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第八章 「壊れた非常灯」

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 目が覚めると自分の知らない枕を抱き締めていて、私は慌てて体を起こした。
 毛布が落ちると自分の乳房があらわになり、手を伸ばせば届きそうなところにベージュのブラがちんまりと畳まれて置かれていて、それからようやくここが祐二君のアパートの部屋だと思い出す。
 畳まれていたのはブラだけじゃなく、ブラウスもスカートもだ。私のそれとは随分ずいぶんとやり方が違ったけれど、適当にまとめたまま置いておくといったことをしない、そういう安心感がそこにはあった。
 私は下着を身に付けてから、テーブルの上にあった自分のスマートフォンの電源を入れて時刻を確かめる。もう四時近い。幾つか電話やLINEの通知があったが、その中に祐二君からのものがないことを確認すると、私は一旦それをテーブルに戻した。
 服を着る。
 テーブルの上には線の細い丁寧な字で、

『大丈夫ですか? 先に仕事に行きます。合鍵は持っているので、鍵はポストにでも入れておいて下さい』

 彼からのメッセージが書かれたメモが置かれていた。その最後に、

『寝顔、かわいかったです。祐二』

 と付け加えてあり、彼にからかわれたことが何だか恥ずかしいけれど、学生時代の気持ちを思い出して、何度もその文章を読み返してしまった。
 私は冷蔵庫を開けてから卵以外に何も残っていないことを確認し、鍵を持って玄関を出る。
 外に出たところでとりあえず雨守あまもりに電話を掛け、しばらくパートを休ませてもらうことだけを伝えた。

「いや、無事なら良いんですよ。ほら、浅野さんてそういうところはきっちりされてるでしょ。だから何か事件にでも巻き込まれたんじゃないかって、ちょっと不安だったんで。分かりました。復帰される時はまた連絡して下さい」
「本当にすみません。助かります」
「いいんですよ。それに助けてもらっていたのは、こっちの方なんですから」

 互いに体を大事にと言い合って電話を切ると、私は足を駅前へと向けた。確かそっちにスーパーがあったはずだ。

 路地脇に沢山の人が並んでいた。どうやらタイムセールが始まっていたらしく、卵が一人二パックまで百円で買えるとハンドマイクに向かって男性がしゃべっていた。
 財布の中身を数えてから、私は二人分の夕食の内容を考える。
 和食なのか洋食なのか、それとも中華。主婦として過ごしてきた時間が沢山の選択肢を見せてくれたけれど、彼の好物を聞いていなかったことを思い出して、結局私はかごを手に迷うしかなくなる。安売りのもの、今日のおすすめの品、それとも若い男性だから肉が食べたいだろうか。そんな思考をしていると、赤ん坊を前に抱っこした女性とすれ違う。
 小さな手がにぎにぎとしていて、覗き込んだ大人に向かって思い切り伸ばすのだが、その様が灯里ともりの生まれたばかりの頃を思い起こさせた。

「どうも」

 女性と目線が合って、軽く会釈する。
 彼女は離乳食のコーナーに入って行ってしまったが、時代が変わったものだと感じる。
 刺し身でも良いかしら、とパックを手に取った時だった。シクシクとした痛みが、下腹部に広がる。
 それが背中から胸へと伸びてきて、私の目から涙が落ちた。
 何で?
 と、心の声がれそうになる。
 それは涙に対してではなかった。
 自分のお腹に手を当てて、それから肩で大きく息をする。
 祐二君の笑顔を思い浮かべた。
 魚を焼いて、卵を焼いて、野菜を沢山食べさせて、具沢山の味噌汁みそしるを作ろう。
 私は食材を買い集めて、レジに急いだ。
 そうしないと後から後から、涙が滲んできてしまいそうだったからだ。

 アパートに戻ってきてから、一度マンションまで着替えを取りに帰ろうかと考えた。
 けれど空は既に暗く、私の足も気持ちも、遠くまでは出かけられない。
 仕方なく近所のコンビニで下着をそろえて、ついでに自分用の茶碗や歯ブラシも購入した。
 戻ってきたら、彼は何て言うだろう。
 そんな心配をしながら料理をする。コンロはIHのものが一つだけで、調理器具も手鍋が一つとフライパンしかない。一つ作っては洗って、それを繰り返す。盛り付ける為のお皿もすぐ足りなくなる。結局二人分を無理矢理二つの皿にワンプレートとして盛り付けるしかなかった。
 生活する、ということの大変さを少しだけ思い出す。
 ゴミの収集日を確認してから生ゴミを整理していると、

「あれ? 海月みつきさんがいる」

 彼が仕事から帰ってきた。

「おかえりなさい。祐二君」
「あ、はい。ただいま」

 少しだけ驚いた顔を見せたが、すぐに笑みを浮かべてそう返してくれる。
 たぶん沢山言いたいことはあるのだろうが、彼は多くを聞かず、ただ、

「体は大丈夫?」

 それだけを聞いた。

「大丈夫、とまでは言えないけど、でも、うん。なんとか」

 意地は張れなかった。

「ご飯、何が好きなのか分からなくて」

 私はそう言いながら靴を脱いだ彼から上着を預かると、ハンガーに掛けた。テーブルの上に用意した焼き魚ワンプレートを見て、彼は苦笑する。

「すんません。皿、なくて」
「いいのよ。それより好物教えておいて」
「海月さん」

 体の芯が熱くなる。

「……とか言えたら良いんでしょうけど、その、カレーとオムライスです」

 変な勘違いをした所為で、私は思わず彼の背を叩いてしまった。

「あ、そういうのがやっぱ好きなんですか?」
「別に好きとかじゃない。ただ、祐二君がそんなこと言うなんて思わなかったから」

 ――嬉しい。

「頭ではちょっとくらい考えるんですよ。けど、いざ口に出すのって恥ずかしくて」
「言ったじゃないの」
「今は……がんばりました」
「ありがとう」

 その気遣いが、嬉しい。
 手を伸ばせばそこに彼がいることが、何より嬉しい。
 ただそれだけの幸せを、私は今まで知らなかったのだろうか。
 胸が熱くなる。
 少しだけその背に体を寄せて、腕を回した。

「ねえ、祐二君」
「はい?」
「一月だけでいいから、お願い。私を、ここで温めて」

 鼓動が止まりそうだった。
 呼吸が辛い。
 それでも、私は冗談や誤魔化しの笑い声なんて出さずに、待った。
 祐二君が考えてくれている、そのことの尊さを感じたかった。

「……はい」

 その返事だけで、何も要らない。
 ありがとうと言う言葉では足りないくらいの気持ちを、彼を抱き締める強さに込める。そのたくましい背中は拒否することなく、私に温もりを返してくれた。

「でも、一月だけですからね」
「うん」

 こうして私たちの時限付の同棲が、始まってしまった。

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