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第五章 「蕩けるロウソク」
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「どうしたんだよ、なあ海月」
灯里のメールを目にした私は薄手のコートを引っ掛けて、靴を履く。
「ちょっと買い忘れたものがあって。ごめんなさい!」
保広にはそれだけ言ってから、玄関を飛び出る。エレベータは遅くて、私はスマートフォンで鳥井祐二を呼び出しながら、マンションの階段を駆け下りた。
電話は繋がらない。
玄関ホールを出ると、暗がりの路地を走る。タクシーはすぐ捕まるだろうか。
まだ繋がらない。
大通りまでやってくると、車の暴力的なライトが行き交っている。
私は必死に手を挙げてアピールするけれど、どれも止まってくれない。私を助けてはくれない。
電話は諦めて、LINEとメールで返事をくれるように短文を送る。
――お願い。大丈夫でいて。
やっと一台のタクシーが百メートルほど後方で停車し、客を乗せようとする。
「すみません!」
私は慌てて走って行って、頭を下げた。
「お願いします。譲って下さい!」
鳥井祐二のアパートまでやってきた私は、彼の部屋のドアの前に立ち、心臓がまだうるさいくらいなのに気づいて、初めてそのインターフォンに触れるのを躊躇した。
まだ、彼からの返信はない。そもそも家にいるのかどうかも分からない。
慌ててしまった。
確認をしなかった。
でもそんなことよりも、祐二が傷つけられることだけは何とかしたかった。
ただふと冷静さが戻ると、今部屋の中に祐二と灯里がいるとして、私は何をすればいいというのか。
分からない。
その戸惑いが、インターフォンを押させてくれなかった。
と、電話が鳴る。
知らない番号だった。
「……はい、もしもし」
「今日、友達んち泊まるから」
灯里だ。友達の携帯からなのだろうか。
「ねえ灯里。あなた、鳥井さんに何を」
「じゃ」
プツリ、と切られてしまった。
掛け直したけれど、電波が届かないか電源が入っていない為というアナウンスが流れる。
私はインターフォンを押していた。
一度、二度。
返事はない。応対に出てくる様子もない。
部屋にはまだ帰っていないのかも知れない。
そう思ったところで、鍵が開けられた。
「あ……」
顔を見せた鳥井祐二は上半身裸で、髪が濡れたままだった。
「入るね」
「……はい」
ただの返事なのに、それは興味のないお客に向ける表面上のそれに聞こえる。私は中に入り、ドアを閉める。靴を脱いでから、ゆっくりと彼の部屋を観察した。何があったのか、何もなかったのか。
彼はタオルを取って頭を拭いている。
昨日来た時と様子は変わらないように思えた。テーブルの上は片付けられていたが、部屋の隅に彼が勉強していたアロマ用の材料が固めて置いてある。ただ目に付いたゴミ箱に、灯里にプレゼントすると言っていたアクセサリーの小箱が、そのまま投げ入れられていた。
私は、何があったの、と口を突いて出そうになるが、そもそもどうしてここに来たのか、何故あんなに電話やメールをしていたのか、言葉にしなくても彼には分かっていると思って、それならどんな言葉を掛ければいいのだろう、と何も言えないまま、座った。
「お茶で、いいすか」
「ええ……。あ、いや。私がやるよ」
「いいですよ」
その声に、いつものような優しさはない。
暫くして出てきたのは、私の分だけだった。彼の普段使っている湯呑みにティーバッグの番茶が入っている。
鳥井は何も言わない。ただ黙って髪の毛を拭いている。
私は何も言えない。ただ特別感のないお茶の水面を見つめている。
時間だけが過ぎていく。
どうして、と、何故、と、どうすればいいの、がぐるぐると頭の中を回って、自分の無力さを私は噛みしめる。
スマートフォンが震えていた。
見ると、保広だ。LINEでどこまで買い物に行っているのかという心配が来ていたが、もう少し時間が掛かるから先に寝ていて、とだけ返しておいた。それから電源をオフにする。
「帰らなくて大丈夫なんですか」
鳥井の声だった。
「ごめんなさい」
それに対して私が選んだ言葉は、謝罪だった。
「どうして浅野さんが謝るんですか。何か悪いことでもしたんですか」
