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第三章 「ホテルのネオンサイン」
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マンションに戻ってきた私は、何度も自分のスマートフォンを確認する。夫からも灯里からも、連絡は入っていない。心臓が音を立てて私を急かした。
鳥井から「おはようございます」とメッセージがあったけれど、私は何もしないまま、テーブルの上に荷物を置き、一目散に浴室に駆け込んだ。
捨てるように脱ぎ散らかして、祈るようにコックを捻る。熱いシャワーを期待したけれど、落ちてきたのは肌を引っ張るような冷水だった。それでも構わない。勢い良く頭から被る。とにかく真っ白になりたかった。
スコールのようなそれが、すぐに熱を持ってくる。
――一体、私は何をした。
何があった。
表裏なんて考えずに自分の醜い裸体を隠す為だけに服をまとい、部屋から逃げ出した。入り口を出て振り返ると、知らない、けれど男女の目的を果たす為の施設だと教える派手なネオンが見えた。
金森の、よく鍛えられているけれどやや盛り上がった腹部のなだらかさを思い出して、息が止まる。それはすぐに嗚咽となって胃袋を持ち上げた。
「なんで……」
掠れた自分の声は、まるで別人のようだ。
両手で顔を覆い、しゃがみ込む。立っていることも辛かった。それからおもむろに右の人差し指を、自分の肉付きがよくなってしまった腹部、ふさりとした縮れ毛、その先へと滑らせる。
記憶が、ない。
それを探ろうと指が侵入する。
嘘か、本当か。
確かめることは恐くても、確かめないことは恐怖以上だった。
不快な湿り気はあるけれど、それ以上は分からなかった。
熱が、指の先で膨らむ。
涙が滲んで、でも女の部分も滲んで、どうしようもなく、声を殺してシャワーに濡れた。
化粧もすっかり落としてしまい、眉毛の薄い自分がぼんやりとしたまま、リビングでテレビショッピングを眺めていた。紹介しているのは話題のアンチエイジング効果があるクリームで、全然聞いたことのない商品名だったけれど、限定何名とか、本日限りですとか、笑顔しか見せない女性が語っていた。
どうしてそんなに若返れと言うのだろう。
張りを失った肌も、化粧乗りが悪くなった顔も、ざらついて感じる髪も、立ち上がるのが億劫になった臀部も、ただ同じように人生を過ごしてきただけなのに。その時間を巻き戻せと、彼らは言う。
必要とされるあなたになりなさい。
そんな風に強いられているみたいだ。
唇が寂しくなって、私は立ち上がる。
あまり間食はしない方だったが、冷蔵庫からチョコレートの袋を取り出して、それとジンジャーエールのボトルを持って、食堂のテーブルに就く。リビングでは相変わらず賑やかな声と取ってつけたような笑い声が響いていたが、それくらいで今の私にはちょうど良かった。静寂すぎるのはきっと、自分を傷つけるのに都合が良すぎる。
個包装を破り、サイコロ型のチョコを口に入れる。
糖分が疲れた心に染み渡るけれど、それで少し頭がはっきりしたからか、彼と初めてシタ時のことを思い出した。シタ時、というか、シタ後のことだ。怖がって泣き出した私に、チロルチョコだったと思うけど、食べさせてくれた。
あとになってそのことを尋ねると「小さい頃から泣いてると、母親が食べさせたんだよ」と照れて答えたっけ。テレビの音が、しているのだと思った。
「あ、電話」
私は慌ててリビングまで駆ける。テーブルの上に置いたままのスマートフォンを手に、応答する。
「あの、もしもし。保広さん」
「昨夜は悪かったよ。ちょっと飲みすぎて、そのまま同僚んちに泊めてもらったんだよ。まだ、怒ってる?」
「え、うん、いいのいいの。別に、大丈夫だから」
鼓動が、早くなる。
「ああぁ、そっか。LINEは無視だし、電話にも出ないし、絶対年イチだと思ったよ」
「何よ。私のこと何だと思ってるの」
年イチ。つまり一年に一度くらいは、思い切り不機嫌になることがあった。普段はそんな素振りがないから、初めて体験した時には保広は泣いて謝ったものだ。
「今日は早く帰る。それじゃまだ仕事中だから」
「うん。がんばってね……」
通話が完全に切れたことを確認してから、私は肺の空気を全て吐き出した。自分の中の酸素を入れ替えると、自室に向かう。ドアを開け、化粧台の前に座る。鏡には「化粧をしなくても大丈夫」と夫に言われていた頃の化粧乗りの良い顔は、映っていない。あと一週間で五十までに残された時間はちょうど三年になってしまう。
化粧水を掌に広げると、ひんやりと染み込む。大学を卒業してからは毎日のようにやってきた作業が、浅野海月を形作ってくれた。それは年齢と共に少しずつ上手に本当の自分を隠してくれるようになったけれど、表に出られない私は、どこで泣けば良かったのだろう。
