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第七章 「点滅するブレーキランプ」
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祝日の振替の連休で、アンブレラは昼下がりにも関わらず満席になっていた。
私はまだ産休から復帰しない長田さんに代わり、慣れた手つきで空いたテーブルに二人組の女性を案内する。
「はい、ケーキセットをお二つ、どちらもお飲み物はブレンドコーヒーですね。かしこまりました。豆から挽いておりますので少々お時間いただきますが、大丈夫でしょうか?」
何も考えなくても口が滑るように話してくれる。
注文を店長の雨守に通して、出来上がっているコーヒーを伝票と一緒に待っている客のところに運んでいく。
笑顔を絶やさない。
お客と入り口と雨守の仕事の進み具合と、レジを見ながら、今やるべき目の前の仕事だけに考えを向ける。
その私の目線が、入ってきた男性客の一人に気づいて、鼓動が止まった。
「……どうも」
鳥井祐二だった。
パーカーを着て、少し顎髭が伸びている。
「あの、仕事はけるまで、待ってます」
「でも」
「待ってますから」
それだけ言って、彼は再び店を出て行ってしまった。
私はお客に呼ばれてとりあえず返事をしたけれど、その意識はずっと鳥井祐二の存在に引っ張られたままだった。
雨守から「上がって下さい」と言われたのは結局五時を過ぎてからだった。
私は慌てて着替えを済ませると、店の外に出て彼の姿を探した。小雨が降っていて、傘を差して歩く人や駅まで頭を覆って駆けて行く人が前を行き交ったが、その中には鳥井祐二はいなかった。
思わずスマートフォンを取り出して彼に電話を掛けようと思ったが、電話番号を画面に呼び出してその通話を押すのが躊躇われた。ここで電話してしまったら、また元の関係に戻ってしまうんじゃないか。そんなもう一人の自分の声がする。
「もう終わったんですか?」
荒い息と一緒に背後から、彼の声がした。
「あの、ちょっと飲み物を買ってたんです」
その手にはコンビニの袋が提げられていて、
「良かったら食べます?」
彼の笑顔と一緒に中華まんが私に向けられた。
「それを受け取ったら、帰ってくれる?」
「どっちでもいいですよ。用件を伝えたらすぐに帰るんで」
軽く答えた彼から恐る恐る受け取ると、私は火傷しそうな熱さに驚いて思わず取り落としそうになる。
「熱いですよね、これ」
その様子に彼は笑う。祐二君の温かい笑顔と声が、また自分の隣にやってきてしまう。
私は俯いて、駅の方へと歩き出した。
「約束違反、ですかね、これって」
その右側を歩きながら、彼は中華まんを食べ始める。
「私に聞かないでよ……」
私の方は自分の手の中で、まだ持て余していた。
「実は、ファンタジーランドのワンデイチケット、貰ったんです」
「別の誰かと行けばいいじゃない」
「俺は浅野海月さんの予定を聞いているんですよ」
もう止めてもらいたかった。
「金森さんと張り合うって訳じゃないんですけど、俺とだって一回くらい、付き合ってくれたっていいじゃないですか」
私は何も答えずに、歩を早める。
その私の歩みに、彼はついてこない。足を止めて、呼びかけた。
「また、逃げるんですか」
「私は何もそんな」
「また俺から逃げるんですか!」
横断歩道が前に迫る。信号は点滅して、赤へと変わってしまう。
私は慌てて渡ろうとしたけれど、その手を、彼に掴まれた。
「俺は浅野海月不信になんて、なりたくないんですよ!」
周りにいた他の人間は、きっと驚いていただろう。
五十も近いおばさんを、半分ほどの年齢の若者が抱き締めたのだ。
「お願い。やめて」
「一度だけです」
