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第五章 「蕩けるロウソク」
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十三日だった。私の実家、埼玉での墓参りを一人で終わらせて帰ってくると、保広と口論している灯里がいた。
「どうしたの?」
「あんたには関係ない」
灯里は頬に青痣《あおあざ》を作って、ボストンバッグを抱えていた。その腕にしがみつくようにして夫が必死に引き止めている。
「何も話さなくていいから。とにかく落ち着けって、なあ」
「部屋は借りたんだからいいでしょ」
「ねえ。何の話をしてるの?」
私はどうしていいか分からず、戸口に立ったままもみ合う二人を見つめている。
「海月。灯里が勝手に部屋を借りたって言うんだ」
「前にお金が貯まったら出てくって言ってたでしょ!」
「それなら何でこんな急に出ていくんだ。ちゃんと俺たちに話してからでもいいじゃないか」
明らかに娘の様子はおかしかった。そもそも転んだとか何かにぶつけたとかという青痣じゃない。
「灯里。それどうしたの?」
「だから何でもないんだって。あんたは引っ込んでてよ!」
「娘が傷つけられたかも知れないのに、黙ってられないでしょ?」
普段は出さないような、自分の声だった。
「なんでこんな時だけ母親面すんのよ! あんたが幸せそうな振りしてるから苛つくんでしょうが!」
私が何か関係あるのだろうか。それとも祐二君の方か。
とにかくこのままじゃ埒《らち》が明かないと、私は右手を振り上げる。
「おい、海月。待て」
けれど、振り下ろした手は止まらなかった。
灯里の右頬、痣の上から思い切り平手で打っていた。
娘は何も言わずにそのまま倒れ込むと、頬を押さえて俯いたまま、鼻を啜って泣き始める。
「……何でよ」
夫も黙り込んで、私と娘を見やる。
私は右手の痛みを感じながら、娘の前に座り込んでその顔を上げた。
「お父さんも私も、部屋を黙って借りたことについて言ってる訳じゃないの。あなたが心配だから、どうしてそんな風に辛そうなのかを話して欲しいって言ってるの」
「……だからさ、関係ないんだって」
「娘が悲しそうにしてたら、こっちだって悲しくて辛くなる。何かできるならしてあげたい。それもこれだけ強く突き放そうとするんだから、絶対に人生で困っているんだって分かるから、余計にこのままなんて外に放り出せないじゃない。そんなの、当たり前のことよ」
時折、普段の自分からは考えられないような行動をすると、実家の両親からもよく言われた。保広もそんな私を見て何度か驚かされたと言うが、それが突発的におかしくなる訳じゃなく、ちゃんと一本筋が通っているということを、よく理解してくれていた。
「ちょっと今の彼と上手くいってないだけ。ごめん」
「分かった」
「じゃあ、もういい?」
灯里はそう言って立ち上がる。
「何が、もういいんだ?」
今度は保広の番だ。
「俺はまだ、灯里が今の状態のままで家を借りることには賛成してないぞ」
「もう一人前なんだから、好きにさせてよ……」
「本当に一人前なら、俺たちに心配を掛けないことだ。少なくとも今日はその荷物を部屋に置いてきなさい」
こういう時の保広は、融通が利かない。そこは私たちが似た者夫婦ということかも知れなかった。
灯里は夫を一瞥したが何も言わず、そのまま自室へと帰って行く。
耳が痛くなるような音をさせてドアを閉めると、鍵が掛かってしまった。
けれど、それを見送って私と保広は共にほっとした苦笑を見せ合う。部屋にいれば、今夜はとりあえず安心だからだ。
その日の夜は二人で晩酌をした。
保広の実家は八王子の方で、そちらは先月に二人で墓参りを済ませていたが、父親が夏風邪を引いたらしく電話があったと言っていた。
「たまには帰ってこいって言われたけど、いつまで経っても親の子供なんだなって思っちまうよ。まだピーマンが嫌いなことになってて、嫌いなものも食べないと元気でいられないからって。親っていつまでもお節介なんだよな」
