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第八章 「壊れた非常灯」

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 久々に訪れた喫茶店アンブレラの軒先には、相変わらず開いた傘が吊られていた。それを物珍しそうに見るのは私くらいで、通り慣れた人は特に気にせず素通りしていく。
 定休日で、おすすめのメニューを書いた小さな黒板は店舗の中に引っ込んでいたが、私は構わずに入り口のドアを引いた。

「あの、今日はお店休みで……ああ、どうも。こんにちは」
「はい、こんにちは」

 カウンターの掃除をしていた雨守は私に気づくと、さっと笑顔になって会釈してくれる。

「もうお体の方は大丈夫なんですか」
「こうして出てこられるくらいには」
「そうですか。それは良かった」

 安心したと何度かうなずいて彼は手を止めると、

「飲んでいかれますか?」

 そう言ってカウンターに入っていく。

「じゃあ、お願いします」

 私は席に座り、二週間ぶりにマスターの淹れるブレンドを楽しむことにした。

「それで、今日お伺いしたのは二つ、用事がありまして」

 珈琲の香ばしさを吸い込むと、私は最近の棘立とげだった気持ちがいくらか落ち着いた。

「僕で出来ることならどうぞ」
「一つ目は金森さんのことです」

 右隣に自分のコーヒーを手にして座った雨守は、低いうなりを漏らしてから一度それを呑み込んだ。

「実は僕も気になっていてね。それなりに手を尽くして調べてみてはいるんだけど、何も分からないままなんだ」
「その、どこか行き先に心当たりがあったりしないんですか?」

 私も最後に彼とした会話の中に何かヒントがないのかと思い出してみたけれど、全然分からなかった。

「出会った頃から金森君はあまり他人を頼らない感じでね。どちらかと言えば自分は頼られる側なんですって言ってたから、そういう弱みを見せられなかったのかも知れないけど、今にして思えば、迷惑が掛かることを嫌っていたのかなって」

 ああ、そうなのか。
 と雨守の話の中で、金森との共通点を見つけてしまい、私は心の中で嘆息した。

「だから店を閉めてしまう前、金策で色々と困ってた時に何とかなりませんかって言われたんだけど、その時に手を差し伸べておくべきだったなって、少し後悔しているんですよ」
「雨守さんにはそういう相談をなさってたんですか?」
「もともとあの店をやりたいって話の相談を、僕が受けたんだ。それまではどちらかと言えば日陰の仕事ばかり関わっていたからね。だから良い決断だなって背を押したんだけど、今となってはそれが良かったのかなって。頑張ってるとは思うんだけど、商売ってそういうものでもないでしょう」

 私には仕事のことはよく分からなかった。大変さや苦労なんて想像も及ばない。
 何よりそれに人生を賭けていたかのような男性の心の内を、たぶん私は一生理解してあげられないだろう。その相手がたとえ祐二君であったとしても。

「そういえばこの前ね、金森君のことを訪ねてきた人がいたよ」

 すぐに浮かんだのはあの東南アジア風の男性だった。

「いや、そうじゃない。普通に日本人っぽい顔立ちだったよ。きっちりしたスーツ姿で、どこかの会社の方かなって思った。ひょっとすると取引先の人だったのかね」
「それで何て風に言ってました?」
「写真を見せて、金森君を知っているか。それから店に来たことがあるのか。最近来たのはいつなのか。そんなことを尋ねていったよ。だからてっきり探偵なのかなって思ったんだけど、それにしてはちょっと身に付けているものが高そうだったのよね」

 もし探偵だったとしたら、誰かがそういった手段を使ってでも金森を探し出したいということだろう。
 私はドロシーズの金庫の件を言おうか迷ったけれど、それを口にしたことで雨守に迷惑が掛かると困ると思い、言わないでおいた。

「あと、もう一つの方の用事なんですけど」
「ああ、そうだったね。それで、何ですか?」
「またこちらで働かせていただけたらなって、思いまして」

 アパートの部屋でじっとしていても気持ちが沈むばかりな気がして、私は体を動かすことを選択した。

「それは是非頼みたいところだけど、本当に大丈夫なの?」

 私はしっかりと頷く。「はい」

「まあ、いい加減なことを言う人じゃないから信頼はしているけど、一応短時間から少しずつ、復帰するのはどうかな?」
「それ、こちらとしても助かります」

 そう言ってもらえてほっとしたのが正直なところだった。最初からシフト時間いっぱい働けるとは自分でも思えなかった。

「うん。それじゃあ、そういうことにしよう。一応良かったら今時間を決めておく?」
「はい、お願いします」

 私はバッグからスケジュール帳を取り出した。

 翌日からお昼前後の短時間だけ、パートに復帰した。
 アパートには夕方、祐二君が解体現場の仕事に入っていない日だけ早く帰れれば良かったから、体力さえ戻ればずっと入っていても構わなかった。
 仕事のリズムには三日ほどで慣れ、保広や友理恵のことは気になったものの、それさえ忘れていれば笑顔で接客できる程度には回復した、と私自身は感じていた。

「今日は寒いですね」
「夜には関東でも雪か、なんて言ってましたけど、降るんですかね」

 月曜の昼下がり、私はお客のいなくなった店内のテーブルのセッティングを見て回りつつ、そろそろ上がろうかなと考えていた。
 ドアベルが鳴り、スーツ姿の男性が二人、来店する。

「いらっしゃいませ。お二人様ですか?」

 私は小走りに入り口まで向かうが、雨守は「この前の」と口にした。

「どうも。先日は失礼しました」

 背の高い方の一人は丁寧に腰を降り、雨守に頭を下げる。私はそれにどうしたものかとまごついていると、二人ともカウンター席に座ってしまった。

「あの」
「いいよ、浅野さんは。僕が相手をしておくから、もう上がって下さい」
「はい……」

 そう言うので、男たちが気になったが、私はカウンターに入り、その奥から控室に引っ込んだ。

「……実はですね」

 ドア越しに男のくぐもった声が聞こえてきたが、どうやら金森が詐欺事件の容疑者として指名手配されているのだと話しているらしい。
 私はすっかり着替え終わっても、そのドアを開けられないまま、じっと男たちと雨守のする会話に耳をそばだてていた。

「被害者? 金森は以前にも同じ詐欺グループに加担していた疑いがありましてね。被害者というなら、それは金を巻き上げられた人たちのことでは?」

 男の声が少し荒立つ。
 その言葉に、私の脳裏にはあの東南アジア風の男の笑みがよみがえっていた。
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