「やめて」
「デートするだけですから」
苦しかった。
すぐに、返事をしたかった。
でもここで口に出してしまったらもう戻れないのが分かっていた。
「なら、本当に一度だけ、ただデートするだけ……それだけ、だからね?」
それでも私は、彼に笑みを向けてしまう。
彼の腕が解かれてそこに笑顔があるのを確認すると、私は脱力して「もう」と口にした。
祐二君の仕事が終わるのを待ってからだったから、結局夢の国のゲートを潜ったのは昼を少し過ぎてしまっていた。
それでも灯里が小学校の時に来て以来で、懐かしい空気と愛嬌あるキャラクターの着ぐるみたちを目にすると、気分は少女時代を取り戻していた。
――今日一日だけだから。
そんな免罪符の言葉を心の中で時々呟いては、思い切り楽しむ。
彼は一緒に笑ってくれていたけれど、本当に楽しんでいたかどうかは疑問だった。でも、それでも構わない。ささやかな思い出になってくれれば、それで良い。
祐二君にできるだけ沢山の自分の笑顔を覚えておいてもらおうと、多少無理をしたかも知れない。
「あー、久しぶりにはしゃいじゃったわ」
帰りの電車に乗り込んで、二人で並んで立つ。右隣で祐二君は少し疲れの色を見せていたが、
「海月さんはまだまだ若いですよ。俺なんか半日だけなのに明日が心配です」
「なんか私ばかり楽しんじゃったかな?」
「いいんですよ。そういう時間を、最後にプレゼントしておきたかったから」
最後、という言葉を抵抗もなく彼は出す。
「ありがとう」
だから、だろうか。その感謝の言葉も素直に口にできた。
電車が揺れて、彼の肩が触れる。押し付けられるようになり、彼は私の左肩に腕を回した。
「揺れるんで」
「……うん」
その安堵する感覚に、もっと身を任せたくなる。
頭を彼の胸元に倒すと、
「いいですよ」
声が優しく降ってきた。
十三分ほどのかけがえのない時間が、永遠になればいい、と一瞬だけ思えた。
「……俺のアパートまで、来て下さい」
私は何て答えるべきだったんだろう。
私はまだ産休から復帰しない長田さんに代わり、慣れた手つきで空いたテーブルに二人組の女性を案内する。
「はい、ケーキセットをお二つ、どちらもお飲み物はブレンドコーヒーですね。かしこまりました。豆から挽いておりますので少々お時間いただきますが、大丈夫でしょうか?」
何も考えなくても口が滑るように話してくれる。
注文を店長の雨守に通して、出来上がっているコーヒーを伝票と一緒に待っている客のところに運んでいく。
笑顔を絶やさない。
お客と入り口と雨守の仕事の進み具合と、レジを見ながら、今やるべき目の前の仕事だけに考えを向ける。
その私の目線が、入ってきた男性客の一人に気づいて、鼓動が止まった。
「……どうも」
鳥井祐二だった。
パーカーを着て、少し顎髭が伸びている。
「あの、仕事はけるまで、待ってます」
「でも」
「待ってますから」
それだけ言って、彼は再び店を出て行ってしまった。
私はお客に呼ばれてとりあえず返事をしたけれど、その意識はずっと鳥井祐二の存在に引っ張られたままだった。
雨守から「上がって下さい」と言われたのは結局五時を過ぎてからだった。
私は慌てて着替えを済ませると、店の外に出て彼の姿を探した。小雨が降っていて、傘を差して歩く人や駅まで頭を覆って駆けて行く人が前を行き交ったが、その中には鳥井祐二はいなかった。
思わずスマートフォンを取り出して彼に電話を掛けようと思ったが、電話番号を画面に呼び出してその通話を押すのが躊躇われた。ここで電話してしまったら、また元の関係に戻ってしまうんじゃないか。そんなもう一人の自分の声がする。
「もう終わったんですか?」
荒い息と一緒に背後から、彼の声がした。
「あの、ちょっと飲み物を買ってたんです」
