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第二章 「冷たいLED」
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都村さんたち四人と一緒に入ったのは、パンケーキで有名らしいお店だった。木目調の床にオフホワイトの壁や天井が落ち着いた雰囲気で、私たちは二人掛けの席を三つ使って横並びに座った。
「浅野さんて、他にも何か習われてるの?」
私の目の前には、粉砂糖をたっぷり振り掛けたパンケーキと黒と赤のベリーが添えられたプレートに嬉々としてナイフを入れる、小ぶりなオレンジ色のフレームの眼鏡が似合う都村さんが座っていた。その小さな口に次々と分厚い切れ端が吸い込まれるのを見ながら、私は自分の頼んだフレンチトーストのひと切れを相槌をしつつ口に運ぶ。
彼女の友達もそれぞれにボリュームのある注文をしていたが、そんなに食べて夕飯は大丈夫なのだろうかと、他人事ながら不安になった。
「いつも友達の榊さんに誘われるままなんで、継続して何かを習うということはあまりないですね」
特別な趣味なんて、何も持っていなかった。それこそ思い入れがあるものって、子供の頃に近所の友達が行くからとせがんで習わせてもらったバレエくらいだろう。それですら、高校に上がる前には練習についていけなくて辞めてしまったのだから。
「わたしたちはいつも奥野さん、中江さん、能勢さんの四人で少人数の文化教室を回っているの。この歳になるとそろそろ老後とかって考え始めるじゃない? そしたら趣味の一つでも見つけておいた方がいいんじゃないかしらってことで、集まったの」
「それに意外と先生たちって素敵な人多いじゃない?」
大きな真珠のイヤリングをした奥野という女性が、脂でてかった口元を隠しながら笑った。
「そういえば浅野さん。鳥井君のこと、好きでしょ?」
「え、何ですか、突然」
私は目線を下に向けて、必死に教室での自分の行動を振り返る。
「もう中江さんたら、すぐそういう話にしたがる。鳥井さんって、ほら、みんなに優しくしてくれるじゃない? ああいう若い子がいたら、誰だって。ねえ?」
白髪混じりの能勢が、微笑を向ける。紺のロング丈のワンピースをゆるっと着ていてシンプルなネックレスが唯一の装飾品だったけれど、都村さんたちとは違う上品さがあった。
「そうですね」
誰にも優しくしているというより、生徒たちの声が彼をそうさせているのだと思ったけれど、愛想笑いで誤魔化しておいた。
「でもいざ付き合うってことを考えると、ああいう誰にでも優しそうなタイプより、金森さんみたいなぐいぐいきてくれそうな、ちょっと頼れるオレ様系がいいかなって思わない?」
「中江さんこの前も言ってらしたわね。ひょっとして金森さんのこと相当お気に入りになった?」
「お気にじゃないけど、ほら、うちの亭主のだらしない腹思い出したら。ねえ」
「うちの、は愚痴しか出てこないから禁句にしたでしょうが。そういえば浅野さんもご結婚されてるんでしょ?」
「え、はい。娘もいて、もうこの春から社会人になりました」
この手のお決まりの会話をぽんぽんとやり取りができる友理恵が羨ましい。
「それじゃあますますお暇になったでしょう。復職とか、何か考えられてるの?」
「大学を出てすぐに結婚してしまったので、働くと言ってもなかなか難しいかなって思って」
あらまあ、から都村たち四人は「学生結婚なんて羨ましいわ」と自分たちの青春時代の初恋だったり、告白した、された、という色恋話に花を咲かせる。けれど卒業した時に既にお腹に灯里がいることが分かったから仕方なく、というのが実情で、あそこに情熱や愛情がそこまであったのかどうか、正直よく分からないままだった。
「……それで、浅野さんはやっぱり鳥井君?」
「え?」
「金森さんと鳥井君だったら、どっちと浮気したいかって話よ」
次のプレートの注文を終えた中江が口の端の金歯を見せて尋ねる。
「浮気は、そういうのはちょっと私は……」
「浅野さんって、初心なのね」
都村は手をひらひらさせて笑い、能勢を見れば苦笑していた。おそらくいつもこんな調子なのだろう。
夕飯の買い物を終えてマンションに帰ってくると、夫の保広からLINEで「今日はちゃんと帰るぞ」とわざわざ連絡があった。仕事で良いことでもあったのだろう。遅くならないで、と返しておいて、洗濯物を畳みに向かった。
取り込んだ洗濯物の山をリビングに持ち込んで、その前に足を折りたたんで座り込む。保広のパジャマから仕舞っていく。毎日ではないけれどよく汗をかくタイプで、頻繁に洗わないとあれこれと煩い。ワイシャツはアイロンを当てる用に分けて、次のものに手を伸ばすと、灯里の下着だった。いつ自分で洗うと言い出すかと思っていたけれど、遅い反抗期がやってきても結局私が洗い続けている。
テレビでは以前やっていたドラマの再放送をしていた。まだ幼さの残る、それでも既に結婚し子供も生まれた女優が、不倫妻役を演じている。以前友理恵に付き合って途中まで見て、結局最終回は見ず仕舞いだった作品だ。
キスをしたり、互いの肉体を求め合ったり、そういったことは全然なかったけれど、十年前の携帯電話のメールだけの付き合いだった「祐二」とのことを浮気と呼ぶのなら、私は過去にその一度限り、浮気をした。夫も娘も、裏切った。
そのことに気づいてしまって携帯電話を破壊したけれど、それでも当時のあの気持ち、高揚感、不意に思い出す切なさ、そういったものに完全に蓋は出来ないままでいる。
