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第四章 「ひび割れた白熱球」

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 水につけておいた茶碗やコップを、軽くすすいでから食洗機に入れていく。なるべく綺麗に並べた方が汚れもちゃんと落ちる気がして、傾いたお皿を何度もセットし直す。小さい頃は母親や祖母が洗い物をするのを手伝うと言っては、よく落として割っていたことを思い出す。
 もう壊さなくてもちゃんと機械が洗ってくれる。
 それを良い時代になったと保広やすひろは言うけれど、私は手にしたスポンジを取り上げられてしまった時のことを思い出して、少しだけ切ない。

 昨日、一緒に食事をした後で灯里ともりは家に帰ってこなかった。その意味を理解していない訳じゃないけれど、今日も娘は家に戻っていない。酷く胸がざわついて、私は鈍痛に額を押さえた。
 床に視線を落とした時だ。
 スマートフォンが鳴る。
 また保広が飲みすぎたとLINEしてきたのだろうと思って開くと、灯里からだった。写真のみが添付されている。少し飲んでいるのか頬の発色が良いが、愛らしく見上げた瞳の向かう方にもう一人、別の人間が写っていた。
 画面をスクロールさせて、もう一枚の写真を見る。二人の表情がしっかりと収まるように調整されたものには、鳥井祐二とりいゆうじが写っていた。彼は照れ臭そうに、それでも嬉しそうに眉をひそめている。
 すると一分ほど遅れて、彼からも同じ写真が送られてきた。少し角度の異なる、おそらく彼のスマートフォンで撮影されたものだ。壁の時計を見れば、もう十二時に近い。どこかで一緒に飲んでいて、盛り上がったのだろう。
 よくあることだ。今の若い人たちなら、きっとこんなことをするのだろう。
 楽しげな鳥井の顔を、思わず撫でる。
 画面が移動してしまい、そのLINEに付けられていた彼の言葉が浮かび上がった。

> 灯里さんが、浅野さんの娘でよかった

 優しい彼の声が、頭の中にそれを響かせた。
 私はテーブルにスマートフォンを放り投げ、座り込む。顔を伏せて、声を殺した。
 幸せそうなことを素直に喜べない自分は、愚かな女だ。
 ただただ、胸の奥が傷んだ。


 翌日の午後、私はドロシーズに来ていた。金森が勝手に予約を入れた為だ。

「ちょっと浅野さんに、会いたくなりましてね」

 朝になってから連絡を寄越しておいて、店に現れた私を笑顔で出迎えた黒く日焼けした彼の角ばった顔を、張り飛ばしたくなった。

「そういう顔もするんですね。浅野さんはもっと感情的になった方がいい。その方がぐっと色気が増しますよ」

 付き合うだけ自分が不利になる。そういう相手なんだと理解してはいるけれど、それでも私はどうしようもなくこの男の存在が許せなくなりつつあった。

 その日のキャンドル教室はロウの代わりにジェル状の素材を使った、出来上がりが水槽のようにも見える透明なジェルキャンドルを作った。今までと同じ原理で、湯煎ゆせんして溶かした素材をガラス容器に流し入れて固めるのだけれど、金魚の模型を入れて沈めるだけで、売り物のような金魚鉢のキャンドルが出来上がった。

「これからの季節はこういう涼しげなキャンドルも良いでしょう。それにこれなら、お友達や大事な方にプレゼントしても喜ばれる。思ったより簡単で、見た目も良いですからね」

 教室で教えている時の彼の表情は、どこにも私をいたぶる時のような嫌味は滲んでいない。一人一人に対してにこやかで丁寧に教えてくれる。スタッフの鳥井に向ける目は相変わらず厳しかったけれど、よく見ていればそれも生徒さんたちを困らせないようにという配慮からの言葉が大半だと分かる。

「どうかしましたか?」

 じっと金森を見ていた私に、鳥井が声を掛けた。

「何か分からないこと、あります?」
「ううん。どの生徒さんにも優しく接しているな、と思って」
「そうでしょ。なかなかああは上手く気が遣えないですよ。色々厳しいことも言われるけど、なんだかんだ金森さんは凄いと思います」
「鳥井君もみんなに優しいと思うけど?」
「そうでもないっすよ。ここだけの話」

 彼が私の耳元にそっと手を当てて、近づく。

「……意外と我慢してるんですよ、俺」
「そうなの?」
「結構大変ですから」

 苦笑して、彼は別の生徒のところに行ってしまう。
 私は不意な鳥井との急接近に、不自然な体温の上昇を感じた。目の前の自分の未完成なジェルキャンドルに意識を戻し、私の小さな水槽もどきの続きを作った。


 何事もなく教室を終え、私はやっと解放されると思っていた。
 自作したジェルキャンドルは貝殻やヒトデの模型を沈めたけれど、水泡が綺麗に入って意外と見られたものになった。
 鳥井は店舗スペースの方で来客の応対に出ていて、ひとこと言ってから帰ろうと思っていた私は、部屋の中で一人手持ち無沙汰になる。

「どうです、このあと」
「え?」

 振り返ると金森がいた。いつの間に戻ったのだろう。

「他の生徒さんも一緒に、ケーキバイキングに行くんですよ。浅野さんもどうですか」
「えっと、私はちょっと用事が」
「急に呼び出したんですからね。そりゃ用事がありますよね」
「ええ……」

 そう言いながらも、金森は私に近づいてくる。

「あの」
海月みつきさんて、従順ですよね」

 唐突に名前で呼ばれ、私は固まってしまう。

「今日は中がノースリーブなんですね。意外と大きく胸元が開いてる」
「これは、その、友達の友理恵ゆりえが勝手に選んで……」
「素敵だ、と言っているんですよ」

 私は金森から少しずつ逃げるようにして後ずさったが、すぐに壁が近づいて、彼との間に挟まれるようになる。

「帰ります」

 出ていこうと金森から目を逸したところで、左手首を掴まれた。

「金森さん」
「海月さん」
「声、出しますよ」
「困るのは、あなたですけどね」

 その言葉からホテルでの写真を思い浮かべた私を、金森は引き寄せた。体が硬直した私の唇に、彼の分厚いそれが重なった。

「な、何……」

 金森は何も言い返さずに手を解放すると、そのまま背を向けて後片付けを始めてしまった。

「何なんですか……」

 何も答えない。
 私は振り返らない彼の背をにらみつけ、出口の方に向かう。
 あ……。
 その私を、鳥井君が見ていた。
 彼の目は金森と私を二度往復してから、再び店舗のお客の方へと戻された。
 きっと、見られた。
 鳥井君に、知られてしまったのだ。
 私は彼に何も言わないまま、ドロシーズから出て行った。
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