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第一章 「昼下がりの月」

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 右腕に提げた一杯になった買い物袋の重さに耐えながらマンションの三階までエレベータで上がり、何とか玄関の鍵を回してドアを開けた。日が傾きかけたこの時間帯だから、という事情とは無関係に薄暗さがリビングまで続いているのを目にして、自分に「ただいま」という気力もない。

 電気を点け、狭い玄関で靴を脱ぐ。栗色のローヒールを靴棚にしまう時に右足を踏ん張ると、足の甲にかすかなしびれが走った。普段は底のぺたんとしたゴムシューズばかりだから、たまの外出時に低くてもヒールのあるものを履くと、腱がってしまうのだろう。
 スリッパに履き替え、フローリングのリビング・ダイニングまで歩く。食卓に使っている結婚時に購入したテーブルの上に買い物袋を二つ降ろしたが、その下に幾つも傷を見つけて、そろそろ買い替えた方がいいのかしら、と思わないでもない。

 自室に戻り、一旦イヤリングを外してブラウスをトレーナーに着替えると、キッチンの蛇口の水で手を洗った。
 エプロンはどこに掛けたものかと見回すと、食卓の椅子の背にぶら下がっていた。淡い赤と青でチェックになったものだ。娘の灯里ともりが小学生の頃にプレゼントしてくれたものを、何度も洗って使っている。既に端がほつれ放題で、穴が空いたところはアップリケで埋めてある。
 新しい物はいつでも買える。
 そんな時代だから、私は少しでも長く使ってあげたいと、いつも思ってしまう。

 ――そうだ。

 私は今日のキャンドル教室で購入した小さなラベンダーのアロマキャンドルを取り出して、それに火を灯した。テーブルの上に置いて眺めながら夕食を作ろう。
 材料は白菜とえのき茸、椎茸、白滝、ネギ、それに焼き豆腐。後はグラム千円のお肉にした。特別な日ではないけれど、そういうものを家族に提供したくなる時がある。今日はすき焼きだった。

 アロマキャンドルの脇にあった携帯電話がブルブルと音を立てる。エプロンの裾で指を拭い、画面をタッチすると、娘からだった。

> 晩ごはんいらない

 わかった。と返事をして、途中だった材料の仕込みに戻る。これで保広やすひろも帰ってこなければ一人ですき焼きだ。



「ごちそうさまでした」

 結局肉じゃがに内容を変更して、随分ずいぶんと材料費が高くついたものだと溜息を落とす。夫からの連絡はまだなかったが、いつもみたいに飲んでから十二時を越えて帰ってくるのだろう。ひょっとすると朝になって「すまん。昨日は泊まりだった」という連絡が、謝罪のスタンプ付きで送られてくるだけかも知れない。
 家族六人用の食器洗い機に、朝食時の三人分の食器と、夕食時の一人分を入れておく。軽くお湯で濯ぐのだけれど、どうも手洗いをしたい衝動にかられてしまう。たぶん私には食器洗い機は向いていないのだ。それでも夫の営業先の人のお勧め品を断るという選択はなかった。

 自室に戻り、ノートパソコンを起動する。右下の時刻を見て友理恵の付き合いで見ている連続ドラマが始まっていると思ったけれど、テレビの録画機能に任せておいて、私はブラウザを立ち上げた。
 調べたのは「ドロシーズ」という、今日行ったお店だ。鮮やかな炎を灯した色とりどりのキャンドルが広げられた背景に「DOROTHY’S」という文字が入っている。

『あなたの人生に、あなただけの灯火を。
 わたしたちはあなたの目の前を照らすお手伝いをしています。』

 月に二回から四回程度キャンドル教室を開催していることも書かれていて、クリックすると幾つか教室の風景を写したものが掲載されたページが開いた。どれも私や友理恵のような子育てを終えた年代の主婦のようで、ただその四枚目の隅っこにスタッフとして働いていたあの鳥井とりいという青年が写り込んでいた。
 他にも店のオーナーである金森という男性のプロフィールが掲載されていて、イギリスやフィンランドでアロマキャンドルについて勉強したこと等が書かれている。実物の金森はもっと色黒でたくましい感じだったが、写真になると彫りの深い野性味のあるイケメン風に見えた。

 ぼんやり眺めている間に電話が鳴っていたようだ。全然気づかなかった。
 私は慌てて部屋を出て、リビングの電話に出る。

「はい、もしもし、浅野です」
「あ、夜分にすみません。本日ドロシーズのキャンドル教室にいらした浅野様で宜しいでしょうか」

 男性の声だ。金森のものにしてはやや幼い。

「はい、浅野です」
「実はオーナーの金森の方から、本日は材料や器具の準備がされていなかった非礼をおびしたいということでして」
「あ、ええ、別に構いませんよ。ちゃんとロウソクも作れましたし」
「ですが、オーナーも是非直接お詫びしたいと言っておりまして、それでお時間の都合がつく時にご一緒に食事などしたいと」

 驚いた。これはお詫びの形を借りたデートのお誘いだろう。友理恵を気に入ったのだろうか。確かに彼女は同性の私から見ても、年齢の割には可愛らしい女性だった。

「えっと、その、友理恵……あ、榊さんにも聞いてみないとすぐには返事できませんけど」
「はい、それで構いません。もしご都合がお分かりになりましたら、お店に電話して下さい」
「ええ、わかりました」
「それでは、失礼します」
「はい……」

 受話器を置いて、ひとまず友理恵にLINEで確認する。彼女は当然行くと答えると思ったが、五分ほど後に返事があり、

おごられてやりましょうよ。

 サムズアップのスタンプ付きで、喜んでいた。

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