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第五章 「蕩けるロウソク」

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 その日も灯里は帰ってこなかった。連絡もなく、夫の保広やすひろと二人だけでの晩ご飯となった。

「そういや、海月みつきって昔バレエやってんだよな」
「うん。そうだけど」

 私は一枚残った生姜焼きにラップをしながら、缶ビールを開けていた夫を見る。

「取引先の人からさ、チケットもらっちゃって。けど俺は別に見ないしなあ」
「そう。ならもらうけど、何枚?」
「一応二枚。友理恵さんとでも行けば?」

 そう言って鞄の中から少し皺のついたチケットを取り出した。私は貰って皺を伸ばしながら、そこに書かれた演目を見つめる。白鳥の湖。小さい頃、少し憧れた舞台だった。

「それよりさあ、海月ちゃん」
「何ですか」

 甘えた声を出す時の保広は、大抵お小遣いを使いすぎて謝るか、約束をすっぽかして謝るかのどちらかだ。

「夏に家族で旅行しようって言ってたけど、休み取れなかった」
「別にいいわよ。灯里だって学生じゃないんだからお休み取らないといけないのよ?」
「分かってるけど、まずは俺だろ」
「じゃあ、その俺さんのお休みが取れてから考えましょ。それより、もう一本は付けないわよ」

 空になった缶を持ち上げて振っていたので、私はぴしゃりと断った。
 しょぼんとなったけれど、保広は「ごちそうさま」と立ち上がり、浴室に向かう。いつも軽くアルコールが入った状態で向かうのだが、時々浴槽に浸かったまま眠ってしまうことがあり心配になる。

「今日は寝ないでね」
「分かってるよお」

 小さな息をついて見送ると、片付けものの続きに戻った。
 皿を片付けてしまってから、私はスマートフォンを手に取る。テーブルの上のチケットの日付を確認してから、彼にLINEを送った。バレエなんて、見てくれるだろうか。
 冷蔵庫に残り物を仕舞い終えると、ちょうど彼からの返信が来る。

> 見ます。母親がバレエやってて好きなんですよ!

 ビックリマークに、私がびっくりする。
 それから日付の調整のやり取りをして、最後に「今日は楽しかった。おやすみなさい」と送った。
 十年前は何度も「おやすみ」を送り合うことになるので、互いに一度ずつにしようと約束をしたのだけれど、彼はそれを今も律儀に守ってくれていた。一分もせずに今日の、

> おやすみなさい

 が届いて、私は嬉しくなる。
 けれど、私はふと思った。

 ――彼の母親がバレエをやっていた。

 なんて、金森は言っていただろうか? と。
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