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第十章 「私たちの篝火(かがりび)」

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 結局、そのまま汗を洗い落とすことなく、私たちは朝を迎えた。

「おはよう」

 すぐ目の前に、彼の「おはよう」が帰ってくる。
 唇でも挨拶をすると、何だか恥ずかしくなって私は布団を抜け出した。
 朝ご飯は味噌汁に漬物の残りと、蕪の煮物だった。
 彼は文句を言わずに食べてくれると、私が洗い物をしている間に押入れの中から失敗作のアロマキャンドルを取り出して見ていた。

「どうしても上手く出来ないものもあって」
「人生と同じじゃないですか」
「何よそれ」
「成功ばかりなんてことは、絶対にないんですよ。ただ他人には見えないだけで、きっと今幸せだけに囲まれているような人だって、その裏には沢山の失敗があるんです。俺はそう思ってますよ」

 急に大人びたことを口にされると、何だか歳上としての威厳が保てない。

「祐二君は、どうする?」
「俺も一緒に行きますよ」
「どうしても?」
「俺の帰る場所は、いつだって海月さんのいるところなんで」

 蛇口から落ちる水が、冷たくてどうにかなりそうだった。

 準備を終えてバッグに荷物を詰めると、住吉夫妻に渡す手紙を持って、家を出る。
 まだ白靄しらもやが掛かっていて、このまま別の世界にでも行ってしまえそうだ。
 二人で並んで、道を歩く。
 車は時々脇を抜けていくけれど、歩いている二人を見て何を思っただろうか。
 彼の腕が、私の左肩をぐっと抱き寄せる。

「祐二君?」
「……いいでしょ」

 うん。
 と小さく頷く。
 そのまま黙って歩き続けた。
 住吉さんたちのダイニングカフェの前までやってくると、物音を立てないように注意しながら玄関口に近づいてポストに手紙を入れた。中身を読んでくれれば、全ての事情が書いてある。どんな風に思われるかは分からない。それでも、出来れば彼らにはまた会って笑って話がしたかった。

「ありがとう、ございました」

 小声で言ってから、頭を下げる。
 バス停までは緩い下り道が続いていた。

 私も彼も、分かっていたのかも知れない。
 バスに揺られながら、駅前へと向かう。その最中で、何も言葉を交わさないままただ、体を寄せ合った。
 熱い。
 体の中から、いくらでも湧き上がってくる。
 まだ、私の中の灯火は消えていない。
 それに気づいたのは、いつだろう。
 出会ってしまったからだろうか。
 それを運命の悪戯と呼ぶのなら、私はそれに少しだけ感謝したい。
 気づかせてくれて、ありがとう。
 彼に会わせてくれてありがとう。
 沢山の人を傷つけたかも知れない。
 それでも、そうしなければ気づけなかった大切なことに、気づけたように思う。
 彼の顔が近くなる。
 もうすぐ、駅が見えてくる。
 そこでは、吉井刑事が待っていると連絡があった。彼の胸元のスマートフォンが震えているけれど、おそらくその連絡だろう。
 彼は出ない。
 ただ、私に体温を分けてくれている。
 離れたくない。
 その気持ちを押し殺して、私は席を立つ。
 あ、という彼の声に口づけをして、私は離れた。
 バスのステップを降りると、吉井刑事が何人かスーツ姿の男たちを連れて、私に手を挙げる。
 小さく頭を下げると、一度だけ振り返った。
 祐二君が、走ってきた。

「海月さん! 俺、何があっても海月さんのことを守るから! だから」

 愛してる。
 その言葉を、口にする。
 あなたを、愛している。
 私たちの炎は、まだ消えそうもなかった。(了)


※この物語はフィクションであり、登場する人物、団体等の名称は全て架空のものです。
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