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第十章 「私たちの篝火(かがりび)」

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 フロントガラスには無限に続くとも思える雪が当たっては、ワイパーに跳ね除けられていた。

「今日は一日雪だって言ってたからね」

 助手席に座る安枝さんが手をすり合わせながら私に笑い掛ける。染みの多い肌に皺が出来て、それが亡くなった旭川の祖母を思い起こさせた。

「栃木に住んでた頃はたまに降っては、ああ雪か、なんて思ってましたけど、こっちに来てからはもう勘弁して欲しいって気持ちにしかなりませんな」

 信号で停まると、彼女の夫の住吉正憲すみよしまさのりが振り返って前歯の無くなったのを見せる。安枝さんの手編みの帽子が似合っていて、何だか愛らしい。去年七十の声を聞いたと言っていた。頭髪は耳の上に少し残る程度で、安枝さんは全部剃ればいいのにと言っているが、そこに育毛剤を塗るのが正憲の日記になっていた。

「でも海月さんも驚いたでしょう。こっちはこれが当たり前なんですからね」
「ええ」

 本当は知っていた。小学生の頃は毎年のように祖母の家に来ては、雪に埋もれて笑っていたからだ。

「一年くらいで栃木に戻ろうかと思ってたんですけどねえ」
「面倒なことや大変なことがいっぱいあっても、何かしらその中に楽しみを見つけちまうと、そこから抜けるのが難しくなるってことだ」

 信号が青に変わり、車は再び進み始める。こんな雪中でも意外と車が多いことに驚いて外を見たが、その中にパトカーの姿を見つけ、私はそっとマスクを深くした。

「けど木彫りの熊が増えるのはいい加減にしてもらいたいです」
「何言ってんだ。この前の外人さんがベリープリチーつって買ってってくれただろ?」
「あれはあんたが日本じゃこれがプリチーなんだって言って押し付けたからでしょ?」
「時には押しの強さも大事じゃろが」
「ええそうですね。プロポーズの時も散々断る私の前で土下座して泣いて頼むから仕方なく結婚したんでしたし」

 また始まった、と私はマスクの下で笑いを噛み殺す。
 こちらに来てから移住者の住吉夫妻に何かと世話になっていた。彼らに出会えていなかったらどうなっていたか分からないな、と思うのだけれど、優しいだけじゃなく楽しい二人を見ていると、いつも少しだけ羨ましくなってしまう。

 住吉夫妻がやっている古民家を改築したダイニングカフェ『灯火ともしび』は、一組程度の宿泊にも対応していた。近年増える外国人旅行客に対しての民泊という制度を利用したものらしいが、詳しくはよく知らないんだと正憲さんが言っていた。
 私は昼にやっているランチタイムのみ、配膳や片付けを手伝わせてもらっている。

「流石に今日はお客さん来ませんね」

 大きめのテーブルが四組、それ以外にもカウンターに椅子が並べてある。
 その椅子に座り、安枝さんは編み物をしていた。手袋やマフラーではなく、もっと小さな人形だ。ただ頭部が猫や犬、猪、他にも熊になったものが沢山、窓に並んでいる。正憲は「そんな不気味な」と言うけれど、お客さんからの評判は良かった。

「そうそう。海月さん。この前ロウソク作ってきてくれたじゃない? あれってもっと沢山作れないの?」
「できますけど……材料が」

 ほうきを手に、私は住吉夫妻を見やる。

「それはこっちで何とかするよ。やっぱり灯火って名前だから、ああいうのがあると雰囲気出るって言われるんだよ」
「そうですか。なら、がんばって作ります」

 ロウソク、と言われたけれど、正しくはアロマキャンドルだ。教室で金森に教わり、その後、色々と祐二君から勉強させてもらった。ネットで材料を取り寄せてもらったのだけれど、元々は私が「灯火なのにキャンドルとか置かないんですか?」と訊いたことがきっかけだった。
 窓の外はいよいよ吹雪になっていて、私は一キロ先の借家まで戻れるかしら、と不安になった。

 傘が役に立たない中を、それでも何とか帰ってきた。
 築四十年は経っていると聞いている。木造の平屋で、中は寝室以外に和室と洋室がそれぞれ一つあった。住吉夫妻の知人のものらしいが、ご厚意で安い家賃で使わせてもらっている。それでも手持ちを考えればそう長くは住めないだろう。
 鍵を開けて中に入ると、ストーブに火を入れる。灯油の量を確認してから、上着を脱ぐ。冷蔵庫には昨夜の和物の残り、安枝さんにもらったラッキョウの漬物と手作りコンニャクがある。栃木の友達から送ってもらったそうだ。
 他には味噌汁みそしるの残りを温めて、冷凍庫に入れたご飯を一人前だけ出して、電子レンジに掛ける。
 カードが使えればもう少し色々とそろえられるのだろうが、いつここを出て行かなければならないかと考えると、どうしても二の足を踏んでしまう。
 ぼんやりとしていたからか、ガスコンロの上で薬缶が勢い良く煙を吹き上げていた。慌ててコンロを切る。お茶っ葉を取ろうと頭上の棚に手を伸ばしたら、缶が落ちてきてそれが額に当たってしまった。
 痛い。
 でも声を上げても誰も何も言ってくれない。
 それが一人ということなのだと、教えてくれる。

「祐二君……」

 そんな時に彼の名前を声に出す。
 ふと後ろを見れば彼がいるような気がしたが、幽霊すらいない。
 当たり前だ。
 私は一人なのだから。
 立ち上がって、缶を開ける。茶っぱを茶こしパックに詰め、急須に入れてお湯を注いだ。
 誰かの為じゃなく、自分の為だけにお茶を入れる。
 それは学生時代以来のことだった。
 思えばずっと、誰かの為に生きてきたのだ。
 その「誰か」がいなくなって、私は楽になったのだろうか。
 見上げた天井が、滲んでいた。

「さ、ご飯食べよ」

 誰にともなくそうつぶやくと、私は湯呑みにお茶を注いだ。

 正憲さんから貰った動物の卓上カレンダーを二月のポメラニアンに変えた次の日だった。

「こんにちは」

 私はラベンダーとキャロットのアロマキャンドルを手に、灯火を訪れた。

「こちら、それぞれ十二本ずつ、作ってみたんですけど」
「あらあら、いいじゃない。素敵だと思うわ」

 カウンターでランチの仕込みをしていた安枝さんは受け取った袋の中身を見て、顔を綻ばせる。
 そこに正憲さんが戻ってきた。後ろには白人と中国人だと思われる女性二人の旅行客を連れている。

「どうぞ、入って入って。プリーズ」
「どうも、ありがとうございます」

 二人とも日本語は話せるようだったが、正憲は「プリーズ」と「ウェルカム」を連発していた。

「あ、そうそう。海月さん」
「何ですか?」
「駅であんたを探してる人がいたよ」

 え……。
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