてや殺そうとしないようにでしょ。あたしだって殺人犯の相棒を持ちたくはないわよ」
相棒、という言葉を卿に使い、自分で言いながらもチェルは背筋がぞわぞわとしてしまう。
しかしこの世界では唯一自分を知る人間(見た目はどう考えてもオオカミだったが)は、このクソオオカミ卿しかいない。それは同時に頼ることができるのも、このオオカミ面しかいないということだった。
チェルたちがこの森に落とされる一時間ほど前、あの自称女神はチェルたちにこんな提案をした。
「あなたたちが、侵食され、物語の理が壊れてしまっているそれぞれの世界に行って物語を正しい方向に修正してくれたら、あなたたち赤ずきんの世界も元通りになるんじゃないかしら」
「そういうのは女神であるあんたがやればいいんじゃないの? そもそもあたしらはただの世界の欠片なんでしょう?」
「それがね、女神はそれぞれの世界に対して力の行使ができないのよ。世界独立の原則と言ってね」
「何故そんな面倒なことを儂がやらねばならんのだ?」
「だってあなたたち、元の世界に戻りたいでしょ? 」
「いや。儂は元の世界に戻りたい訳ではない。どこでも良い。ただ権力さえあれば。力を使い、多くの弱者を嬲る。それこそが至上の悦びなのだ。その悦楽を得たいが為に苦労して領主となったのに、その世界がないだと? そんなバカな話があるか」
「この嗜虐フェチは置いといて、あたしは世界が元通りになるのなら、少しくらい付き合ってあげてもいいわよ。お母さんはどうでもいいけど、お祖母ちゃんにはもう少し生きててもらいたいし」
「そう。じゃあ決まりね」
「おい」
こうしてオオカミ卿、ではなくただのオオカミの意思を無視し、チェルたちは崩壊する世界の世直しをすることとなった。
そしてやってきたのが『シンデレラ』と呼ばれる世界である。
「で、ここどこよ?」
泉を覗き込むと太陽が反射して煌いている。できれば日が高い内にそのシンデレラなる少女に出会いたい。
チェルは自分の右腕にされた腕輪を見て、話しかけた。
「ねえ。聞こえる?」
「まだ……通信状況がよくない……みたい……一応、声は……わか……」
チェルたちが他の世界の人や物を傷つけないように監視する不思議な首輪と腕輪は、一方で女神の部屋にいる彼女と連絡を取ることができるという機能も備えていた。ただ、どうも世界の状態が安定していないと上手く使えないらしく、さっきから何度か話しかけているが、ずっとこんな調子なのだ。
女神がいくら自分を物語の神だ、世界を管理する者だと誇ったところで、どうにも頼りない姿しか見せてもらえない。
チェルは連絡を取るのは諦め、彼女から事前に聞かされた情報を整理しつつ、歩き出す。
「おい。そちらで良いのか?」
「知らないわよ。そもそもここがどこか、まずそれを知らなきゃでしょ?」
幸い、細くて背の高い、葉が鋭くなったアースヴェルトの森でもよく見かけた種類の樹木が立ち並んでいる。トウヒやモミと呼ばれている木だ。それが適度に間を保って生えていた。足元には茶色の羽を重ねて楕円状のボールのようになったそれらの実が落ちている。
それが多く落ちている場所と、少ない場所があり、幾つかは明らかに何かが踏みつけた跡が見つかった。
「この泉に水を汲みに来ているのよ」
「誰が?」
「これからその人物に会いに行くわ。あんた、大人しくしてなさいよ」
「そりゃあ相手次第だ。無礼者なら四の五の言わずにこの爪で……あ痛たたた。クソ! この首輪が!」
勝手に自分で苦しくなってゲホゲホとやっているオオカミは無視し、チェルは人が歩いて出来たらしい野道に沿って進んで行った。
そこは木々に囲まれた泉の畔だった。
チェルはあの辛気臭い場所から離れられただけで随分と気分が良くなっていたが、自分が妙に弾力のある椅子に座っていることに気づいて足元を見た。そこには大きく横たわる毛皮のもふもふが置かれている。
――あ。
彼だ。
チェルたちがいた世界ではヴァーンストル侯爵を名乗り、その傍若無人で嗜虐趣味な暴君の有様から誰ともなく「オオカミ卿」と呼んでいた。
しかし今や彼はただのオオカミである。自分の領土も持たず、臣下もなく、ましてや人ですらない。
「おい、小娘。いつまで儂の上に載っているつもりだ?」
「あら、もう起きていたの? 眠っていたから盗賊に大事なものを取られないよう、見張っていてあげたのよ」
