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第六章 「危険信号」
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それから一月経ってもドロシーズは開かなかった。
祐二君は金銭的な事情から他の仕事を探さざるを得ず、一週間ほどで何とかスーパーの配送の仕事が決まったと連絡があった。
灯里のことは私には何ともできなかった。
夫の保広はたまにLINEで連絡を取り合っているようだったが、最近はそれも返信がないと私に愚痴を零していた。
残暑は十月に入っても続いていて、私はすっかりアンブレラの一員となり、雨守からも「半日くらいならお店を任せられますね」と言われてしまった。
そんなある日、久しぶりに友理恵に呼び出されてランチを一緒に食べることになった。
「忙しかった?」
お店はアンティークな洋館を改造した自然を感じられる趣で、調度品や中庭にも拘りが見える落ち着いたところだった。天井がガラス張りの式場も併設され、結婚式を執り行うこともできるらしい。
目の前には創作イタリアンが並び、年齢層もいつも友理恵が選ぶ店舗よりはいくらか高めの印象だ。
「忙しいのはそっちでしょ。やっぱり飲食店は土日休み辛くなるわね」
「ごめんなさい」
「いいのよ。それより、前に料理教室やるって言ってたの。あれ決まった」
「へえ、そうなんだ。じゃあ、今日はそのお祝い?」
確かに胸元に大きなリボンがついた黒ベースのシックなワンピースを着ている。撮影でもしてきたのだろうか。
「お祝いは成功してからでいいわよ。そうじゃなくてね、ちょっとした筋から情報があって」
友理恵はキャビアを使ったパスタを器用にフォークにまとめると、髪を掻き上げてから口に運ぶ。私は彼女のようにはできないので、スプーンを使ってパスタとキャビアのソースは別々に口に入れた。ホワイトソースにキャビアの塩味というのが食欲を促す。
「海月さ、どうして私に黙ってたの?」
「え?」
「とぼけないでよ。浮気、してるんでしょ?」
祐二君のことか、それとも金森のことだろうか。どちらにしても背中に汗が一斉に吹き出した。
「ほら、キャンドル教室のあの若い子。なんて言ったっけ」
「鳥井君? 彼とはそんなんじゃないわよ」
私は笑いながら慌てて口の中のものをジンジャーエールで流し込む。
「じゃあどんな関係なの? 詳しく聞かせてみなさいよ」
誰から聞いたのだろう。
どんな風に聞いたのだろう。
アルコールを飲んでいなくても、思考回路がうまく働いていなかった。
「ほら、彼って」
「彼だって」
「もう、そういう揚げ足取りしないでよ。話さないわよ」
「ごめんごめん」
適当に誤魔化したいという思いが、笑い声と妙なテンションを作ってしまう。
「お母様を若くに亡くされてて、それで色々と相談に乗ったりしてるだけよ。ただそれだけの、ささやかな関係」
「もうシタの?」
「な、何言うのよ。だからそういうんじゃないって」
「だってさ海月、学生時代から好きな人の話をすると頬の筋肉がぴくぴくっと上がるじゃない」
そんな癖、初めて聞いた。
「少なくとも好きなんでしょ、海月は」
「私はそういうのは……」
「いいのよ別に。女同士なんだから、そういう本音、ぶちまけても」
友理恵からは逃げられないような気がした。
でも、一度口から出してしまったら、戻れない。
私は本音を呑み込んで、笑顔を作り直した。
「告白したけどおばさんは相手できないって振られちゃったのよ。だからそういうの、全然ないんだって」
「あれ? そうなの?」
「そうそう。残念だった?」
「まあね。折角あんたも仲間に入れられると思ったんだけど……お嬢海月には無理だったか」
どういう意味だろう。
ただ、私の知らない友理恵がいることは学生時代から分かっていたことで、そこに踏み込まない関係だったからこそ、ここまで一緒にいられたと思っている。だから、私は聞かないでおいた。
「ところで料理教室って、どこでやることになったの?」
「それなんだけど……」
その日は祐二君の話題はもうそれ以上はなく、友理恵の最近の事情と来月からスタジオを借りて月に二度のペースで始めるという料理教室の話題に終始した。
「これからも勉強の為に色々と他のお店を開拓しなくちゃいけないから、海月、覚悟しといてね」
