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第三章 「ホテルのネオンサイン」

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 駅前でタクシーを捕まえて、真っ直ぐに家まで戻るつもりだった。
 けれどドアを閉めてもらったところで、スマートフォンに友里恵から着信が入る。

「あ、はい。もしもし」
「あれ? 海月みつき、今外?」
「ちょっと買い物に出てて。何?」
「久しぶりに冷たくて甘いものとか欲しいなーって。どう?」

 不規則に暴れる心臓を押さえながら、私は彼女に言われるまま、待ち合わせの約束をして、渋谷方面に向かった。

 お店は前に一度友理恵ゆりえに連れて行ってもらったことのあるスイーツカフェで、白を基調とした店内は女性客ばかりだった。彼女はどこかに出かけていたのか、大きめの真珠のネックレスを下げていて、私に訊かずに外がよく見える大きな窓ガラスの前の席に、横並びに座った。
 友理恵は宣言していた通り、バナナとベリーのパルフェを注文し、私はソフトクリームを選んだ。スプーンで口に運んだクリームはひんやりと心地よく、熱に浮かされた私自身に冷静さを取り戻させてくれる。

「海月はさ、あんまり怒ったりしないじゃない? そういうおしとやかさを、私もそろそろ身につけた方がいいのかなって」
「何かあったの?」

 本当はその言葉は私自身が欲しいものだった。

「何って訳じゃないけど、料理教室をやらないかって誘われてたんだけど、その打ち合わせの席で、相手の男が言った一言がカチンてきちゃってさ」
「へえ。料理教室するんだ」

 知り合いを手伝ったり、という話は聞いていたけれど、自分で開くというのは初耳だ。私は取り繕って、必死に興味がある振りをする。

「料理は性欲と直結しているから、どうせなら性的な魅力を前面に押し出していきましょうとか、言われて。あの目。絶対に私とやろうって狙ってた」
「そういう冗談じゃなくて?」

 クリームに伸ばしたスプーンが、僅かに震えた。

「冗談は会話の握手なのよ? それで手を握っちゃったら、もっとずかずかとこっちの領域に踏み込んでくる。勝手に心を許されたんだと思って、次は二人だけで食事になんて言い出すの。男なんてね、女を性器としてしか見てないの」

 友理恵の黒いニットのふくらみは、同年代の女性から見ても魅力的に思えた。その体型を維持する為にジムやエステ通いをしているのよ、と彼女は言うけれど、お金を掛けただけで手に入れられるものには見えなかった。

「そりゃね、こっちだっていつ枯れるか分かったもんじゃないし、限りある女のうちに愉《たの》しみたいって気持ちもあるわよ。けどね、誰でもいいって訳じゃない。男と女は違うのよ。そう思うでしょ?」
「私は、友理恵みたいな情熱、もうないわよ」

 そうだろうか。
 自分の口から取り出しておいて、その嘘臭さに舌に乗せたクリームが不味くなる。

「何言ってるの。海月だって、ほら、鳥井君だっけ? あのキャンドル教室の。あの後どうなの? 何か進展とかあった?」
「何言ってるのよ。私と鳥井君はそんなんじゃないわよ。それに、鳥井君。今、娘といい感じみたいだし」
「え? 灯里ともりちゃんと? へえ。そうなんだ。何だか意外」

 何が意外だったのだろう。
 けど、そのことについて彼女は何も話さず、代わりに夏の間に旅行の一つも行きたいとか、そんな話題に移っていった。
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