よいしょ、と彼女がその毛皮の塊から降りると、塊だったものは四肢を踏ん張り、一気に立ち上がる。かつての二メートル近い巨漢ではないものの、それでもチェルよりは頭二つほど大きい。頭部がオオカミで全身を触り心地の良い黒色の毛並みで覆われているので、一瞬熊のように見えないこともない。
「小娘が、これさえ無ければ今直ぐにその首を捻ってくれるものを」
これ、と卿が呼んだのは自分の首に付けられた鎖の付いた首輪だ。その鎖の先端は二十センチほどで途切れているが、どこにも繋がっていないという訳ではないらしい。
その証拠にチェルに向けてその右腕の鋭い爪先を思い切り近づけて喉元を切り裂こうとすると、
「うげっ」
首輪が締まり、更に背中の方へと引っ張られてしまう。
「あの女神女、儂に何てものを付けてくれたんだ。全く」
「あんたが誰彼構わずに殴りつけたり、ましてや殺そうとしないようにでしょ。あたしだって殺人犯の相棒を持ちたくはないわよ」
相棒、という言葉を卿に使い、自分で言いながらもチェルは背筋がぞわぞわとしてしまう。
しかしこの世界では唯一自分を知る人間(見た目はどう考えてもオオカミだったが)は、このクソオオカミ卿しかいない。それは同時に頼ることができるのも、このオオカミ面しかいないということだった。
チェルたちがこの森に落とされる一時間ほど前、あの自称女神はチェルたちにこんな提案をした。
「あなたたちが、侵食され、物語の理が壊れてしまっているそれぞれの世界に行って物語を正しい方向に修正してくれたら、あなたたち赤ずきんの世界も元通りになるんじゃないかしら」
「そういうのは女神であるあんたがやればいいんじゃないの? そもそもあたしらはただの世界の欠片なんでしょう?」
「それがね、女神はそれぞれの世界に対して力の行使ができないのよ。世界独立の原則と言ってね」
「何故そんな面倒なことを儂がやらねばならんのだ?」
「だってあなたたち、元の世界に戻りたいでしょ? 」
「いや。儂は元の世界に戻りたい訳ではない。どこでも良い。ただ権力さえあれば。力を使い、多くの弱者を嬲る。それこそが至上の悦びなのだ。その悦楽を得たいが為に苦労して領主となったのに、その世界がないだと? そんなバカな話があるか」
「この嗜虐フェチは置いといて、あたしは世界が元通りになるのなら、少しくらい付き合ってあげてもいいわよ。お母さんはどうでもいいけど、お祖母ちゃんにはもう少し生きててもらいたいし」
「そう。じゃあ決まりね」
「おい」
こうしてオオカミ卿、ではなくただのオオカミの意思を無視し、チェルたちは崩壊する世界の世直しをすることとなった。
そしてやってきたのが『シンデレラ』と呼ばれる世界である。
「で、ここどこよ?」
泉を覗き込むと太陽が反射して煌いている。できれば日が高い内にそのシンデレラなる少女に出会いたい。
チェルは自分の右腕にされた腕輪を見て、話しかけた。
「ねえ。聞こえる?」
「まだ……通信状況がよくない……みたい……一応、声は……わか……」
チェルたちが他の世界の人や物を傷つけないように監視する不思議な首輪と腕輪は、一方で女神の部屋にいる彼女と連絡を取ることができるという機能も備えていた。ただ、どうも世界の状態が安定していないと上手く使えないらしく、さっきから何度か話しかけているが、ずっとこんな調子なのだ。
女神がいくら自分を物語の神だ、世界を管理する者だと誇ったところで、どうにも頼りない姿しか見せてもらえない。
チェルは連絡を取るのは諦め、彼女から事前に聞かされた情報を整理しつつ、歩き出す。
「おい。そちらで良いのか?」
「知らないわよ。そもそもここがどこか、まずそれを知らなきゃでしょ?」
幸い、細くて背の高い、葉が鋭くなったアースヴェルトの森でもよく見かけた種類の樹木が立ち並んでいる。トウヒやモミと呼ばれている木だ。それが適度に間を保って生えていた。足元には茶色の羽を重ねて楕円状のボールのようになったそれらの実が落ちている。
それが多く落ちている場所と、少ない場所があり、幾つかは明らかに何かが踏みつけた跡が見つかった。
「この泉に水を汲みに来ているのよ」
「誰が?」
「これからその人物に会いに行くわ。あんた、大人しくしてなさいよ」
「そりゃあ相手次第だ。無礼者なら四の五の言わずにこの爪で……あ痛たたた。クソ! この首輪が!」
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