そう言って笑う友理恵はいつもの彼女だと思ったが、結局最後まで誰から祐二君のことを聞いたのかについては問い質すことが出来なかった。
その祐二君とゆっくり会う時間が取れたのは、十月も終わろうという水曜日だった。
午後のファミリーレストランは家族連れというよりは旅行客で半分ほどが埋まっていて、中には東南アジア系と思われる集団も目に付いた。
「なんか、感じ変わった?」
互いの休みが合わずにすれ違いが続いていた所為か、久しぶりに目にする鳥井祐二という男性の隠されていた逞しさが、シャツから出た首筋の筋肉に見て取れた。
「やっぱり肉体労働が増えたからですかね」
彼は苦笑しながら対面に座ったが、体は引き締まっているのに一回りくらい大きい印象を受けた。
「それで、今日は何ですか。なんか話があるとかって」
「うん。そうね」
メニューを見ながら、私は一晩掛けて考えてきた台詞をどう切り出そうか考える。
「俺は、じゃあ、このクリームのショートパスタにエビのサラダをつけて、それからドリンクバーをセットでお願いします」
「私は……」
いつも友理恵と利用する店の半分くらいの金額に迷いながらも、ミラノ風ドリアとドリンクバーのセットを頼んだ。食べ切れなければ祐二君にあげればいい。そもそも今日は食べたい訳じゃなかった。
店員がメニューを回収して下がると、祐二君はドリンクを取りに席を立つ。
「海月さんはコーヒーでいいですか?」
「あ、うん。そうね。お願い」
「わかりました」
なんだか腰が重い。
でもこれは自分で決めたことだった。
話そう。
全てを。
そして、選ばなければならない。
私と、祐二君の未来を。
「ちょっと入れすぎちゃって……」
そう言って戻ってきた彼の手には、なみなみと注がれたアイスコーヒーのグラスが握られていた。
「ねえ、祐二君」
「はい、海月さん」
私の前に腰を下ろした彼の、何の疑いもない瞳が向けられる。
「実はあなたに話しておかないといけないことがあるの」
「ええ、何でも聞きますよ」
「私は、金森烈さんと付き合っていました」
彼は表情を変えなかった。
それとも変えられなかったのだろうか。
「彼と、肉体関係を持ったの」
喉が急激に乾いていくのが分かったけれど、祐二君は手にした私のグラスを渡してはくれなかった。
祐二君は金銭的な事情から他の仕事を探さざるを得ず、一週間ほどで何とかスーパーの配送の仕事が決まったと連絡があった。
灯里のことは私には何ともできなかった。
夫の保広はたまにLINEで連絡を取り合っているようだったが、最近はそれも返信がないと私に愚痴を零していた。
残暑は十月に入っても続いていて、私はすっかりアンブレラの一員となり、雨守からも「半日くらいならお店を任せられますね」と言われてしまった。
そんなある日、久しぶりに友理恵に呼び出されてランチを一緒に食べることになった。
「忙しかった?」
お店はアンティークな洋館を改造した自然を感じられる趣で、調度品や中庭にも拘りが見える落ち着いたところだった。天井がガラス張りの式場も併設され、結婚式を執り行うこともできるらしい。
目の前には創作イタリアンが並び、年齢層もいつも友理恵が選ぶ店舗よりはいくらか高めの印象だ。
「忙しいのはそっちでしょ。やっぱり飲食店は土日休み辛くなるわね」
「ごめんなさい」
「いいのよ。それより、前に料理教室やるって言ってたの。あれ決まった」
「へえ、そうなんだ。じゃあ、今日はそのお祝い?」
確かに胸元に大きなリボンがついた黒ベースのシックなワンピースを着ている。撮影でもしてきたのだろうか。
「お祝いは成功してからでいいわよ。そうじゃなくてね、ちょっとした筋から情報があって」
友理恵はキャビアを使ったパスタを器用にフォークにまとめると、髪を掻き上げてから口に運ぶ。私は彼女のようにはできないので、スプーンを使ってパスタとキャビアのソースは別々に口に入れた。ホワイトソースにキャビアの塩味というのが食欲を促す。
「海月さ、どうして私に黙ってたの?」
「え?」
「とぼけないでよ。浮気、してるんでしょ?」
祐二君のことか、それとも金森のことだろうか。どちらにしても背中に汗が一斉に吹き出した。
「ほら、キャンドル教室のあの若い子。なんて言ったっけ」
「鳥井君? 彼とはそんなんじゃないわよ」