口紅までしっかり終えて、立ち上がる。鏡に普段と変わらない自分の造られた笑みを確認すると、バッグを手に買い物に出かけた。夜には夫が帰ってくる。灯里もたぶん、帰ってくる。
鳥井から「おはようございます」とメッセージがあったけれど、私は何もしないまま、テーブルの上に荷物を置き、一目散に浴室に駆け込んだ。
捨てるように脱ぎ散らかして、祈るようにコックを捻る。熱いシャワーを期待したけれど、落ちてきたのは肌を引っ張るような冷水だった。それでも構わない。勢い良く頭から被る。とにかく真っ白になりたかった。
スコールのようなそれが、すぐに熱を持ってくる。
――一体、私は何をした。
何があった。
表裏なんて考えずに自分の醜い裸体を隠す為だけに服をまとい、部屋から逃げ出した。入り口を出て振り返ると、知らない、けれど男女の目的を果たす為の施設だと教える派手なネオンが見えた。
金森の、よく鍛えられているけれどやや盛り上がった腹部のなだらかさを思い出して、息が止まる。それはすぐに嗚咽となって胃袋を持ち上げた。
「なんで……」
掠れた自分の声は、まるで別人のようだ。
両手で顔を覆い、しゃがみ込む。立っていることも辛かった。それからおもむろに右の人差し指を、自分の肉付きがよくなってしまった腹部、ふさりとした縮れ毛、その先へと滑らせる。
記憶が、ない。
それを探ろうと指が侵入する。
嘘か、本当か。
確かめることは恐くても、確かめないことは恐怖以上だった。
不快な湿り気はあるけれど、それ以上は分からなかった。
熱が、指の先で膨らむ。
涙が滲んで、でも女の部分も滲んで、どうしようもなく、声を殺してシャワーに濡れた。
化粧もすっかり落としてしまい、眉毛の薄い自分がぼんやりとしたまま、リビングでテレビショッピングを眺めていた。紹介しているのは話題のアンチエイジング効果があるクリームで、全然聞いたことのない商品名だったけれど、限定何名とか、本日限りですとか、笑顔しか見せない女性が語っていた。
どうしてそんなに若返れと言うのだろう。
張りを失った肌も、化粧乗りが悪くなった顔も、ざらついて感じる髪も、立ち上がるのが億劫になった臀部も、ただ同じように人生を過ごしてきただけなのに。その時間を巻き戻せと、彼らは言う。
必要とされるあなたになりなさい。
そんな風に強いられているみたいだ。
唇が寂しくなって、私は立ち上がる。
あまり間食はしない方だったが、冷蔵庫からチョコレートの袋を取り出して、それとジンジャーエールのボトルを持って、食堂のテーブルに就く。リビングでは相変わらず賑やかな声と取ってつけたような笑い声が響いていたが、それくらいで今の私にはちょうど良かった。静寂すぎるのはきっと、自分を傷つけるのに都合が良すぎる。
個包装を破り、サイコロ型のチョコを口に入れる。
糖分が疲れた心に染み渡るけれど、それで少し頭がはっきりしたからか、彼と初めてシタ時のことを思い出した。シタ時、というか、シタ後のことだ。怖がって泣き出した私に、チロルチョコだったと思うけど、食べさせてくれた。
あとになってそのことを尋ねると「小さい頃から泣いてると、母親が食べさせたんだよ」と照れて答えたっけ。テレビの音が、しているのだと思った。
「あ、電話」
私は慌ててリビングまで駆ける。テーブルの上に置いたままのスマートフォンを手に、応答する。
「あの、もしもし。保広さん」
「昨夜は悪かったよ。ちょっと飲みすぎて、そのまま同僚んちに泊めてもらったんだよ。まだ、怒ってる?」
「え、うん、いいのいいの。別に、大丈夫だから」
鼓動が、早くなる。
「ああぁ、そっか。LINEは無視だし、電話にも出ないし、絶対年イチだと思ったよ」
「何よ。私のこと何だと思ってるの」
年イチ。つまり一年に一度くらいは、思い切り不機嫌になることがあった。普段はそんな素振りがないから、初めて体験した時には保広は泣いて謝ったものだ。
「今日は早く帰る。それじゃまだ仕事中だから」
「うん。がんばってね……」
通話が完全に切れたことを確認してから、私は肺の空気を全て吐き出した。自分の中の酸素を入れ替えると、自室に向かう。ドアを開け、化粧台の前に座る。鏡には「化粧をしなくても大丈夫」と夫に言われていた頃の化粧乗りの良い顔は、映っていない。あと一週間で五十までに残された時間はちょうど三年になってしまう。
化粧水を掌に広げると、ひんやりと染み込む。大学を卒業してからは毎日のようにやってきた作業が、浅野海月を形作ってくれた。それは年齢と共に少しずつ上手に本当の自分を隠してくれるようになったけれど、表に出られない私は、どこで泣けば良かったのだろう。
口紅までしっかり終えて、立ち上がる。鏡に普段と変わらない自分の造られた笑みを確認すると、バッグを手に買い物に出かけた。夜には夫が帰ってくる。灯里もたぶん、帰ってくる。
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