「鳥井、祐二……」
口に出すと、唇の上が微かに震えた。指でなぞると、滲み出た唾液が中指を濡らした。
時計を見て、私は立ち上がる。もう準備をしないと、夫が帰ってくる。主婦の時間が、また始まる。
「浅野さんて、他にも何か習われてるの?」
私の目の前には、粉砂糖をたっぷり振り掛けたパンケーキと黒と赤のベリーが添えられたプレートに嬉々としてナイフを入れる、小ぶりなオレンジ色のフレームの眼鏡が似合う都村さんが座っていた。その小さな口に次々と分厚い切れ端が吸い込まれるのを見ながら、私は自分の頼んだフレンチトーストのひと切れを相槌をしつつ口に運ぶ。
彼女の友達もそれぞれにボリュームのある注文をしていたが、そんなに食べて夕飯は大丈夫なのだろうかと、他人事ながら不安になった。
「いつも友達の榊さんに誘われるままなんで、継続して何かを習うということはあまりないですね」
特別な趣味なんて、何も持っていなかった。それこそ思い入れがあるものって、子供の頃に近所の友達が行くからとせがんで習わせてもらったバレエくらいだろう。それですら、高校に上がる前には練習についていけなくて辞めてしまったのだから。
「わたしたちはいつも奥野さん、中江さん、能勢さんの四人で少人数の文化教室を回っているの。この歳になるとそろそろ老後とかって考え始めるじゃない? そしたら趣味の一つでも見つけておいた方がいいんじゃないかしらってことで、集まったの」
「それに意外と先生たちって素敵な人多いじゃない?」
大きな真珠のイヤリングをした奥野という女性が、脂でてかった口元を隠しながら笑った。
「そういえば浅野さん。鳥井君のこと、好きでしょ?」
「え、何ですか、突然」
私は目線を下に向けて、必死に教室での自分の行動を振り返る。
「もう中江さんたら、すぐそういう話にしたがる。鳥井さんって、ほら、みんなに優しくしてくれるじゃない? ああいう若い子がいたら、誰だって。ねえ?」
白髪混じりの能勢が、微笑を向ける。紺のロング丈のワンピースをゆるっと着ていてシンプルなネックレスが唯一の装飾品だったけれど、都村さんたちとは違う上品さがあった。
「そうですね」
誰にも優しくしているというより、生徒たちの声が彼をそうさせているのだと思ったけれど、愛想笑いで誤魔化しておいた。
「でもいざ付き合うってことを考えると、ああいう誰にでも優しそうなタイプより、金森さんみたいなぐいぐいきてくれそうな、ちょっと頼れるオレ様系がいいかなって思わない?」
「中江さんこの前も言ってらしたわね。ひょっとして金森さんのこと相当お気に入りになった?」
「お気にじゃないけど、ほら、うちの亭主のだらしない腹思い出したら。ねえ」
「うちの、は愚痴しか出てこないから禁句にしたでしょうが。そういえば浅野さんもご結婚されてるんでしょ?」
「え、はい。娘もいて、もうこの春から社会人になりました」
この手のお決まりの会話をぽんぽんとやり取りができる友理恵が羨ましい。
「それじゃあますますお暇になったでしょう。復職とか、何か考えられてるの?」
「大学を出てすぐに結婚してしまったので、働くと言ってもなかなか難しいかなって思って」
あらまあ、から都村たち四人は「学生結婚なんて羨ましいわ」と自分たちの青春時代の初恋だったり、告白した、された、という色恋話に花を咲かせる。けれど卒業した時に既にお腹に灯里がいることが分かったから仕方なく、というのが実情で、あそこに情熱や愛情がそこまであったのかどうか、正直よく分からないままだった。
「……それで、浅野さんはやっぱり鳥井君?」
「え?」
「金森さんと鳥井君だったら、どっちと浮気したいかって話よ」
次のプレートの注文を終えた中江が口の端の金歯を見せて尋ねる。
「浮気は、そういうのはちょっと私は……」
「浅野さんって、初心なのね」
都村は手をひらひらさせて笑い、能勢を見れば苦笑していた。おそらくいつもこんな調子なのだろう。
夕飯の買い物を終えてマンションに帰ってくると、夫の保広からLINEで「今日はちゃんと帰るぞ」とわざわざ連絡があった。仕事で良いことでもあったのだろう。遅くならないで、と返しておいて、洗濯物を畳みに向かった。
取り込んだ洗濯物の山をリビングに持ち込んで、その前に足を折りたたんで座り込む。保広のパジャマから仕舞っていく。毎日ではないけれどよく汗をかくタイプで、頻繁に洗わないとあれこれと煩い。ワイシャツはアイロンを当てる用に分けて、次のものに手を伸ばすと、灯里の下着だった。いつ自分で洗うと言い出すかと思っていたけれど、遅い反抗期がやってきても結局私が洗い続けている。
テレビでは以前やっていたドラマの再放送をしていた。まだ幼さの残る、それでも既に結婚し子供も生まれた女優が、不倫妻役を演じている。以前友理恵に付き合って途中まで見て、結局最終回は見ず仕舞いだった作品だ。
キスをしたり、互いの肉体を求め合ったり、そういったことは全然なかったけれど、十年前の携帯電話のメールだけの付き合いだった「祐二」とのことを浮気と呼ぶのなら、私は過去にその一度限り、浮気をした。夫も娘も、裏切った。
そのことに気づいてしまって携帯電話を破壊したけれど、それでも当時のあの気持ち、高揚感、不意に思い出す切なさ、そういったものに完全に蓋は出来ないままでいる。
「鳥井、祐二……」
口に出すと、唇の上が微かに震えた。指でなぞると、滲み出た唾液が中指を濡らした。
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