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第五章 「蕩けるロウソク」
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今朝も「おはようございます」と変わらずに簡素なLINEを送ってきた祐二君が、私の隣を歩いていた。
駅から出て、十五分くらいだと言う。
アンブレラを訪れた彼と一緒に、自分で作ったアイスクリーム・プレートを分け合って食べ終えた後、
「折角だからちょっと付き合って下さい」
彼に誘われた。
向かった場所は美術館だった。今美術展をやっていてそれが見てみたかったというのだ。
「でも同世代で付き合ってくれる人って、いないんです。こういうの」
「そうかな? 私は昔から好きだったよ。こういうのをぼんやりと眺めるの」
私を見つめる彼の目を、余計な感情なく見返すことができる。
「あそこ、曲がったところです」
通りを一つ入ったところに、立て看板が出ていた。
「江戸を、描く」
そう題して、著名な作家から聞いたことのないような人の作品まで、幅広く展示したもののようだ。私でも葛飾北斎や円山応挙などの有名人の作品のレプリカは目にしたことがあるけれど、そこに描かれた美人図と「蘇我蕭白」という名前は見聞きしたことがなかった。
「これ」
チケットが二枚、握られていた。ひょっとすると灯里と一緒に行く予定だったのだろうか。
「今週いっぱいで終わりなんで」
「そっか」
私はそれを受取り、彼と並んで建物に入る。
平日の午後だけあって、あまり人はいない。それに祐二君が戸惑うのも分かるように、私と大差ない、あるいはもっと歳上の人ばかりが目立った。私たちは順路に沿って、特に話すこともなく一枚一枚飾られた浮世絵や水墨画、屏風絵のレプリカを眺めた。
蘇我蕭白という人物については、あまり詳しい資料が見つかっていない為に不明な点も多いのだと書かれていた。京の人間で、十六の時には母も亡くなり、独り身になって苦労したようだ。そのことを彼は知っていて、見に来たのだろうか。横顔を覗いたけれど、分からなかった。
彼の描いた水墨画は力強さと繊細さが同居していた。特に人物の着ている服などの模様や裾の皺の描き込みが細かい。
「昔から好きなの?」
「何度か母さんが、連れてきたんです。こういう本物を見る癖をつけておきなさいって」
私は金森から聞かされた彼の十代の人生を思い返しながら、どういう母親だったのだろうと想像してみるのだけれど、祐二君のそれと合致しなくて、なんて難しい女性だったのかと溜息が漏れた。
見終えた後で、一緒に食事をすることにした。
ちょうど近所に友理恵が連れて行ってくれたことがあるカフェバーがあり、リーズナブルで軽くお酒と食事が楽しめる店があったことを思い出したから、という口実だった。
「時間は大丈夫?」
「ええ。今日はもともと金森さんと夜一緒に出かける予定だったんですけど、それがゴッソリ空いてしまったんで」
「そういうこと、よくあるの?」
店内はまだ夕食には早い時間帯なのに、意外と客が多かった。私たちは二人掛けのテーブル席の一番端に案内されると、注文を聞くまでに店員が別の客に呼ばれて行ってしまった。
「たまに、ですね。ただ最近ちょっと忙しそうにしてるんで、急用が入ることが増えました。店の経営のことは金森さんが全部取り仕切ってるんで、俺は何も分からないんですよ」
気にならないと言ったら嘘になるが、金森との関係を今このささやかな時間だけは頭から追い出して、私はメニューと睨み合った。パスタやリゾット、アンティパストが写真付きで載っている。祐二君はピリ辛のアラビアータ・パスタを、私は茸を使ったリゾットを頼み、ドリンクはスパークリングワインにした。彼も同じものをと、注文を終わらせる。
「でもちょっと意外だった。祐二君て、美術とか芸術系の趣味があったなんて、全然言わなかったじゃない」
「趣味というよりも、勉強の一環です」
「アロマの?」
匂いと絵の関連性は、私には想像がつかない。
「匂い、香りというのも、一種の表現なんだそうです。それでその人がどんな気持ちになるのか、何を想像するのか。そういったことを考えながら調香して、できればそこにストーリーを持ち込むんだって、教わりました」
「匂いの、ストーリー?」
そういえば、昔メールでやり取りしている時も、突然こういう話をしては私を驚かせたことを思い出す。
「味覚は五種類か六種類だけですけど、匂いの種類はこの地球上だけで数十万と言われていて、その数だけ感じ方が異なる訳です。ほら、不意にこれ懐かしいなって思い出すことあるでしょ? 昔、おばあちゃんの家で嗅いだものだったり、高校の教室とか部室で友達と一緒にいた時に嗅いだものとか。匂いは思い出と結びついていて……」