「親になって、親の気持ちを知る。ってこと?」
「もう少し素直な子に育てたつもりだったんだけどなあ」
小さい頃から何かと家族旅行の時間を取ってくれてはいたけれど、それでも大半の時間を過ごした私の方が責任が重いように思えた。
「どうするつもり?」
「そりゃあ許可するよ」
「そうなの?」
私は驚いて少しビールを噎せてしまった。
「場所は二駅先だし、何かあったらすぐ駆けつけられる距離だよ」
「けど」
「いつまでも俺たちの手の中って訳にもいかないだろ?」
「そうだけど」
あれだけ怒っておいて、翌日には甘やかしてしまう。保広の悪い癖だ。
けれど、いつかは家の外に出てしまうことは避けられないと思っている。私はあの子に嫌われているのだから。十年前の責任を、いつかはまとめて取らなければいけない気がしていた。
「ねえ、海月ちゃん」
「もう一本だけね」
「おう。今日は分かってくれるねえ」
目がとろんとしながらも口を開けて笑う彼の為に、私は冷蔵庫に向かった。
翌日はパートが休みなこともあって、午前中休みを取った夫と共に灯里が借りたというマンションを訪れた。六畳と手狭だったけれど、それでもオートロックや女性の入居者ばかりなど、安心できる物件を紹介してもらったのだと、保広と二人で安堵したものだった。
一晩経って気持ちが落ち着いたのか、特に私や保広に文句を言ったりすることもなく、
「また来るわね」
と帰り際に言うと、
「連絡してからにしてね」
そんな可愛らしい言葉を返してくれた。
帰りの車内で、助手席の私に保広が言った。
「やっぱり家族旅行、近いうちにできるよう手配しておくよ」
「無理しないでね。また暫く大変でしょ、仕事」
「いいんだよ。家族の為に無理をするのが、俺のもう一つの仕事でもある」
信号が変わり、動き出す。
私は大きな胸の閊えが取れたからか、以前よりも前向きに家族のことを考え始めていた。
けれど、隣で鼻歌を始めた夫には言えないことを、幾つか抱えている。
その一つだけでも何とかしようと私はスマートフォンを操作する。
メールの送り先は、金森烈だった。
「どうしたの?」
「あんたには関係ない」
灯里は頬に青痣《あおあざ》を作って、ボストンバッグを抱えていた。その腕にしがみつくようにして夫が必死に引き止めている。
「何も話さなくていいから。とにかく落ち着けって、なあ」
「部屋は借りたんだからいいでしょ」
「ねえ。何の話をしてるの?」
私はどうしていいか分からず、戸口に立ったままもみ合う二人を見つめている。
「海月。灯里が勝手に部屋を借りたって言うんだ」
「前にお金が貯まったら出てくって言ってたでしょ!」
「それなら何でこんな急に出ていくんだ。ちゃんと俺たちに話してからでもいいじゃないか」
明らかに娘の様子はおかしかった。そもそも転んだとか何かにぶつけたとかという青痣じゃない。
「灯里。それどうしたの?」
「だから何でもないんだって。あんたは引っ込んでてよ!」
「娘が傷つけられたかも知れないのに、黙ってられないでしょ?」
普段は出さないような、自分の声だった。
「なんでこんな時だけ母親面すんのよ! あんたが幸せそうな振りしてるから苛つくんでしょうが!」
私が何か関係あるのだろうか。それとも祐二君の方か。
とにかくこのままじゃ埒《らち》が明かないと、私は右手を振り上げる。
「おい、海月。待て」
けれど、振り下ろした手は止まらなかった。
灯里の右頬、痣の上から思い切り平手で打っていた。
娘は何も言わずにそのまま倒れ込むと、頬を押さえて俯いたまま、鼻を啜って泣き始める。
「……何でよ」
夫も黙り込んで、私と娘を見やる。
私は右手の痛みを感じながら、娘の前に座り込んでその顔を上げた。
「お父さんも私も、部屋を黙って借りたことについて言ってる訳じゃないの。あなたが心配だから、どうしてそんな風に辛そうなのかを話して欲しいって言ってるの」
「……だからさ、関係ないんだって」
