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第三章 「ホテルのネオンサイン」
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狭い店内にはテーブル席が三つとカウンターだったが、既に満席だった。
薄暗い雑居ビルの地下に降りていった時は不安が顔を覗かせたものの、金森に続いて店のドアを開けると、片言の日本語でベトナム人の店員が出迎えてくれた。私と金森は入り口すぐのテーブルに座ったが、既に料理の注文は済ませてあるようで、席に就くなり店員がドリンクだけ聞きにやってきた。
「浅野さんはビールですか? 一応ネプモイっていう蒸留酒がお勧めなんですが」
「私は、その……何かソフトドリンクでもあれば」
「お酒は駄目なんですか?」
金森はクリーム色の薄いジャケットの間から黒のタンクトップを覗かせる。表情は穏やかだが、疑問形なのに私にアルコールを促しているように聞こえた。
「それじゃあ最初だけ」
飲めなくはないけれど、最近は夫の保広もあまり晩酌に付き合えと言わないから、少しお酒からは遠ざかっていた。
「じゃあ同じものを」
店員にメニューを指差して伝えると、金森は私に向き直る。それからおしぼりで手を拭う。
私はテーブルの上に置いたスマートフォンの画面に視線を向けたけれど、そこには鳥井祐二からの「おやすみなさい」というメッセージが届いていた。今日の夜は用事がある、と先程送ったその返事だ。
「最近はこういったアジア系のお店を生徒さんたちもよく利用されるんで開拓してみてるんですけど、どうですか。ちょっとした非日常体験って感じが受けてるのかなと思ってるんですが」
「え、ええ」
金森は普段キャンドル教室で見せるような、穏やかで丁寧な印象のまま私に話しかけている。けれどいつ鳥井との昔の関係を持ち出してくるのだろうかと思うと、握り締めたままの自分の手が膝上にじっと浮かんでいる。
「浅野さんは旅行はあまりされないんですかね」
「そんなことは、ないです。昔は家族旅行とかも、それなりに」
「私は家族がいたことがなくて、この歳までずっと独身です。まあ旅行は一人でする方が気楽だとは思うんですけどね……あ、これこれ」
店員が赤いラベルを貼ったボトルとグラスを持ってくる。
「私はロックですけど、浅野さんは水割りにしますね。薄い方がいいでしょう」
手慣れた様子で二つのグラスに氷を入れ、蒸留酒と水を混ぜた方を、私の前に置く。金森自身はそのまま注ぎ込み、まずは一杯とグラスを持ち上げてから、軽く口をつけた。
「若い頃から、これが潤滑油みたいなもんでね……浅野さんも、とりあえず一口やって下さいよ。ね」
「はい……」
緊張気味に解いた右手でグラスを握ると、それを唇まで持ち上げて傾ける。口内に液体が割って入ると、仄かな甘みを伴って飲み込まれた。
「これ、美味しいです」
あまりお酒を飲んでいるという感じではない。もう一口飲んでみる。保広には少し甘みが強いだろうが、私はこのくらいが丁度良い、というか寧ろ好きな類だ。
「少し、肩の力が抜けましたか?」
「え、いえ、その……」
金森が笑う。
「いいんですよ。私だってちょっと強引だったとは思ってます。けどね、こうでもしないと二人きりで食事なんてしてくれないでしょう?」
確かにそうかも知れない。そもそも小さい頃から、私はいつも誰かと一緒に行動していた。買い物くらいは一人で行くけれど、男性と二人きりで出かけたなんて経験は、保広だけだ。その彼も、二人きりになるのに苦労したよ、と結婚後に打ち明けていた。
「教室の生徒さんにね、色々誘われたりもするんですよ。言葉は悪いですけど、流石にそういうので手をつけるというのも憚られまして。特に女性が多く集まると怖いですからね。浅野さんも噂話とか、そういうのには敏感な方ですか?」
