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第六章 「危険信号」

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「あれ? 帰ってきてたんだ」
「あら、あなた。おかえり」

 翌日の午後には、私はマンションに戻っていた。
 気づけばもう窓から夕日が差し込んでいて、キャリーバッグを自室に放り込んだままエプロンに着替えたところまでは覚えているけれど、どうやらそのままずっと座り込んでしまっていたようだった。
 立ち上がり、

「ごめんなさい。ちょっと待っててね」

 夕食の準備に取り掛かる。

「ああ、いいよ。どうせ灯里ともりもいないし、外で食べるか……いや、出前でも取ろう」

 いつもなら断るところだったけれど、正直足腰が重い。

「そうね」

 私は保広やすひろに賛成し、彼に出前の注文も任せた。
 三十分ほどして、食卓には熱海で食べたような寿司と中華のオードブルが並んだ。彼に任せるといつも同じようなものばかりになる。確かに味は安心して食べられるけれど、バランスも何も考えない。

「どうだった」
「うん。まあ」

 シーザーサラダを取り分けながら、私は曖昧なだけの返事をする。正直に答えられるはずはないけれど、それ以上にあれは何だったのか、あまりにも現実感が乖離かいりしてしまっていて考えられない。ただ金森烈かなもりれつは駅で別れる時にスマートフォンの連絡先を削除しながら、こう言った。

『ありがとうございました』

 それはまるで今生の別離のようで、深々と頭を下げた彼に対して、ひょっとすると最低の女だったんじゃないかという思いが浮かび上がった。でもそれはすぐに日常という海に沈んでしまう。ふつふつと燃え残った関係の炎はきっぱりと消されてしまったのだと、思い込もうとして、私は烏賊いかの握りを喉に詰め込む。

「灯里のことなんだけど」
「何?」

 彼はトロにたっぷりと醤油をつけながらかぶりついて続ける。

「この前外回りで出てる時に、ちょっと会社の近所を通ってさ」

 おそらく気になっていて、無理をして覗きに行ったのだと思った。

「背の高い、スーツの男と歩いてたんだ」
「彼氏なんじゃないの?」
「ああ、そうだろうな。ちょっとそこらの会社員じゃ着けない腕時計をしてた」
「何が言いたいの?」

 保広は口の中のものを呑み込むと、お茶を流し込んでから改めて言う。

「あれってたぶん、水商売の男だ」

 私は祐二君が先輩の紹介で灯里と出会ったことを思い出して、夫の指摘も遠くないのではないかという予感はあったけれど、

「遠目に見ただけなんでしょ?」

 自分の不安から目を背けるように、そう言って笑った。

「いや、この前の痣のこともあるし、別に職業どうこうって話ではないんだよ。たださ、どうしたって仕事で沢山の女と金に囲まれているような奴らには、灯里のことを任せられるような類の人間は少ないんじゃないかって、そう思うのが親ってもんだろ?」
「分かるわよ。私だって、不安はある。けど、あの子の気持ちを尊重しようって話になったじゃない? あなたが言ったのよ?」
「気持ちは尊重するよ。でもさ、相手が誰でもいいとは言ってない」

 いつもそうだ。保広は口では良い風なことを、理解ある人間を装っておいて、その本音は自分の思う通りにならないことが許せないのだ。

「気に入らないって言ったらいいじゃない」
「そういうことじゃないんだ。お前は娘が心配じゃないのか?」
「心配よ」

 そう口から出したものの、本心なのかどうか、自分でもよく分からなかった。

「でも」

 だから、言葉を続けて、その気持ちをつくろう。

「あの子はもう大人じゃないの」

 そう言った私を、保広は感情の読み取れない眼差しで見ていた。

「ああ、そうだな」

 どれくらい見つめていたか分からないが、そう言って目線を外すと、テレビの音量を少し上げ、チャンネルをバラエティに替えた。
 私たちの代わりに笑い声がスピーカーから響いていたけれど、何も楽しくなんてなかった。

 金森との小旅行を終えてから、ドロシーズは臨時休業となった。
 そのことを祐二君からのLINEで知らされたのだけれど、私はアンブレラで働いている最中で、気づいて返信した時にはもう夕方だった。
 家に帰る前にドロシーズを訪れたのだけれど、シャッターが降りたまま前に『臨時休業のお知らせ』が貼られていた。

「あ、祐二君からだ」

 電話に出る。

「連絡見たし、今ドロシーズの前」
「俺も今朝店に来て驚いて。中に入ってみたら書き置きがしてあったんですよ。しばらく休むからたまに様子を見に来てくれって。電話もメールも繋がらなくなってて、突然なんでどうしたらいいか分からなくて」
「私の方も金森さんとは連絡は取れないし、何かあったのかな」
「分かりません。ただ、最近妙な人が店の周りをうろついてたのは確かです。お客さんからも言われたことがあって」

 私は言われてから、辺りを見回した。
 歩いているのは会社帰りの人や、買い物を終えた主婦、自転車の若者、そんなところだ。特におかしな人間は見当たらない。

「何か分かったら連絡ちょうだいね」
「はい」

 返事の声が重い。
 電話を切った私に、背後から外国なまりの日本語が投げかけられた。

「え?」
「この店、休みなんですか?」

 振り返ると、眼鏡を掛けた派手な開襟シャツの男だった。ひょろりと高い。東南アジア系の顔立ちをしていて、カーキ色のバックパックを背負っている。旅行者だろうか。

「ええ、そうみたいです」
「そうですか。明日はやっていますか?」
「それが、臨時休業って書かれていて、いつまで休むとかは書かれていないんですよ」

 私は張り紙に記載してあることを、なるべく丁寧な発音で伝える。

「ここの店長のミスター金森に会いたかったんですが、残念です」
「お知り合いなんですか?」
「アナタは、金森さんの恋人ですか?」
「え? いえ。私はただのお客で」

 そう答えたけれど、そのバックパッカーはニコニコと笑みを浮かべて、

「おきれいですね」

 と言った。

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