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第二章 「冷たいLED」

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 肘までの袖の淡いグリーンのボタンシャツに温度調節用の薄いカーディガンを掛けていたけれど、小雨の中を「ドロシーズ」に向かう最中には、少し暑いかなと思い始めていた。
 早ければ明日にも関東地方は梅雨明けするんじゃないかと言われていたが、夏があまり得意ではない私にとっては厳しい季節の到来はできるだけ遠ざけたい。

「あ、すみません」
「いえ、大丈夫ですよ」

 店のスタッフである鳥井祐二とりいゆうじがいつものデニムのエプロン姿で慌ただしく行き来する中、私の肘に触れたことを謝った。すぐに笑顔を返したが、オーナーの金森に小言を言われるのが恐いのか、目も合わせずに隣の店舗の方に行ってしまった。
 キャンドル教室はもう四度目になるが、生憎今回は友人の友理恵ゆりえがお休みしていた。彼女が誘ってくれたものだから私も休めば良かったのだけれど、少し、彼のことが気になっていた。

「えー、みなさんの前に今、ずらりとドライフラワーが並べてありますが、これを綺麗に固めたものをボタニカル・キャンドルと言います。今回はこれに挑戦していただきましょう」

 参加者は前回より減って私を入れて七名だったが、金森は黒のタンクトップから伸ばした筋肉質な右腕を見せつけるようにしてホワイトボードに書くと、手鍋やコンロを準備している鳥井を呼んで、二、三の指示をする。

「それではまず、ご自身がどんな花模様のキャンドルを作りたいかイメージして下さい。そのイメージが固まったら、目の前に並んだドライフラワーからお好きなものを選んで、前のボールに取り分けて下さい」

 どれにしようかなと楽しげに他の参加者たちは相談し合ってくすんだ色の時を止めた花を見ていたけれど、今日は友理恵がいないので、私は一人で沢山のものから迷わなければいけない。そんな視線に気づいたのか、

「適当に選んでもそれなりに綺麗になりますよ」

 鳥井がそっと耳打ちをして、私の前にキャンドルに使う芯を置いていってくれた。

「ありがとう」

 小さく口にした言葉は、たぶん彼には届いていない。

「ねえ、これどう思われます?」

 その彼は他の生徒に声を掛けられ、すぐに離れていってしまう。

「ええ、いいと思いますよ。そういう大きな花は目立つんで」
「鳥井君みたいに?」
「いや、俺はあまり目立たない方だったんで」
「またまたぁ。学生時代はモテたんでしょう?」
「そんなことないっすよ」
「今モテてるからいいじゃないの。アタシたちに」

 大きな彼が奥様方に囲まれ、笑顔で対応している。見ればべたべたと腕や背中を触られているが、大変ね、と私は内心で笑った。


 教室が終わると、私以外の生徒は金森と一緒に前の店舗の方に移って、あれこれとアロマキャンドルの説明を受けていた。

「あの」

 片方にばかり花が集まってしまった私の不器用なキャンドルを包装して紙袋に詰めてくれていた鳥井君に、思い切って声を掛ける。

灯里ともりが、色々とお世話になってるみたいで。ごめんなさいね。あの子、結構強引なところあるから」
「いえいえ。そんな。俺の方こそ、この前は突然すみませんでした」

 この前、というのは、娘と一緒に晩御飯を食べにマンションを訪れた時のことだ。

「でも驚いた。女性が苦手って相談されたのに……本当に付き合ってるの?」
「付き合うつもりはなかったんですけど、先輩の紹介でどうしてもって。ただ」
「ん?」
「名前が、気になったから」

 灯里。その名前は彼にとって自分の苦手すら簡単に越えてしまえる魔法の言葉なのだろう。そんな風に思って、私は喉のあたりがすうっと冷えてくる。

「おい鳥井。何してんだ」
「はい、すみません。今行きます」

 彼は部屋に入ってきた金森に呼ばれ、紙袋を私に手渡すと小さく頭を下げて行ってしまった。私は目が会った途端に笑顔に切り替えた金森に、軽く会釈をして店舗の方に退散する。
 既に生徒さんたちは店の前に出て何やら雑談をしていた。

 中央にディスプレイされた山の形に積まれた色とりどりのキャンドルの華やかさに圧倒されるけれど、カウンターの上でちんまりと並ぶウサギやタヌキを模した動物キャンドルも愛らしい。その隣には『燃えないキャンドル』としてLEDランプが紹介されていたが、ロウソクの形をしたスタンドタイプの電灯は炎の部分が明るくなっていた。触れても確かに熱くない。実家の両親にいくつか買って送ろうか、と思ったところで、背後から声を掛けられた。

「浅野さん。このあとみんなでお茶するんだけど、どう?」

 毎回教室で顔を合わせた都村寿子つむらとしこだった。ころころとよく喋る、ぽっちゃりとした上品な方で、初対面の人でもあまり気にせず声を掛けているのは知っていた。

「それじゃあ……」
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