その手にはコンビニの袋が提げられていて、
「良かったら食べます?」
彼の笑顔と一緒に中華まんが私に向けられた。
「それを受け取ったら、帰ってくれる?」
「どっちでもいいですよ。用件を伝えたらすぐに帰るんで」
軽く答えた彼から恐る恐る受け取ると、私は火傷しそうな熱さに驚いて思わず取り落としそうになる。
「熱いですよね、これ」
その様子に彼は笑う。祐二君の温かい笑顔と声が、また自分の隣にやってきてしまう。
私は俯いて、駅の方へと歩き出した。
「約束違反、ですかね、これって」
その右側を歩きながら、彼は中華まんを食べ始める。
「私に聞かないでよ……」
私の方は自分の手の中で、まだ持て余していた。
「実は、ファンタジーランドのワンデイチケット、貰ったんです」
「別の誰かと行けばいいじゃない」
「俺は浅野海月さんの予定を聞いているんですよ」
もう止めてもらいたかった。
「金森さんと張り合うって訳じゃないんですけど、俺とだって一回くらい、付き合ってくれたっていいじゃないですか」
私は何も答えずに、歩を早める。
その私の歩みに、彼はついてこない。足を止めて、呼びかけた。
「また、逃げるんですか」
「私は何もそんな」
「また俺から逃げるんですか!」
横断歩道が前に迫る。信号は点滅して、赤へと変わってしまう。
私は慌てて渡ろうとしたけれど、その手を、彼に掴まれた。
「俺は浅野海月不信になんて、なりたくないんですよ!」
周りにいた他の人間は、きっと驚いていただろう。
五十も近いおばさんを、半分ほどの年齢の若者が抱き締めたのだ。
「お願い。やめて」
「一度だけです」
「やめて」
「デートするだけですから」
苦しかった。
すぐに、返事をしたかった。
でもここで口に出してしまったらもう戻れないのが分かっていた。
「なら、本当に一度だけ、ただデートするだけ……それだけ、だからね?」
それでも私は、彼に笑みを向けてしまう。
彼の腕が解かれてそこに笑顔があるのを確認すると、私は脱力して「もう」と口にした。
祐二君の仕事が終わるのを待ってからだったから、結局夢の国のゲートを潜ったのは昼を少し過ぎてしまっていた。
それでも灯里が小学校の時に来て以来で、懐かしい空気と愛嬌あるキャラクターの着ぐるみたちを目にすると、気分は少女時代を取り戻していた。
――今日一日だけだから。
そんな免罪符の言葉を心の中で時々呟いては、思い切り楽しむ。
彼は一緒に笑ってくれていたけれど、本当に楽しんでいたかどうかは疑問だった。でも、それでも構わない。ささやかな思い出になってくれれば、それで良い。
祐二君にできるだけ沢山の自分の笑顔を覚えておいてもらおうと、多少無理をしたかも知れない。
「あー、久しぶりにはしゃいじゃったわ」
帰りの電車に乗り込んで、二人で並んで立つ。右隣で祐二君は少し疲れの色を見せていたが、
「海月さんはまだまだ若いですよ。俺なんか半日だけなのに明日が心配です」
「なんか私ばかり楽しんじゃったかな?」
「いいんですよ。そういう時間を、最後にプレゼントしておきたかったから」
最後、という言葉を抵抗もなく彼は出す。
「ありがとう」
だから、だろうか。その感謝の言葉も素直に口にできた。
電車が揺れて、彼の肩が触れる。押し付けられるようになり、彼は私の左肩に腕を回した。
「揺れるんで」
「……うん」
その安堵する感覚に、もっと身を任せたくなる。
頭を彼の胸元に倒すと、
「いいですよ」
声が優しく降ってきた。
十三分ほどのかけがえのない時間が、永遠になればいい、と一瞬だけ思えた。
「……俺のアパートまで、来て下さい」
私は何て答えるべきだったんだろう。
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