上 下
8 / 80
第二章 「冷たいLED」

2

しおりを挟む
 都村さんたち四人と一緒に入ったのは、パンケーキで有名らしいお店だった。木目調の床にオフホワイトの壁や天井が落ち着いた雰囲気で、私たちは二人掛けの席を三つ使って横並びに座った。

「浅野さんて、他にも何か習われてるの?」


 私の目の前には、粉砂糖をたっぷり振り掛けたパンケーキと黒と赤のベリーが添えられたプレートに嬉々としてナイフを入れる、小ぶりなオレンジ色のフレームの眼鏡が似合う都村さんが座っていた。その小さな口に次々と分厚い切れ端が吸い込まれるのを見ながら、私は自分の頼んだフレンチトーストのひと切れを相槌あいづちをしつつ口に運ぶ。
 彼女の友達もそれぞれにボリュームのある注文をしていたが、そんなに食べて夕飯は大丈夫なのだろうかと、他人事ながら不安になった。

「いつも友達の榊さんに誘われるままなんで、継続して何かを習うということはあまりないですね」

 特別な趣味なんて、何も持っていなかった。それこそ思い入れがあるものって、子供の頃に近所の友達が行くからとせがんで習わせてもらったバレエくらいだろう。それですら、高校に上がる前には練習についていけなくて辞めてしまったのだから。

「わたしたちはいつも奥野おくのさん、中江かなえさん、能勢のせさんの四人で少人数の文化教室を回っているの。この歳になるとそろそろ老後とかって考え始めるじゃない? そしたら趣味の一つでも見つけておいた方がいいんじゃないかしらってことで、集まったの」
「それに意外と先生たちって素敵な人多いじゃない?」

 大きな真珠のイヤリングをした奥野という女性が、脂でてかった口元を隠しながら笑った。

「そういえば浅野さん。鳥井君のこと、好きでしょ?」
「え、何ですか、突然」

 私は目線を下に向けて、必死に教室での自分の行動を振り返る。

「もう中江さんたら、すぐそういう話にしたがる。鳥井さんって、ほら、みんなに優しくしてくれるじゃない? ああいう若い子がいたら、誰だって。ねえ?」

 白髪混じりの能勢が、微笑を向ける。紺のロング丈のワンピースをゆるっと着ていてシンプルなネックレスが唯一の装飾品だったけれど、都村さんたちとは違う上品さがあった。

「そうですね」

 誰にも優しくしているというより、生徒たちの声が彼をそうさせているのだと思ったけれど、愛想笑いで誤魔化しておいた。

「でもいざ付き合うってことを考えると、ああいう誰にでも優しそうなタイプより、金森さんみたいなぐいぐいきてくれそうな、ちょっと頼れるオレ様系がいいかなって思わない?」
「中江さんこの前も言ってらしたわね。ひょっとして金森さんのこと相当お気に入りになった?」
「お気にじゃないけど、ほら、うちの亭主のだらしない腹思い出したら。ねえ」
「うちの、は愚痴しか出てこないから禁句にしたでしょうが。そういえば浅野さんもご結婚されてるんでしょ?」
「え、はい。娘もいて、もうこの春から社会人になりました」

 この手のお決まりの会話をぽんぽんとやり取りができる友理恵ゆりえうらやましい。

「それじゃあますますお暇になったでしょう。復職とか、何か考えられてるの?」
「大学を出てすぐに結婚してしまったので、働くと言ってもなかなか難しいかなって思って」

 あらまあ、から都村たち四人は「学生結婚なんて羨ましいわ」と自分たちの青春時代の初恋だったり、告白した、された、という色恋話に花を咲かせる。けれど卒業した時に既にお腹に灯里ともりがいることが分かったから仕方なく、というのが実情で、あそこに情熱や愛情がそこまであったのかどうか、正直よく分からないままだった。

「……それで、浅野さんはやっぱり鳥井君?」
「え?」
「金森さんと鳥井君だったら、どっちと浮気したいかって話よ」

 次のプレートの注文を終えた中江が口の端の金歯を見せて尋ねる。

「浮気は、そういうのはちょっと私は……」
「浅野さんって、初心なのね」

 都村は手をひらひらさせて笑い、能勢を見れば苦笑していた。おそらくいつもこんな調子なのだろう。


 夕飯の買い物を終えてマンションに帰ってくると、夫の保広やすひろからLINEで「今日はちゃんと帰るぞ」とわざわざ連絡があった。仕事で良いことでもあったのだろう。遅くならないで、と返しておいて、洗濯物を畳みに向かった。
 取り込んだ洗濯物の山をリビングに持ち込んで、その前に足を折りたたんで座り込む。保広のパジャマから仕舞っていく。毎日ではないけれどよく汗をかくタイプで、頻繁ひんぱんに洗わないとあれこれとうるさい。ワイシャツはアイロンを当てる用に分けて、次のものに手を伸ばすと、灯里の下着だった。いつ自分で洗うと言い出すかと思っていたけれど、遅い反抗期がやってきても結局私が洗い続けている。

 テレビでは以前やっていたドラマの再放送をしていた。まだ幼さの残る、それでも既に結婚し子供も生まれた女優が、不倫妻役を演じている。以前友理恵に付き合って途中まで見て、結局最終回は見ず仕舞いだった作品だ。
 キスをしたり、互いの肉体を求め合ったり、そういったことは全然なかったけれど、十年前の携帯電話のメールだけの付き合いだった「祐二」とのことを浮気と呼ぶのなら、私は過去にその一度限り、浮気をした。夫も娘も、裏切った。
 そのことに気づいてしまって携帯電話を破壊したけれど、それでも当時のあの気持ち、高揚感こうようかん、不意に思い出す切なさ、そういったものに完全に蓋は出来ないままでいる。

「鳥井、祐二……」

 口に出すと、唇の上がかすかに震えた。指でなぞると、滲み出た唾液が中指を濡らした。
 時計を見て、私は立ち上がる。もう準備をしないと、夫が帰ってくる。主婦の時間が、また始まる。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

💚催眠ハーレムとの日常 - マインドコントロールされた女性たちとの日常生活

XD
恋愛
誰からも拒絶される内気で不細工な少年エドクは、人の心を操り、催眠術と精神支配下に置く不思議な能力を手に入れる。彼はこの力を使って、夢の中でずっと欲しかったもの、彼がずっと愛してきた美しい女性たちのHAREMを作り上げる。

今日の授業は保健体育

にのみや朱乃
恋愛
(性的描写あり) 僕は家庭教師として、高校三年生のユキの家に行った。 その日はちょうどユキ以外には誰もいなかった。 ユキは勉強したくない、科目を変えようと言う。ユキが提案した科目とは。

淫らな蜜に狂わされ

歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。 全体的に性的表現・性行為あり。 他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。 全3話完結済みです。

〈社会人百合〉アキとハル

みなはらつかさ
恋愛
 女の子拾いました――。  ある朝起きたら、隣にネイキッドな女の子が寝ていた!?  主人公・紅(くれない)アキは、どういったことかと問いただすと、酔っ払った勢いで、彼女・葵(あおい)ハルと一夜をともにしたらしい。  しかも、ハルは失踪中の大企業令嬢で……? 絵:Novel AI

処理中です...