愛しの毒林檎

凪司工房

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 ドワーフたちとの共同生活を始めてから三年の月日が過ぎていた。
 三度目の秋を迎え、落ち葉が小路を隠す中、エレナは山菜採りに出かけた。日が遮られた森の空気は使用人のようになってしまった節くれたエレナの手をかじかませる。それでもここにやってきた当初よりはいくらかマシだと思えるのは、裾が破れたスカートですら気にならなくなってしまったからだろうか。
 足元に小さな白い花びらが落ちている。この辺りでは見かけないものだ。それはどうやら風に飛ばされやってきたもののようで、顔を上げたエレナの目の前を今も二枚、ひらひらと舞ってから彼女が履いているぶかぶかの木靴の縁へと張り付いた。
 一度迷ったら出られなくなる。そうドワーフたちから教わったけれど、少しだけ、とばかりにエレナは花びらが飛んできた方へと分け入った。

 薄っすらともやのかかる中を抜けると奥には沼が広がっていた。周囲は枯れ木ばかりで、目をらしてもにごった水の中に魚の一匹も見つけられない。それでも沼の中央、一本だけ手を天に突き上げるように伸び出した樹が生えており、その一部が白くなっている。花だ。小さな花が片側にだけ付いているのだ。

「あれは……」

 その花の下だった。エレナが拳を握った程度の大きさの実が成っている。靴を脱ぎ、一歩、足を入れてみるが深くはない。大丈夫だ。そう言い聞かせ、樹までゆっくりと歩を進め、その実をもいだ。
 表面が黒く汚れていたけれど、立派な林檎だ。服の裾で擦るとそこだけ綺麗に光る。薔薇ばらのような赤が何とも美味しそうだ。
 けれどその根本には何故か烏の死骸しがいがいくつも横たわっていた。


 テーブルの上にはこんがりと焼き目の付いたアップルパイが三枚、大皿に並べられていた。部屋いっぱいに林檎の酸味混じりの甘い香りが漂い、パイに合わせたアップルティーも黄金色を七つ揃いのカップに満たしている。
 いつもなら口うるさくああでもないこうでもないと講釈を垂れながら唾液混じりの笑い声を上げている彼らが、珍しく静かに席に就いていた。いや、誰もが頭を突っ伏して眠っているのだ。それぞれの取り皿には食べかけた欠片が残っているが彼らがそれに再度口をつけることはないだろう。

「これで、あの人を助けられる」


 その年の猟の解禁日だった。まだ朝靄が漂う中、落ち葉を踏みしめながらエレナはかごを手に、待っていた。
 十歳を過ぎてから毎年欠かさずに出かけていたあの人は、この日を何より楽しみにしている。けれども女性は森に入れてはならないと決してエレナを同行させなかった。森の中に危険なものなど、何もなかったというのに。
 ただ今年も姿を見せるかどうかは、分からない。けれどもエレナはそれを信じた。何故なら彼女には、そうするより他になかったからだ。

 馬の足音に兵士たちの談笑の声が混ざって近づいてくる。その先頭には三年ぶりに目にする彼の姿もあった。
 胸が踊った。
 その鼓動こどうを抑えるようにそっと歩を進め、その狩りの一団の前へと姿を見せる。

「林檎をお一ついかがでしょう?」

 蒼玉のような瞳が真っ直ぐに彼女を見下ろすと、わずかにその眉が持ち上がった。

「お前は……エレナではないのか?」
「いいえ。その名の女はもういません」
「だが」
「今あなた様の目の前におりますのはただの林檎売りでございます。それよりどうでしょう。お一つ買っていただけませんか?」

 籠から一つ林檎を取ると、それを持ち上げて彼の目によく見えるようにした。木れ日を受け、紅玉のようにキラキラと光っている。昨夜から布で一つ一つ丁寧にみがいたものだった。

「そうだな。いただこう」
「王子様、そのようなものを!」

 止めようとした兵士を睨みつけると、彼は馬から降りてその林檎を受け取った。

「美味しそうだ」

 あの頃と変わらない優しい笑みを浮かべ、その涼し気な口元が小さく林檎に齧りつく。シャリ、と小気味よい音とその味に、彼も満足そうだ。
 その笑顔が、ゆっくりと落ちていく。膝から崩れ落ち、彼の体は枯れ葉の毛布に飛び込んだ。

 ――やっと、私のものになった。

 兵士たちは慌ててエレナを捕まえようと馬を降りたが、彼女は逃げ出すこともせず、閉じた唇から漏れ出すような引き笑いをしてその場でたたずんでいた。
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