「私は……どちらかというと後になって聞いて、え? そうだったの? って言う方で」
「でしょうね」
彼が朗らかな笑い声を上げたところに、店員が料理を運んでくる。炒めものと、それに麺料理の丼だ。あと葉っぱが敷かれた上にジャガイモだろうか、細長く切られたものとゴマに炒めた肉を混ぜたようなサラダが置かれる。その脇には中の野菜が透けて見える生春巻きが並んだ。
「ここのフォーが絶品なんですよ。出汁もいいし、ちょいとピリ辛なんですが、それがまたこのネプモイに合う」
生春巻きを小皿に取り、彼は一口でそれを頬張る。私もサラダのようなそれを少し食べてみた。大根だろうか。シャキリとした歯ざわりに、塩味の強い肉の香ばしさが広がる。
「それ、パパイヤですよ。向こうでは熟れてない青いのをサラダで食べたりするんです」
「そうなんですね」
前に友理恵にタイ料理の店に連れて行ってもらった時にも、そう教わったことを思い出す。
「あそこで店を始める前は、あちこち旅行して回ってましてね。特にタイ、ベトナム、ラオス……近いけれど日本とは全然異なる文化圏を巡るのは、いい刺激になりました」
「私は殆ど海外って行ったことがなくて。夫との旅行も結局沖縄まででした」
「昔と違って今は直通便も増えて、かなり近くなりましたよ。気軽に行って帰ってこられる、そんな非日常がある」
いつの間にか私のグラスは空になり、それを金森が受取り、新しい水割りを作ってくれた。
最初の頃に感じた緊張はすっかり消え、彼の旅行話や本場でアロマキャンドルを勉強した時の失敗談なんかに、気がつけば私は笑顔を浮かべていた。
楽しい、と素直に感じてしまっていた。
その時間がいつまで続いたのか、私は覚えていなかった――。
「おはよう、海月さん」
気づくと私は知らない部屋で、知らないベッドで、半裸の金森を見上げていた。
毛布でくるまれた私も、彼と同じように服を着ていなかった。
「昨夜は、お互いに少し飲みすぎたようですね」
私は何も言えないまま、にこやかにカーテンを開けて窓の外を見やった彼の背に視線を向ける。その向こう側には東京のビル群が映り込んでいた。
薄暗い雑居ビルの地下に降りていった時は不安が顔を覗かせたものの、金森に続いて店のドアを開けると、片言の日本語でベトナム人の店員が出迎えてくれた。私と金森は入り口すぐのテーブルに座ったが、既に料理の注文は済ませてあるようで、席に就くなり店員がドリンクだけ聞きにやってきた。
「浅野さんはビールですか? 一応ネプモイっていう蒸留酒がお勧めなんですが」
「私は、その……何かソフトドリンクでもあれば」
「お酒は駄目なんですか?」
金森はクリーム色の薄いジャケットの間から黒のタンクトップを覗かせる。表情は穏やかだが、疑問形なのに私にアルコールを促しているように聞こえた。
「それじゃあ最初だけ」
飲めなくはないけれど、最近は夫の保広もあまり晩酌に付き合えと言わないから、少しお酒からは遠ざかっていた。
「じゃあ同じものを」
店員にメニューを指差して伝えると、金森は私に向き直る。それからおしぼりで手を拭う。
私はテーブルの上に置いたスマートフォンの画面に視線を向けたけれど、そこには鳥井祐二からの「おやすみなさい」というメッセージが届いていた。今日の夜は用事がある、と先程送ったその返事だ。
「最近はこういったアジア系のお店を生徒さんたちもよく利用されるんで開拓してみてるんですけど、どうですか。ちょっとした非日常体験って感じが受けてるのかなと思ってるんですが」
「え、ええ」
金森は普段キャンドル教室で見せるような、穏やかで丁寧な印象のまま私に話しかけている。けれどいつ鳥井との昔の関係を持ち出してくるのだろうかと思うと、握り締めたままの自分の手が膝上にじっと浮かんでいる。
「浅野さんは旅行はあまりされないんですかね」
「そんなことは、ないです。昔は家族旅行とかも、それなりに」
「私は家族がいたことがなくて、この歳までずっと独身です。まあ旅行は一人でする方が気楽だとは思うんですけどね……あ、これこれ」