した。していた。
全部自分の所為だ。
そう言ってしまいたかった。
けれど、それをする勇気がまだ持てない。
私は温くなったお茶を口に含んで、だんまりを決める。
「俺ね、また捨てられたんですよ」
その私の沈黙を、彼の言葉が強引に破っていく。
「話したと思いますけど、今日ね、なんか記念日だって言われて、それで彼女が予約を入れておいたホテルのレストランに行ったんです。ちょっとがんばって、普段は着ないスーツなんかで。高いから覚悟しておいてって言われて、給料前借りとかしないといけないなとか思って、行ったんですよ。ひょっとしたら食事の後にもどこかバーとかで飲み直して、夜景でも眺めて、ちょっとだけ慣れてきた気がしたから、その、キスなんかもできればとか、考えていたんです」
「うん」
「それが店に行っても予約はキャンセルが入りましたって言われて、すぐに灯里さんに確認しようとしたら、メールもLINEも繋がらなくて。電話を掛けたら、現在使われてませんて」
脳裏には、娘にバレて慌てて携帯電話を壊して何度も謝罪した日のことが蘇った。
「どうしたらいいか分からずに、とにかく何とか連絡を取らなきゃって思って、先輩経由で教えてもらおうとしたんですけど、そうこうしているうちに、灯里さんから電話が掛かってきて、なんかあったんだろうと思って聞いたら、同じだ、って言われたんです」
「同じ?」
「以前メールで仲良くしていた頃と何も変わらないって」
「それって、いい意味なんじゃないの?」
分からなかった。
けれど、彼は首を横に振る。
「前も別に気があってメール交換していた訳じゃなく、ただ恋人気分を楽しんでいただけで、ちっとも本気じゃなかった。なんかそういう雰囲気を楽しんでいるんだっていう空気が読めなくて、会おうとか言い出しちゃう、その生真面目さが、面倒くさいって」
私はそれを「違う」と今すぐ否定したかった。
「あれから十年も経てばお互いにもっと成長して、大人になっていると思ってたけど、祐二は全然成長していないし、その上大学も行ってない、社会人としてもまだ一人前になっていない、スペック的にもわたしの彼氏なんてナシだって、言われて」
鳥井は頭にタオルを乗せたまま、膝を抱えて寂しそうに笑った。
灯里のメールを目にした私は薄手のコートを引っ掛けて、靴を履く。
「ちょっと買い忘れたものがあって。ごめんなさい!」
保広にはそれだけ言ってから、玄関を飛び出る。エレベータは遅くて、私はスマートフォンで鳥井祐二を呼び出しながら、マンションの階段を駆け下りた。
電話は繋がらない。
玄関ホールを出ると、暗がりの路地を走る。タクシーはすぐ捕まるだろうか。
まだ繋がらない。
大通りまでやってくると、車の暴力的なライトが行き交っている。
私は必死に手を挙げてアピールするけれど、どれも止まってくれない。私を助けてはくれない。
電話は諦めて、LINEとメールで返事をくれるように短文を送る。
――お願い。大丈夫でいて。
やっと一台のタクシーが百メートルほど後方で停車し、客を乗せようとする。
「すみません!」
私は慌てて走って行って、頭を下げた。
「お願いします。譲って下さい!」
鳥井祐二のアパートまでやってきた私は、彼の部屋のドアの前に立ち、心臓がまだうるさいくらいなのに気づいて、初めてそのインターフォンに触れるのを躊躇した。
まだ、彼からの返信はない。そもそも家にいるのかどうかも分からない。
慌ててしまった。
確認をしなかった。
でもそんなことよりも、祐二が傷つけられることだけは何とかしたかった。
ただふと冷静さが戻ると、今部屋の中に祐二と灯里がいるとして、私は何をすればいいというのか。
分からない。
その戸惑いが、インターフォンを押させてくれなかった。
と、電話が鳴る。
知らない番号だった。
「……はい、もしもし」
「今日、友達んち泊まるから」
灯里だ。友達の携帯からなのだろうか。
「ねえ灯里。あなた、鳥井さんに何を」
「じゃ」
プツリ、と切られてしまった。
掛け直したけれど、電波が届かないか電源が入っていない為というアナウンスが流れる。
私はインターフォンを押していた。
一度、二度。
返事はない。応対に出てくる様子もない。
部屋にはまだ帰っていないのかも知れない。
