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第十章 「私たちの篝火(かがりび)」

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 翌日、埼玉県の県北にある本庄という町を、俺は訪れた。
 地図は全然当てにならなかったが、住所を聞きながら歩いていくと、駅から三十分以上掛かって路地の先に広がる住宅街にやってきた。番地からすればこの辺りだと思い、表札を調べながら一軒一軒見て歩く。
 農家が多い場所らしく、家と家の間に畑があったり、裏の方に大きな田んぼが広がっていたりした。

「ここ、か……」

 塀に囲まれた二階建ての家だった。表札に『深町』とだけ書かれていたが他に見なかったから可能性は高い。緊張気味にインタフォンを押してみる。
 何て切り出せばいいだろう。
 それとも昨日のようにいきなり出てきてぶん殴られるだろうか。
 確か友理恵さんは、彼女の両親には直接は不倫のごたごたについては話していないと言っていたが、警察が訪れているならある程度知られていてもおかしくはない。

「あれ?」

 もう一度押してみる。
 更に一度。

「あのー」

 声を掛け、玄関のガラス戸を叩いてみたが、反応はなかった。

「あんた、深町さんに用があんの?」
「ええ、そうです」

 いきなり声を掛けてきたのは、頭に手拭いを巻いたお婆さんだった。

「なら裏だろうね。畑してんだよ」
「そうですか」
「裏回ってみな」
「分かりました。どうもありがとうございます」

 誰なのか知らないが、言われた通りに右手の方から奥へと入っていく。縁側のある庭を抜けていくと、その先にビニールハウスが四棟広がっていた。そのハウスの前で、黄色いコンテナを持っている一人の女性の姿が見えた。

「あの」

 ひょっとしたら、と思って俺は声を掛ける。
 その女性は一度こちらを見たが、すぐにコンテナを軽トラの荷台に積む作業を再開する。
 どうしようかと考えたが、それが終わるまでは話してもらえそうになかったので、俺はシャツの袖を捲り上げ、ハウスの方に駆けて行った。

「手伝います。これ、全部載せればいいですか?」

 コンテナに入っていたのは蕪だった。


「すまなかったね。なんか手伝ってもらってさ」
「いや、いいんですよ。それより深町さん、ですよね」

 居間の炬燵こたつに入り、出してもらったお茶を一口飲む。熱くて舌が火傷しそうだったが、凍えた体が少しだけ緩んだ。

「海月さんの、母親……ですよね」
「あんたか」
「どういう風に聞かれてるか分かりませんけど、俺は海月さんを愛しています」

 すぐに出ていけと言われる覚悟で、そう口にした。

「怒らないんですか?」

 けれど何も言われなかったので、耐え切れずに自分からそう訊いた。

「そりゃ怒ってますよ。あの子にはね。自分の大切にしていた家族を、家庭を、無茶苦茶にして。その上世間様にも迷惑を掛けて。ひょっとしたら人殺しになっていたかも知れないんでしょ? 流石に怒りますよ」
「……すみません」
「どうしてあなたが謝るの?」
「いやだって」

 自分の責任でそうなったのだから、当然俺も一緒に怒られているのだと思った。

「他人様に迷惑を掛けようって、そういうつもりだったの? あの子のことも傷つけようって、そういう気持ちだったの?」
「違います。俺は本気で海月さんを」
「そうでしょう? だったら簡単に謝らないの」
「すみません」

 つい口を突いて出てしまって、母親ににらまれる。

「あの子にはね、普段から他人様に迷惑を掛けるようなことだけはしないようにって、きつく言い聞かせてきたの。でも、結局こうなっちゃったんだなって、思った。あの子もやっぱり私の娘だったんだなって」

 どういうことだろう。俺が視線を向けると、彼女は苦笑を浮かべてから続けた。

「実はね、恥ずかしい話、私も不倫をしたのよ」
「え」

 思わず声がれてしまう。

「今の旦那がね、その不倫相手。今風に言えば略奪婚になるのかしらね。ほんと、どうしてって思うけど……でも仕方ないわよね。好きになってしまったんだもの」

 全然知らなかった。海月さんはこのことを知っていたのだろうか。

「あの子には話してないわよ。お前の母親は不倫相手と結婚してお前を産んだのよ、なんて話せる訳ないものね」
「あの……それでも幸せでしたか」

 失礼な質問だったかも知れない。
 けれど、不倫相手と結婚した女性が、今どう感じているのか。それも海月さんの母親であるその人がどう感じてるのかを、知りたかった。

「誰かを不幸にして手に入れた幸せを、幸せだと言えなかったら、その人たちに失礼な気がするんだよ」
「そうですか」

 でもそれは幸せではなかった、という気持ちがあるということだろう。

「ちょっとね、あの子には厳しく言い過ぎたのかも知れないの。たぶん何か感じてたんだと思うけど、あの子の純粋な目を見ているとつい苛立ったりしてね。だから小さい頃は旭川の祖母にばかり可愛がってもらってたわ。すぐ電話を掛けて、おばあちゃんって泣きついて。いつ頃からだったかしらね。祖母が亡くなって一年くらい経ってからかな。ようやく私の言うことも聞くようになって」

 彼女は半分くらいに減った俺の湯呑みに、お茶を注ぎ足しながら続ける。

「でもそれって、ただ我慢することを覚えただけなのかも知れなかったのよね。もう少し、好きにさせてあげればよかったなって、今になって思うの。だからね、あなたにお願いするわ。海月のこと、宜しく頼みます」

 湯気を立てる湯呑みを持ったままの俺を優しく見つめて、彼女は丁寧に頭を下げる。白髪混じりの髪が落ちて、炬燵の天板の上に広がった。
 てっきり怒鳴られるばかりだと思ってここまでやってきた俺は、こんな風に言われるなんてどうしていいか分からず、炬燵から出ると、正座をして姿勢を正してから、土下座した。

「分かりました」
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