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第三章 「ホテルのネオンサイン」
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私が鳥井君から連絡を受けたのは、その二日後だった。
夕方、駅前で待ち合わせてから、彼に連れられて歩き始めた。
「急にどうしたの?」
「すみません。夕食をご一緒にって、突然迷惑じゃなかったですか?」
「いいのよ。今日は夫も灯里も、どっちも用事があるって言ってたから」
金森のこともあり、会っていいものか躊躇われたけれど、思案したのは十分ほどで、結局会いたい気持ちが勝った。
「俺は、やめといた方がいいって言ったんですよ。でもどうしてもって」
「え?」
てっきり二人での食事かと思っていた。でもその口ぶりからすると、鳥井以外にも別の人間がいるみたいだ。その別の誰かに「金森」という存在が入ってそうで、私は何度も彼の表情を確認してしまう。
向かった先は、見覚えのある雑居ビルだった。地下一階に降りていくと、東南アジアのどこかの街に迷い込んだかのような、雑踏。この前よりも人の出入りが多いのは、時間帯の違いだろうか。
鼓動が急に駆け足になる。
「ああ、ここです。美味しいですよ」
彼はにこやかにそう言って、入り口のドアを開けた。私に先に入るよう促すけれど、その一歩が重かった。
「いらっしゃい」
片言の日本語で、ベトナム人の店員が迎えてくれる。テーブル席が三つにカウンターという狭い店内に、厨房から香辛料の効いたスープの匂いが漂っていた。
「遅いよ、祐二」
「え? そんなに時間掛かったかな?」
「もう料理出てきちゃってる」
真ん中のテーブル席に陣取り、手を上げたのは私もよく知る人物だった。
「灯里……」
その名を呼んでから、鳥井を振り返る。彼は「座って下さい」と娘の向かいの席を勧めた。
「え、あの」
「お母さん、さっさと座ってよ。じゃないと祐二も座れない」
「う、うん……」
戸惑いを押し殺し、私は二人の向かい側に腰を下ろす。家では見せないようなニコニコとした灯里の右側に、ちんまりと鳥井が座った。灯里は私よりも彼の横顔を見つめている時間が長いが、鳥井はあまり娘の方を見ない。いや見られないのかも知れない。
そっと私に申し訳なさそうな視線を何度か、彼は送った。
「この前の時のお詫びってことじゃないけど、折角だからってことで、お母さんも呼んだんだよ。ほんとはお父さんも呼びたかったけどまた出張なんでしょ。空気読まないよね、相変わらず」
「いや、その……すみません。やっぱり迷惑でしたよね」
「いいのよ。娘のためなんだから迷惑の一つや二つ掛けたって。それに……きっとお母さんも喜んでくれると思うし」
そう言って灯里は俯く鳥井の左腕に手を回し、私にこの日一番の笑顔を向けて、唇を動かした。
「わたしたち、付き合い始めたの」
いずれこうなることは分かっていた。
それでも、血の気が引いていく。
「実はね、学生の時にメールでやり取りしてた祐二が、彼だったって分かってさ」
「どうも、そうだったみたいで。偽名なんかじゃなく、本当に灯里さんだったんですよ。携帯が壊れて、連絡が取れなくなったんだって聞いて、自分の勝手な思い込みだったのが、本当、馬鹿みたいですよね」
「そうよ。祐二は馬鹿よ」
「だから何度も言ってるだろう。ごめんて」
「謝らなくていいって。ごめんて言ったらその分好きって言わせるから。はい。今一回言って」
「な、何だよ。お母さんのいる前で、やめろって」
何だろう。
娘が何を考えているのか、分からなかった。
自分が何を思っているのか、分からなかった。
ただ、幸せそうに「灯里、好きだよ」と彼が音にならないほど小さく口にしたその言葉が、私の鼓膜にこびりつくくらいにはっきりと聞こえてしまった。
