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第九章 「消えた暖炉」
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斜めに降ってくる雨の中で、俺はスマートフォンを何度も確認する。海月さんからの連絡は無かった。
いつもならすぐに戻ってくるから、流石に何かおかしい。
もう七時を回っているし、解体現場の仕事を今夜は断ったのに、駅前で俺はまごついていた。
思い切って電話を掛けてみる。
けれど、いくら待っても出てくれない。
流石に怒ってしまったのだろうか。
たぶん、俺がいつまでもこうしてあの人に付き合ってしまうからいけないんだと思う。でもそれでも、もう少しだけで良い。一緒の時間が過ごしたい。
LINEの画面には『会いたい』という彼女の素直な気持ちが滲んだ四文字があって、それをどんな思いで打ち込んだのかを考えると、ここで人混みに紛れて時間を持て余している場合じゃないのが分かった。
家族が、いる。
そういう女性と恋愛関係になってしまったことを、世間では不倫と呼ぶそうだ。
つまり、俺は不倫をしていた。
でも誰かに対して後ろめたい思いは全然なくて、今こうして彼女の家まで走っているのだって、ただ純粋に会いたいという気持ちしかなかった。
片側二車線の通りに掛かった横断歩道が、赤信号に変わる。
無理矢理渡ろうとしたけれど、曲がってきた車に気づいて立ち止まる。
電話を再び掛けてみたけれど、やっぱり出ない。
どうしてだろう。
こんなに不安になるのなら、離れなければ良かった。
抱き締めたまま、どこにも行かせない。
そんな風に束縛してしまえば良かった。
でもそんな気持ちが彼女を追い詰めてしまっているのだとしたら、もしそう言われてしまったら、今度こそ諦めた方が良いのだろう。
海月さんを苦しめたい訳じゃないから。
ただ、好きなだけなんだ。
信号が変わると、一番に駆け出す。
雨足は弱まったものの、細かい粒が目や口に入った。
横断歩道を渡り切ると、ひたすら歩道を走る。
どこの路地から曲がれば良かったんだ。
道が切れる度に覗き込んでは、違う、と前に走った。
外灯が照らす路地で、やっと彼女のマンション前へとたどり着く。
部屋番号を押そうと思ってパネルの前に立つと、ちょうどピザの店員が電子錠のドアを開けて出てくる。それと入れ替わりに中に入ると、エレベータで四階を目指した。
404号室の前まで進むと、一旦スマートフォンでもう一度だけ電話を掛けてみる。
扉の向こう側で音が鳴っているのが分かった。ただそれはいつまで経っても鳴り止まず、自分が電話を切ると続いて消えた。
「浅野さん?」
インターフォンを押す。
出ない。
二度、三度と押して、それからドアを叩く。
「海月さん?」
何か様子が変だった。
胸騒ぎというのだろうか。嫌な予感だ。
ドアノブを回すと、鍵が掛かっていなくて、簡単に開いてしまう。
開けたところで、男物のブーツが転がっているのが見えて、それは海月さんがいたなら絶対にそのままにはしておかないと思えて、喉が鳴った。
ドアを静かに閉め、スニーカーをゆっくりと脱ぐと、足音を立てないように注意して上がる。
通路を進むと、すぐにリビングに出た。
その光景を見て、俺は言葉を失う。
金森烈が、転がっていた。
頭部から血を流して、白目を剥いている。
それも、全裸だ。
カーペットの上には何かが零れているのが分かったが、考えたくなかった。
「海月さん!?」
俺は彼女のことを呼びながら、他の場所を見て回る。
どれが誰の部屋か分からないが、とにかく片っ端からドアを開けては中を覗いた。けれどどの部屋も空っぽで、誰もいない。
洗面所に入ると、そこには脱ぎ散らかした女性ものの服があった。
「海月さん?」
恐る恐る、磨りガラスの戸を開ける。
浴室には、誰もいなかった。
シャワーノズルからは、ぽたりぽたりと雫が落ちていて、微かに石鹸の匂いがした。
再びリビングに戻って、彼女がどこに行ったのか考える。
とにかく電話を。
そう思って掛けると、足元で音が鳴った。
画面の割れたスマートフォンが、そこに放置されていた。これが、海月さんのものなのだ。
「何なんだよ!」
思わず手にしたスマートフォンを床に投げつけてしまう。
「どうすりゃいい。なあ」
誰も答えてくれない。
足元に散らばった花瓶らしきものの破片が、嫌な推測しか許してくれない。
「何でなんだよ!」
頭が沸騰しそうだった。
とにかく。と自分に言い聞かせる。
部屋をもう一度見る。
固定電話があった。
受話器を取る。警察か、いや救急車か。
でも何て言えばいい?
知らない男が倒れていて、家主はいないみたいですって?