店員が赤いラベルを貼ったボトルとグラスを持ってくる。
「私はロックですけど、浅野さんは水割りにしますね。薄い方がいいでしょう」
手慣れた様子で二つのグラスに氷を入れ、蒸留酒と水を混ぜた方を、私の前に置く。金森自身はそのまま注ぎ込み、まずは一杯とグラスを持ち上げてから、軽く口をつけた。
「若い頃から、これが潤滑油みたいなもんでね……浅野さんも、とりあえず一口やって下さいよ。ね」
「はい……」
緊張気味に解いた右手でグラスを握ると、それを唇まで持ち上げて傾ける。口内に液体が割って入ると、仄かな甘みを伴って飲み込まれた。
「これ、美味しいです」
あまりお酒を飲んでいるという感じではない。もう一口飲んでみる。保広には少し甘みが強いだろうが、私はこのくらいが丁度良い、というか寧ろ好きな類だ。
「少し、肩の力が抜けましたか?」
「え、いえ、その……」
金森が笑う。
「いいんですよ。私だってちょっと強引だったとは思ってます。けどね、こうでもしないと二人きりで食事なんてしてくれないでしょう?」
確かにそうかも知れない。そもそも小さい頃から、私はいつも誰かと一緒に行動していた。買い物くらいは一人で行くけれど、男性と二人きりで出かけたなんて経験は、保広だけだ。その彼も、二人きりになるのに苦労したよ、と結婚後に打ち明けていた。
「教室の生徒さんにね、色々誘われたりもするんですよ。言葉は悪いですけど、流石にそういうので手をつけるというのも憚られまして。特に女性が多く集まると怖いですからね。浅野さんも噂話とか、そういうのには敏感な方ですか?」
「私は……どちらかというと後になって聞いて、え? そうだったの? って言う方で」
「でしょうね」
彼が朗らかな笑い声を上げたところに、店員が料理を運んでくる。炒めものと、それに麺料理の丼だ。あと葉っぱが敷かれた上にジャガイモだろうか、細長く切られたものとゴマに炒めた肉を混ぜたようなサラダが置かれる。その脇には中の野菜が透けて見える生春巻きが並んだ。
「ここのフォーが絶品なんですよ。出汁もいいし、ちょいとピリ辛なんですが、それがまたこのネプモイに合う」
生春巻きを小皿に取り、彼は一口でそれを頬張る。私もサラダのようなそれを少し食べてみた。大根だろうか。シャキリとした歯ざわりに、塩味の強い肉の香ばしさが広がる。
「それ、パパイヤですよ。向こうでは熟れてない青いのをサラダで食べたりするんです」
「そうなんですね」
前に友理恵にタイ料理の店に連れて行ってもらった時にも、そう教わったことを思い出す。
「あそこで店を始める前は、あちこち旅行して回ってましてね。特にタイ、ベトナム、ラオス……近いけれど日本とは全然異なる文化圏を巡るのは、いい刺激になりました」
「私は殆ど海外って行ったことがなくて。夫との旅行も結局沖縄まででした」
「昔と違って今は直通便も増えて、かなり近くなりましたよ。気軽に行って帰ってこられる、そんな非日常がある」
いつの間にか私のグラスは空になり、それを金森が受取り、新しい水割りを作ってくれた。
最初の頃に感じた緊張はすっかり消え、彼の旅行話や本場でアロマキャンドルを勉強した時の失敗談なんかに、気がつけば私は笑顔を浮かべていた。
楽しい、と素直に感じてしまっていた。
その時間がいつまで続いたのか、私は覚えていなかった――。
「おはよう、海月さん」
気づくと私は知らない部屋で、知らないベッドで、半裸の金森を見上げていた。
毛布でくるまれた私も、彼と同じように服を着ていなかった。
「昨夜は、お互いに少し飲みすぎたようですね」
私は何も言えないまま、にこやかにカーテンを開けて窓の外を見やった彼の背に視線を向ける。その向こう側には東京のビル群が映り込んでいた。
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