「わたしも、祐二が好きだよ」
そう答えた灯里の目は、何故か私に向けられていた。
夕方、駅前で待ち合わせてから、彼に連れられて歩き始めた。
「急にどうしたの?」
「すみません。夕食をご一緒にって、突然迷惑じゃなかったですか?」
「いいのよ。今日は夫も灯里も、どっちも用事があるって言ってたから」
金森のこともあり、会っていいものか躊躇われたけれど、思案したのは十分ほどで、結局会いたい気持ちが勝った。
「俺は、やめといた方がいいって言ったんですよ。でもどうしてもって」
「え?」
てっきり二人での食事かと思っていた。でもその口ぶりからすると、鳥井以外にも別の人間がいるみたいだ。その別の誰かに「金森」という存在が入ってそうで、私は何度も彼の表情を確認してしまう。
向かった先は、見覚えのある雑居ビルだった。地下一階に降りていくと、東南アジアのどこかの街に迷い込んだかのような、雑踏。この前よりも人の出入りが多いのは、時間帯の違いだろうか。
鼓動が急に駆け足になる。
「ああ、ここです。美味しいですよ」
彼はにこやかにそう言って、入り口のドアを開けた。私に先に入るよう促すけれど、その一歩が重かった。
「いらっしゃい」
片言の日本語で、ベトナム人の店員が迎えてくれる。テーブル席が三つにカウンターという狭い店内に、厨房から香辛料の効いたスープの匂いが漂っていた。
「遅いよ、祐二」
「え? そんなに時間掛かったかな?」
「もう料理出てきちゃってる」
真ん中のテーブル席に陣取り、手を上げたのは私もよく知る人物だった。
「灯里……」
その名を呼んでから、鳥井を振り返る。彼は「座って下さい」と娘の向かいの席を勧めた。
「え、あの」
「お母さん、さっさと座ってよ。じゃないと祐二も座れない」
「う、うん……」
戸惑いを押し殺し、私は二人の向かい側に腰を下ろす。家では見せないようなニコニコとした灯里の右側に、ちんまりと鳥井が座った。灯里は私よりも彼の横顔を見つめている時間が長いが、鳥井はあまり娘の方を見ない。いや見られないのかも知れない。
そっと私に申し訳なさそうな視線を何度か、彼は送った。
「この前の時のお詫びってことじゃないけど、折角だからってことで、お母さんも呼んだんだよ。ほんとはお父さんも呼びたかったけどまた出張なんでしょ。空気読まないよね、相変わらず」
「いや、その……すみません。やっぱり迷惑でしたよね」
「いいのよ。娘のためなんだから迷惑の一つや二つ掛けたって。それに……きっとお母さんも喜んでくれると思うし」
そう言って灯里は俯く鳥井の左腕に手を回し、私にこの日一番の笑顔を向けて、唇を動かした。
「わたしたち、付き合い始めたの」
いずれこうなることは分かっていた。
それでも、血の気が引いていく。
「実はね、学生の時にメールでやり取りしてた祐二が、彼だったって分かってさ」
「どうも、そうだったみたいで。偽名なんかじゃなく、本当に灯里さんだったんですよ。携帯が壊れて、連絡が取れなくなったんだって聞いて、自分の勝手な思い込みだったのが、本当、馬鹿みたいですよね」
「そうよ。祐二は馬鹿よ」
「だから何度も言ってるだろう。ごめんて」
「謝らなくていいって。ごめんて言ったらその分好きって言わせるから。はい。今一回言って」
「な、何だよ。お母さんのいる前で、やめろって」
何だろう。
娘が何を考えているのか、分からなかった。
自分が何を思っているのか、分からなかった。
ただ、幸せそうに「灯里、好きだよ」と彼が音にならないほど小さく口にしたその言葉が、私の鼓膜にこびりつくくらいにはっきりと聞こえてしまった。
「わたしも、祐二が好きだよ」
そう答えた灯里の目は、何故か私に向けられていた。
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