私は笑いながら慌てて口の中のものをジンジャーエールで流し込む。
「じゃあどんな関係なの? 詳しく聞かせてみなさいよ」
誰から聞いたのだろう。
どんな風に聞いたのだろう。
アルコールを飲んでいなくても、思考回路がうまく働いていなかった。
「ほら、彼って」
「彼だって」
「もう、そういう揚げ足取りしないでよ。話さないわよ」
「ごめんごめん」
適当に誤魔化したいという思いが、笑い声と妙なテンションを作ってしまう。
「お母様を若くに亡くされてて、それで色々と相談に乗ったりしてるだけよ。ただそれだけの、ささやかな関係」
「もうシタの?」
「な、何言うのよ。だからそういうんじゃないって」
「だってさ海月、学生時代から好きな人の話をすると頬の筋肉がぴくぴくっと上がるじゃない」
そんな癖、初めて聞いた。
「少なくとも好きなんでしょ、海月は」
「私はそういうのは……」
「いいのよ別に。女同士なんだから、そういう本音、ぶちまけても」
友理恵からは逃げられないような気がした。
でも、一度口から出してしまったら、戻れない。
私は本音を呑み込んで、笑顔を作り直した。
「告白したけどおばさんは相手できないって振られちゃったのよ。だからそういうの、全然ないんだって」
「あれ? そうなの?」
「そうそう。残念だった?」
「まあね。折角あんたも仲間に入れられると思ったんだけど……お嬢海月には無理だったか」
どういう意味だろう。
ただ、私の知らない友理恵がいることは学生時代から分かっていたことで、そこに踏み込まない関係だったからこそ、ここまで一緒にいられたと思っている。だから、私は聞かないでおいた。
「ところで料理教室って、どこでやることになったの?」
「それなんだけど……」
その日は祐二君の話題はもうそれ以上はなく、友理恵の最近の事情と来月からスタジオを借りて月に二度のペースで始めるという料理教室の話題に終始した。
「これからも勉強の為に色々と他のお店を開拓しなくちゃいけないから、海月、覚悟しといてね」
そう言って笑う友理恵はいつもの彼女だと思ったが、結局最後まで誰から祐二君のことを聞いたのかについては問い質すことが出来なかった。
その祐二君とゆっくり会う時間が取れたのは、十月も終わろうという水曜日だった。
午後のファミリーレストランは家族連れというよりは旅行客で半分ほどが埋まっていて、中には東南アジア系と思われる集団も目に付いた。
「なんか、感じ変わった?」
互いの休みが合わずにすれ違いが続いていた所為か、久しぶりに目にする鳥井祐二という男性の隠されていた逞しさが、シャツから出た首筋の筋肉に見て取れた。
「やっぱり肉体労働が増えたからですかね」
彼は苦笑しながら対面に座ったが、体は引き締まっているのに一回りくらい大きい印象を受けた。
「それで、今日は何ですか。なんか話があるとかって」
「うん。そうね」
メニューを見ながら、私は一晩掛けて考えてきた台詞をどう切り出そうか考える。
「俺は、じゃあ、このクリームのショートパスタにエビのサラダをつけて、それからドリンクバーをセットでお願いします」
「私は……」
いつも友理恵と利用する店の半分くらいの金額に迷いながらも、ミラノ風ドリアとドリンクバーのセットを頼んだ。食べ切れなければ祐二君にあげればいい。そもそも今日は食べたい訳じゃなかった。
店員がメニューを回収して下がると、祐二君はドリンクを取りに席を立つ。
「海月さんはコーヒーでいいですか?」
「あ、うん。そうね。お願い」
「わかりました」
なんだか腰が重い。
でもこれは自分で決めたことだった。
話そう。
全てを。
そして、選ばなければならない。
私と、祐二君の未来を。
「ちょっと入れすぎちゃって……」
そう言って戻ってきた彼の手には、なみなみと注がれたアイスコーヒーのグラスが握られていた。
「ねえ、祐二君」
「はい、海月さん」
私の前に腰を下ろした彼の、何の疑いもない瞳が向けられる。
「実はあなたに話しておかないといけないことがあるの」
「ええ、何でも聞きますよ」
「私は、金森烈さんと付き合っていました」
彼は表情を変えなかった。
それとも変えられなかったのだろうか。
「彼と、肉体関係を持ったの」
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