そう思ったところで、鍵が開けられた。
「あ……」
顔を見せた鳥井祐二は上半身裸で、髪が濡れたままだった。
「入るね」
「……はい」
ただの返事なのに、それは興味のないお客に向ける表面上のそれに聞こえる。私は中に入り、ドアを閉める。靴を脱いでから、ゆっくりと彼の部屋を観察した。何があったのか、何もなかったのか。
彼はタオルを取って頭を拭いている。
昨日来た時と様子は変わらないように思えた。テーブルの上は片付けられていたが、部屋の隅に彼が勉強していたアロマ用の材料が固めて置いてある。ただ目に付いたゴミ箱に、灯里にプレゼントすると言っていたアクセサリーの小箱が、そのまま投げ入れられていた。
私は、何があったの、と口を突いて出そうになるが、そもそもどうしてここに来たのか、何故あんなに電話やメールをしていたのか、言葉にしなくても彼には分かっていると思って、それならどんな言葉を掛ければいいのだろう、と何も言えないまま、座った。
「お茶で、いいすか」
「ええ……。あ、いや。私がやるよ」
「いいですよ」
その声に、いつものような優しさはない。
暫くして出てきたのは、私の分だけだった。彼の普段使っている湯呑みにティーバッグの番茶が入っている。
鳥井は何も言わない。ただ黙って髪の毛を拭いている。
私は何も言えない。ただ特別感のないお茶の水面を見つめている。
時間だけが過ぎていく。
どうして、と、何故、と、どうすればいいの、がぐるぐると頭の中を回って、自分の無力さを私は噛みしめる。
スマートフォンが震えていた。
見ると、保広だ。LINEでどこまで買い物に行っているのかという心配が来ていたが、もう少し時間が掛かるから先に寝ていて、とだけ返しておいた。それから電源をオフにする。
「帰らなくて大丈夫なんですか」
鳥井の声だった。
「ごめんなさい」
それに対して私が選んだ言葉は、謝罪だった。
「どうして浅野さんが謝るんですか。何か悪いことでもしたんですか」
した。していた。
全部自分の所為だ。
そう言ってしまいたかった。
けれど、それをする勇気がまだ持てない。
私は温くなったお茶を口に含んで、だんまりを決める。
「俺ね、また捨てられたんですよ」
その私の沈黙を、彼の言葉が強引に破っていく。
「話したと思いますけど、今日ね、なんか記念日だって言われて、それで彼女が予約を入れておいたホテルのレストランに行ったんです。ちょっとがんばって、普段は着ないスーツなんかで。高いから覚悟しておいてって言われて、給料前借りとかしないといけないなとか思って、行ったんですよ。ひょっとしたら食事の後にもどこかバーとかで飲み直して、夜景でも眺めて、ちょっとだけ慣れてきた気がしたから、その、キスなんかもできればとか、考えていたんです」
「うん」
「それが店に行っても予約はキャンセルが入りましたって言われて、すぐに灯里さんに確認しようとしたら、メールもLINEも繋がらなくて。電話を掛けたら、現在使われてませんて」
脳裏には、娘にバレて慌てて携帯電話を壊して何度も謝罪した日のことが蘇った。
「どうしたらいいか分からずに、とにかく何とか連絡を取らなきゃって思って、先輩経由で教えてもらおうとしたんですけど、そうこうしているうちに、灯里さんから電話が掛かってきて、なんかあったんだろうと思って聞いたら、同じだ、って言われたんです」
「同じ?」
「以前メールで仲良くしていた頃と何も変わらないって」
「それって、いい意味なんじゃないの?」
分からなかった。
けれど、彼は首を横に振る。
「前も別に気があってメール交換していた訳じゃなく、ただ恋人気分を楽しんでいただけで、ちっとも本気じゃなかった。なんかそういう雰囲気を楽しんでいるんだっていう空気が読めなくて、会おうとか言い出しちゃう、その生真面目さが、面倒くさいって」
私はそれを「違う」と今すぐ否定したかった。
「あれから十年も経てばお互いにもっと成長して、大人になっていると思ってたけど、祐二は全然成長していないし、その上大学も行ってない、社会人としてもまだ一人前になっていない、スペック的にもわたしの彼氏なんてナシだって、言われて」
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