愛しの毒林檎

凪司工房

文字の大きさ
上 下
1 / 5

しおりを挟む
 兄様がいるからと聞いてエレナは慌てて城の三階のバルコニィに顔を出した。まだ春の穏やかな陽気が差し込み、一瞬眩しさを感じたけれど、ちゃんとそこにはエレナの大切な人が待っていてくれた。

「兄様?」
「美味しそうな林檎りんごだろう? エレナ」

 微笑して、金髪の青年がかじり跡のある林檎を彼女に見せる。

「林檎なんかどうでもいいんです。それよりいつ結婚してくれるんですか? 私は来月でもう十八になります。今年もまだ早いと言われてしまうようならいつになれば良いのでしょう」

 森を眺めていた細身の彼の腕を取り、その左肩に頭を寄せる。何の香りだろう。いつもとは違う淡く酸味のあるこうを感じて今一度エレナは彼の横顔を見やった。
 侍女たちがうらやましがる長く伸びた睫毛まつげと宝石のように蒼い瞳、着ているものはただの綿編みの上下なのに、兵士たちとは違って気品が漂って見える。

「エレナよ。すまないが、ボクには既に決まっている人がいるんだ」
「誰なんです!?」
「名も顔も知らぬ、遠い国の女性だ。どこかの公国の姫らしい。お父様たちがずっと昔に決めた、許嫁だ」
「そんな話、私は聞いていません。どうしてもその約束は守らねばならないのですか?」

 エレナは両親が嫌いだった。いつも自分のことは何も聞いてくれない癖に、自分たちの都合はこうして兄様や彼女に押し付ける。

「遠い、国なのですね」
「ああ」

 遠い、とはすぐに会えない、という意味ではない。もう二度と会うことができないかも知れないということだ。
 兄様の右胸の少し下に一枚、しわになった小さな白い花びらが張り付いていることに気づき、エレナはそれを無言で取って捨てた。

「どうしていつもあの人たちは勝手なことをなさるのでしょう。私が抗議してきます」
「何を言ったところでくつがえらないよ。この国ではお父様たちが法なのだから」

 あきらめたように薄い笑みを作り、視線を遠くの山へと投げる。それは兄の小さい頃からの癖だった。だからエレナはいつか彼にそんな笑顔を強制しない日々をプレゼントしたいと考えていた。


 それから十日ほど経った日の夜だった。合鍵を使って兄の寝室に忍び込んだ。昔からエレナのことをよく知る見張りの兵士には彼の好きな葡萄酒ぶどうしゅを渡しておいた。

 窓から差し込む月明かりがその整った顔をほのかに照らす。小さな唇が呼吸を繰り返していて、夕食の後で食べてと渡したあの林檎が上手く彼を眠らせてくれたと分かった。それは城に物売りに来ていた老婆から半信半疑で買ったものだ。見たことのない汚らしい老婆だったが、こんなことならもっと高く買ってやれば良かったとエレナは思った。

「ねえ兄様。覚えてるかしら。中庭でお母様と三人、森のお話を聞かせてもらっていた頃のことを。あの頃は兄様が私を守ってやると言ってくれるのが当たり前なんだと思っていた。だから私も兄様の一番大切な人であろうとマナーの授業もダンスの練習も欠かさずに取り組んだわ。けれどいつまで経っても兄様との結婚は許してもらえず、あろうことか、知らない、遠い国の女と一緒になるだなんて、そんなことは許さない」

 何も答えない王子の胸元にほおを寄せ、その心音を聞いた。
 小さい頃から怖いことがあると、こうして兄様に抱きついてはこの音に安心を貰った。いつでも好きなだけ自分に笑顔を向けてくれたのに、優しさをくれたのに、何故他の女のものになってしまうのだろう。
 エレナは用意していたナイフを取り出すと、その白くて綺麗なのど元に当てた。
 それは月光を返して静かに輝いている。

「兄様……」

 このままこれを引けば誰もいない二人だけの世界にいけるだろうか。そこなら邪魔されずに二人きりで愛を語り合えるだろうか。

「これが私からの、少し早い誕生日の贈り物です。兄様……」

 ドン、という大きな音と共に部屋の木戸が開けられると、数名の兵士が入ってきてエレナの腕を取り押さえた。

「姫様! 何をされているのですか!」
「私は何もしていません。ただ兄様を自由にしてあげたかっただけです」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません

ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは 私に似た待望の男児だった。 なのに認められず、 不貞の濡れ衣を着せられ、 追い出されてしまった。 実家からも勘当され 息子と2人で生きていくことにした。 * 作り話です * 暇つぶしにどうぞ * 4万文字未満 * 完結保証付き * 少し大人表現あり

愛する貴方の心から消えた私は…

矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。 周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。  …彼は絶対に生きている。 そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。 だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。 「すまない、君を愛せない」 そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。 *設定はゆるいです。

愛のゆくえ【完結】

春の小径
恋愛
私、あなたが好きでした ですが、告白した私にあなたは言いました 「妹にしか思えない」 私は幼馴染みと婚約しました それなのに、あなたはなぜ今になって私にプロポーズするのですか? ☆12時30分より1時間更新 (6月1日0時30分 完結) こう言う話はサクッと完結してから読みたいですよね? ……違う? とりあえず13日後ではなく13時間で完結させてみました。 他社でも公開

【完結】王太子殿下が幼馴染を溺愛するので、あえて応援することにしました。

かとるり
恋愛
王太子のオースティンが愛するのは婚約者のティファニーではなく、幼馴染のリアンだった。 ティファニーは何度も傷つき、一つの結論に達する。 二人が結ばれるよう、あえて応援する、と。

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

だいたい全部、聖女のせい。

荒瀬ヤヒロ
恋愛
「どうして、こんなことに……」 異世界よりやってきた聖女と出会い、王太子は変わってしまった。 いや、王太子の側近の令息達まで、変わってしまったのだ。 すでに彼らには、婚約者である令嬢達の声も届かない。 これはとある王国に降り立った聖女との出会いで見る影もなく変わってしまった男達に苦しめられる少女達の、嘆きの物語。

処理中です...