語り始めた彼の目は真っ直ぐで、それを見つめているとワインよりもずっと綺麗な酔い方が出来そうだった。
駅から出て、十五分くらいだと言う。
アンブレラを訪れた彼と一緒に、自分で作ったアイスクリーム・プレートを分け合って食べ終えた後、
「折角だからちょっと付き合って下さい」
彼に誘われた。
向かった場所は美術館だった。今美術展をやっていてそれが見てみたかったというのだ。
「でも同世代で付き合ってくれる人って、いないんです。こういうの」
「そうかな? 私は昔から好きだったよ。こういうのをぼんやりと眺めるの」
私を見つめる彼の目を、余計な感情なく見返すことができる。
「あそこ、曲がったところです」
通りを一つ入ったところに、立て看板が出ていた。
「江戸を、描く」
そう題して、著名な作家から聞いたことのないような人の作品まで、幅広く展示したもののようだ。私でも葛飾北斎や円山応挙などの有名人の作品のレプリカは目にしたことがあるけれど、そこに描かれた美人図と「蘇我蕭白」という名前は見聞きしたことがなかった。
「これ」
チケットが二枚、握られていた。ひょっとすると灯里と一緒に行く予定だったのだろうか。
「今週いっぱいで終わりなんで」
「そっか」
私はそれを受取り、彼と並んで建物に入る。
平日の午後だけあって、あまり人はいない。それに祐二君が戸惑うのも分かるように、私と大差ない、あるいはもっと歳上の人ばかりが目立った。私たちは順路に沿って、特に話すこともなく一枚一枚飾られた浮世絵や水墨画、屏風絵のレプリカを眺めた。
蘇我蕭白という人物については、あまり詳しい資料が見つかっていない為に不明な点も多いのだと書かれていた。京の人間で、十六の時には母も亡くなり、独り身になって苦労したようだ。そのことを彼は知っていて、見に来たのだろうか。横顔を覗いたけれど、分からなかった。
彼の描いた水墨画は力強さと繊細さが同居していた。特に人物の着ている服などの模様や裾の皺の描き込みが細かい。
「昔から好きなの?」
「何度か母さんが、連れてきたんです。こういう本物を見る癖をつけておきなさいって」
私は金森から聞かされた彼の十代の人生を思い返しながら、どういう母親だったのだろうと想像してみるのだけれど、祐二君のそれと合致しなくて、なんて難しい女性だったのかと溜息が漏れた。
見終えた後で、一緒に食事をすることにした。
ちょうど近所に友理恵が連れて行ってくれたことがあるカフェバーがあり、リーズナブルで軽くお酒と食事が楽しめる店があったことを思い出したから、という口実だった。
「時間は大丈夫?」
「ええ。今日はもともと金森さんと夜一緒に出かける予定だったんですけど、それがゴッソリ空いてしまったんで」
「そういうこと、よくあるの?」
店内はまだ夕食には早い時間帯なのに、意外と客が多かった。私たちは二人掛けのテーブル席の一番端に案内されると、注文を聞くまでに店員が別の客に呼ばれて行ってしまった。
「たまに、ですね。ただ最近ちょっと忙しそうにしてるんで、急用が入ることが増えました。店の経営のことは金森さんが全部取り仕切ってるんで、俺は何も分からないんですよ」
気にならないと言ったら嘘になるが、金森との関係を今このささやかな時間だけは頭から追い出して、私はメニューと睨み合った。パスタやリゾット、アンティパストが写真付きで載っている。祐二君はピリ辛のアラビアータ・パスタを、私は茸を使ったリゾットを頼み、ドリンクはスパークリングワインにした。彼も同じものをと、注文を終わらせる。
「でもちょっと意外だった。祐二君て、美術とか芸術系の趣味があったなんて、全然言わなかったじゃない」
「趣味というよりも、勉強の一環です」
「アロマの?」
匂いと絵の関連性は、私には想像がつかない。
「匂い、香りというのも、一種の表現なんだそうです。それでその人がどんな気持ちになるのか、何を想像するのか。そういったことを考えながら調香して、できればそこにストーリーを持ち込むんだって、教わりました」
「匂いの、ストーリー?」
そういえば、昔メールでやり取りしている時も、突然こういう話をしては私を驚かせたことを思い出す。
「味覚は五種類か六種類だけですけど、匂いの種類はこの地球上だけで数十万と言われていて、その数だけ感じ方が異なる訳です。ほら、不意にこれ懐かしいなって思い出すことあるでしょ? 昔、おばあちゃんの家で嗅いだものだったり、高校の教室とか部室で友達と一緒にいた時に嗅いだものとか。匂いは思い出と結びついていて……」
語り始めた彼の目は真っ直ぐで、それを見つめているとワインよりもずっと綺麗な酔い方が出来そうだった。
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