すぐに電話が繋がり、救急の応対の声が聞こえた。
「えっと……その、ピザの配達に来たんですけど、中で人が倒れてて。ええ」
咄嗟の嘘だった。
「いえ、分かりません。家の人も誰もいないみたいで……えっと、浅野さんのお宅です。住所は――」
俺は適当に話を合わせてから、電話を切る。
ぴくりとも動かない金森が生きているのか死んでいるのかを確認することすら、できなかった。
「……すみません。でも俺」
小さく頭を下げると、玄関に戻る。
スニーカーに足を通して、少しだけドアを開けた。外を伺い、誰もいないことを確認すると、さっさと出て、階段で降りる。
海月さんを、探さなきゃ。
俺の大切な女性を、また失うことは出来ない。
この心臓が破れてもいい。
そんな思いで、夜の路地に走り出した。
いつもならすぐに戻ってくるから、流石に何かおかしい。
もう七時を回っているし、解体現場の仕事を今夜は断ったのに、駅前で俺はまごついていた。
思い切って電話を掛けてみる。
けれど、いくら待っても出てくれない。
流石に怒ってしまったのだろうか。
たぶん、俺がいつまでもこうしてあの人に付き合ってしまうからいけないんだと思う。でもそれでも、もう少しだけで良い。一緒の時間が過ごしたい。
LINEの画面には『会いたい』という彼女の素直な気持ちが滲んだ四文字があって、それをどんな思いで打ち込んだのかを考えると、ここで人混みに紛れて時間を持て余している場合じゃないのが分かった。
家族が、いる。
そういう女性と恋愛関係になってしまったことを、世間では不倫と呼ぶそうだ。
つまり、俺は不倫をしていた。
でも誰かに対して後ろめたい思いは全然なくて、今こうして彼女の家まで走っているのだって、ただ純粋に会いたいという気持ちしかなかった。
片側二車線の通りに掛かった横断歩道が、赤信号に変わる。
無理矢理渡ろうとしたけれど、曲がってきた車に気づいて立ち止まる。
電話を再び掛けてみたけれど、やっぱり出ない。
どうしてだろう。
こんなに不安になるのなら、離れなければ良かった。
抱き締めたまま、どこにも行かせない。
そんな風に束縛してしまえば良かった。
でもそんな気持ちが彼女を追い詰めてしまっているのだとしたら、もしそう言われてしまったら、今度こそ諦めた方が良いのだろう。
海月さんを苦しめたい訳じゃないから。
ただ、好きなだけなんだ。
信号が変わると、一番に駆け出す。
雨足は弱まったものの、細かい粒が目や口に入った。
横断歩道を渡り切ると、ひたすら歩道を走る。
どこの路地から曲がれば良かったんだ。
道が切れる度に覗き込んでは、違う、と前に走った。
外灯が照らす路地で、やっと彼女のマンション前へとたどり着く。
部屋番号を押そうと思ってパネルの前に立つと、ちょうどピザの店員が電子錠のドアを開けて出てくる。それと入れ替わりに中に入ると、エレベータで四階を目指した。
404号室の前まで進むと、一旦スマートフォンでもう一度だけ電話を掛けてみる。
扉の向こう側で音が鳴っているのが分かった。ただそれはいつまで経っても鳴り止まず、自分が電話を切ると続いて消えた。
「浅野さん?」
インターフォンを押す。
出ない。
二度、三度と押して、それからドアを叩く。
「海月さん?」
何か様子が変だった。
胸騒ぎというのだろうか。嫌な予感だ。
ドアノブを回すと、鍵が掛かっていなくて、簡単に開いてしまう。
開けたところで、男物のブーツが転がっているのが見えて、それは海月さんがいたなら絶対にそのままにはしておかないと思えて、喉が鳴った。
ドアを静かに閉め、スニーカーをゆっくりと脱ぐと、足音を立てないように注意して上がる。
通路を進むと、すぐにリビングに出た。
その光景を見て、俺は言葉を失う。
金森烈が、転がっていた。
頭部から血を流して、白目を剥いている。
それも、全裸だ。
カーペットの上には何かが零れているのが分かったが、考えたくなかった。
「海月さん!?」
俺は彼女のことを呼びながら、他の場所を見て回る。
どれが誰の部屋か分からないが、とにかく片っ端からドアを開けては中を覗いた。けれどどの部屋も空っぽで、誰もいない。
洗面所に入ると、そこには脱ぎ散らかした女性ものの服があった。
「海月さん?」
恐る恐る、磨りガラスの戸を開ける。
浴室には、誰もいなかった。
シャワーノズルからは、ぽたりぽたりと雫が落ちていて、微かに石鹸の匂いがした。
再びリビングに戻って、彼女がどこに行ったのか考える。
とにかく電話を。
そう思って掛けると、足元で音が鳴った。
画面の割れたスマートフォンが、そこに放置されていた。これが、海月さんのものなのだ。
「何なんだよ!」
思わず手にしたスマートフォンを床に投げつけてしまう。
「どうすりゃいい。なあ」
誰も答えてくれない。
足元に散らばった花瓶らしきものの破片が、嫌な推測しか許してくれない。
「何でなんだよ!」
頭が沸騰しそうだった。
とにかく。と自分に言い聞かせる。
部屋をもう一度見る。
固定電話があった。
受話器を取る。警察か、いや救急車か。
でも何て言えばいい?
知らない男が倒れていて、家主はいないみたいですって?
すぐに電話が繋がり、救急の応対の声が聞こえた。
「えっと……その、ピザの配達に来たんですけど、中で人が倒れてて。ええ」
咄嗟の嘘だった。
「いえ、分かりません。家の人も誰もいないみたいで……えっと、浅野さんのお宅です。住所は――」
俺は適当に話を合わせてから、電話を切る。
ぴくりとも動かない金森が生きているのか死んでいるのかを確認することすら、できなかった。
「……すみません。でも俺」
小さく頭を下げると、玄関に戻る。
スニーカーに足を通して、少しだけドアを開けた。外を伺い、誰もいないことを確認すると、さっさと出て、階段で降りる。
海月さんを、探さなきゃ。
俺の大切な女性を、また失うことは出来ない。
この心臓が破れてもいい。
そんな思いで、夜の路地に走り出した。
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