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第九章 「消えた暖炉」

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 雨の音で、目が覚めた。
 いつの間にかリビングのソファで眠ってしまっていたみたいで、私は慌ててベランダに出て洗濯物を取り込む。天気予報で今夜は酷い雨になると言っていたことを思い出し、濡れてしまった夫のシャツをもう一度洗い直そうかと洗面所に向かう。
 インターフォンが鳴らされた。
 壁の時計を見ればまだ五時に届かない。灯里だろうか。けれど娘ならわざわざ鳴らしたりしないだろう。
 何か荷物でも届いたのかとリビングでボタンを押して応答するが、誰も出ない。
 悪戯だろうか。

「……海月さん」

 そう思った時に聴こえてきたのは、苦しそうな金森烈の声だった。

「どうしたんですか?」

 内心で相当混乱していた。

「とにかく、今開けます」

 私は慌てて玄関に向かい、ドアを開ける。
 そこにはずぶ濡れのフードを被ったマスクの男が、肩で荒々しく息をしながら立っていた。

「金森さん……ですよね?」

 彼は小さく頷いてから何も言わずに中に入ると、ドアに鍵を掛けた。
 それからブーツを荒っぽく脱いで、私の右肩に手を置く。

「あの……」
「誰か他にいるか」
「いえ……」

 そのまま押されるようにしてリビングまで歩いていくと、彼は部屋の中を見回してから何か焦っているかのようにベランダの窓を閉めて、カーテンを閉じる。

「金森さん。追われてるんですよね?」

 刑事、あるいは梁たちに。
 よく見れば最後に会った時からはだいぶ目元が窶れている。それに彼が着ないようなだぼだぼの黒のパーカーに迷彩柄のパンツ姿だった。

「色々と迷惑を掛けて、すみません」

 マスクを取り、荒れた口元を見せる。

「もう、手詰まりなんです。私は、終わりなんだ」

 頭を抱えてソファに座ると、無精髭の伸びた右頬の痣がよく分かった。

「何とか、ならないんですか? お金のことは分かりませんけど、でも追われてるのはそれだけじゃないんですよね?」
「騙されたんだよ、奴らに。元から借金まみれにして、仲間に引き込むつもりだったんですよ」
「じゃあ、どうして戻ってきたりしたんですか。ずっと逃げていれば良かったのに」

 そう言った私をにらみつけて、金森は思い切りテーブルを叩いた。

「自分一人なら、何とでもなった。けど、奴らはあなたにまで手を掛けた。どうしてあいつらと関わり合ったりしたんですか!」
「私……が?」

 金森と目が合う。
 その目が私の胸から下半身に向かうのが分かった。

「……そんな。あれは」

 私は首を振る。

「全部、私の責任なんです。海月さんと一緒なら日の当たる方を歩けるんじゃないかと思ってしまった愚かな私の、夢なんか見てしまった私の……責任なんですよ!」

 怒りに任せてテーブルを持ち上げ、そのまま立ち上がって転がしてしまう。私は悲しんでいるのか怒っているのかよく分からない表情を見せた金森に怯えて、後ずさった。

「一度でも関わってしまったら、終わりなんですよ」

 その金森が、私の方へと歩いてくる。

「もう、戻れない」

 すぐに背中が壁になり、私はそのまま迫ってくる彼の、伸ばされた腕で両方の肩を押さえつけられた。

「金森、さん……」

 嫌嫌、と首を振る。
 けれど彼はそれを否定するように更に首を振ると、

「もう、終わるんです。だから」

 そこまで言って私に唇を押し付けた。あまりに突然で、あまりに強烈だったので、私は息苦しくなったまま何とか彼を押しのけようとするけれど、そのまま抱き締められてしまう。
 駄目。
 落ち着いて。
 そんな言葉を吐き出そうとした。
 けれどそれごと呑み込んで、彼は私の唇を吸う。
 心臓が早くなって、足に力が入らなくなる。
 そのまま壁に背を預けて、私はしゃがみ込んでしまう。
 私を見下ろす彼は、ブラウスを掴み、そのままボタンを引きちぎった。両腕で上着を二つにすると、次の下着も襟首に無理矢理突っ込んで、裂いてしまう。

「……どうして」
「生きていた証が、欲しいんだ」

 彼は涙を滲ませて、私のブラジャーを剥くと、そこに顔を埋めた。

「海月さん。あなたが、私の魂の証人になってくれ」

 分からない。
 首を振る。
 突き放そうと彼の頭を両手で掴むけれど、どんなにしても離れてくれない。

「好きなんだ。あなたじゃなきゃ駄目なんだ」

 ブラの紐が乳房を持ち上げ、痛いくらいに彼の指が食い込む。唾液に濡れた彼の口元が、首筋に這った。

「嫌……」

 そう言った口を、彼が押さえる。

「嫌」

 くぐもってれる私の声が、何度もそう訴える。
 でも構わずに彼は私を床に押し倒した。

 ――嫌!

 その否定を、彼は無視する。
 私は腿を閉じるけれど、彼の右手が強引にそれを割った。ショーツに届いて、無理矢理に引っ張られる。
 抵抗している私の喉に、彼の左手が掛かった。押さえつけられて、息ができなくなる。
 苦しい。
 そう感じた瞬間に、足からショーツが抜かれた。
 思い切り咳き込んだ私の両足が持たれ、そのままひっくり返される。
 何が起こっているのか分からなかった。
 うつ伏せにされた私は、自分の股間に何か突っ込まれるのを感じた。細いものはおそらく指だろう。それが何度か出入りすると、ジッパーを下げる音がして、私は逃げようと足をばたつかせる。

「何でこんな……」

 金森は答えない。
 怒張した彼のモノが挿入されると、私は悲鳴を上げた。その口に、ショーツが丸めて突っ込まれる。息が苦しくなる。声が出ない。漏れるのは鼻息とかすかな抵抗の声だけ。
 なんで?
 どうして?
 こんなことに、なったんだろう。
 頭の中に、ただそれだけが浮かぶ。
 不意にテレビが点けられた。音量が上がると、リポーターがクリスマスイブで賑わう街中でインタビューをしているのが聞こえた。

『今夜はお二人で過ごされるんですかね?』
『付き合って初めてのイブなんですよ』
『彼女の為に、色々と準備してます』
『彼氏さん、がんばってくれてるみたいですよ。これは色々と期待しちゃいますよね?』
『そんな期待とかないですけど、でも……嬉しいですよ』

 幸せそうな声だ。
 後ろで流れているのはこの時期にはお馴染なじみの軽快な外国語のクリスマスソングだ。ハスキィな女性ボーカルが「クリスマスに欲しいのはあなただけ」と歌い上げる。
 けれど、私はそんな歌のリズムを無視した彼の乱暴な行為に、ただ涙を流している。
 いつ終わるとも分からない、何の感情もない行為。
 肉と肉がぶつかり合う音が、おちゃらけたコメンテーターの声に混ざって、気持ち悪かった。

 どれくらいの間、繋がっていただろう。
 気がつくと私は全裸で、天井を見上げていた。下腹部には沢山の白い液体がぶちまけられていて、それが汗と一緒になって、流れて落ちた。
 左手の方を見やると、金森も同じように天井を見上げて、呆けたように荒い息をしている。彼も裸だ。
 そのことに気づいた時、私は声も出ずに泣いた。
 溢れる涙をぬぐおうと右手を上げ、それをちらりと見た視界に、棚の上の花瓶が入った。クリスマスローズが、少ししなだれている。
 私は涙を拭うことをせずに上半身を起こすと、腕に力を入れて立ち上がった。

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