「娘が悲しそうにしてたら、こっちだって悲しくて辛くなる。何かできるならしてあげたい。それもこれだけ強く突き放そうとするんだから、絶対に人生で困っているんだって分かるから、余計にこのままなんて外に放り出せないじゃない。そんなの、当たり前のことよ」
時折、普段の自分からは考えられないような行動をすると、実家の両親からもよく言われた。保広もそんな私を見て何度か驚かされたと言うが、それが突発的におかしくなる訳じゃなく、ちゃんと一本筋が通っているということを、よく理解してくれていた。
「ちょっと今の彼と上手くいってないだけ。ごめん」
「分かった」
「じゃあ、もういい?」
灯里はそう言って立ち上がる。
「何が、もういいんだ?」
今度は保広の番だ。
「俺はまだ、灯里が今の状態のままで家を借りることには賛成してないぞ」
「もう一人前なんだから、好きにさせてよ……」
「本当に一人前なら、俺たちに心配を掛けないことだ。少なくとも今日はその荷物を部屋に置いてきなさい」
こういう時の保広は、融通が利かない。そこは私たちが似た者夫婦ということかも知れなかった。
灯里は夫を一瞥したが何も言わず、そのまま自室へと帰って行く。
耳が痛くなるような音をさせてドアを閉めると、鍵が掛かってしまった。
けれど、それを見送って私と保広は共にほっとした苦笑を見せ合う。部屋にいれば、今夜はとりあえず安心だからだ。
その日の夜は二人で晩酌をした。
保広の実家は八王子の方で、そちらは先月に二人で墓参りを済ませていたが、父親が夏風邪を引いたらしく電話があったと言っていた。
「たまには帰ってこいって言われたけど、いつまで経っても親の子供なんだなって思っちまうよ。まだピーマンが嫌いなことになってて、嫌いなものも食べないと元気でいられないからって。親っていつまでもお節介なんだよな」
「親になって、親の気持ちを知る。ってこと?」
「もう少し素直な子に育てたつもりだったんだけどなあ」
小さい頃から何かと家族旅行の時間を取ってくれてはいたけれど、それでも大半の時間を過ごした私の方が責任が重いように思えた。
「どうするつもり?」
「そりゃあ許可するよ」
「そうなの?」
私は驚いて少しビールを噎せてしまった。
「場所は二駅先だし、何かあったらすぐ駆けつけられる距離だよ」
「けど」
「いつまでも俺たちの手の中って訳にもいかないだろ?」
「そうだけど」
あれだけ怒っておいて、翌日には甘やかしてしまう。保広の悪い癖だ。
けれど、いつかは家の外に出てしまうことは避けられないと思っている。私はあの子に嫌われているのだから。十年前の責任を、いつかはまとめて取らなければいけない気がしていた。
「ねえ、海月ちゃん」
「もう一本だけね」
「おう。今日は分かってくれるねえ」
目がとろんとしながらも口を開けて笑う彼の為に、私は冷蔵庫に向かった。
翌日はパートが休みなこともあって、午前中休みを取った夫と共に灯里が借りたというマンションを訪れた。六畳と手狭だったけれど、それでもオートロックや女性の入居者ばかりなど、安心できる物件を紹介してもらったのだと、保広と二人で安堵したものだった。
一晩経って気持ちが落ち着いたのか、特に私や保広に文句を言ったりすることもなく、
「また来るわね」
と帰り際に言うと、
「連絡してからにしてね」
そんな可愛らしい言葉を返してくれた。
帰りの車内で、助手席の私に保広が言った。
「やっぱり家族旅行、近いうちにできるよう手配しておくよ」
「無理しないでね。また暫く大変でしょ、仕事」
「いいんだよ。家族の為に無理をするのが、俺のもう一つの仕事でもある」
信号が変わり、動き出す。
私は大きな胸の閊えが取れたからか、以前よりも前向きに家族のことを考え始めていた。
けれど、隣で鼻歌を始めた夫には言えないことを、幾つか抱えている。
その一つだけでも何とかしようと私はスマートフォンを操作する。
メールの送り先は、金森烈だった。
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