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第四章 「絶望の砂漠」

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 左の手首に巻いた布は既に血が乾いている。だが彼女の喉が渇けば、ウッドはまだ何度でも己を傷つけるつもりだった。
 どうしてそこまでして彼女を助けたいのかは分からない。ただ、彼女を前にするとウッドは自分でもどうしようもないくらいに、様々な衝動が沸き起こる。それらは冷静に考えれば普段のウッドならまず有り得ない行為ばかりだったが、彼女の存在がその全ての善悪を帳消しにしてしまうくらいに、まぶしいのだ。
 今ではもう、彼女と別々になることなど考えられなかった。少なくとももう一度、彼女の「歌」を耳にするまでは。

 それからもウッドは、度々己の血をネモに与えた。彼女は呼吸こそしていたが、殆ど意識を取り戻すことなく、ずっと眠っているようだった。
 景色は相変わらず砂漠ばかりで、それも平坦な砂地ばかりで、一向に何かが出てきそうな気配は無かった。日が昇っている日中は強烈な日差しの中を歩き、寒風の闇が襲う夜には砂地に穴を掘って、そこに嵌るようにして眠った。既にウッドの皮膚はからからに乾燥し、触れれば音を立ててぱっかりと剥がれ落ちた。
 ネモも眠ったままだから、殆ど一人旅のようなもので、話す相手もいないから、日ごとにウッドの意識は霧の中を歩いているように曖昧あいまい模糊もことし、時々その目に幻影が映り込んだ。
 歩いているのは、旅の者だ。
 頭からすっぽりと被る大きな皮のマントを羽織り、この砂漠を歩いているようだ。
 どこに行く宛てがあるのか分からないままに、ひたすらに歩いているようだ。
 昼も夜もなく、歩を進める。

「何か目的があるのか」

 ウッドは問い掛けていた。幻が返答などしてくれないだろう。

「……ガ在ル」

 砂嵐のような声だった。事実、ただの突風だったのかも知れない。
 それでも明確な目的があるような力強い足取りで、その幻は歩き続けていた。
 ウッドは気づけばその幻の後について、歩いていた。
 その内に周囲の景色まで変容してくる。
 最初の変化は岩だった。
 ごつごつとして大きな岩が一つ、また少し行けば一つと、転がっていた。赤茶げた、割られたように平らな面の、ざらざらとした岩だ。それらの岩の間から、細い糸のような草が伸びている。触れてみれば硬く、更に押してみればよくしなった。

「コレハ、ヨク水分ヲ含ンデイル」

 幻がその草を抜き、二つに割って、そこから垂れてくる液体を喉に入れていた。ウッドも真似てやってみる。僅かに酸味があったが、その数滴が全身に染み渡るようだった。サボテンの一種なのかも知れない。ウッドはネモにもその液体を与え、そこでひと心地つくと、再び歩き始めた。

 気がつけば幻は消えていた。
 砂地に随分ずいぶんと岩場が増え、そのまま行くとやがて、目の前に岩山が現れた。それほど大きくは無い。妙な形の山だった。それこそ誰かの手が入ったかのような、建造物としての雰囲気を感じる。
 ウッドは袋の口を開けて、中のネモの様子をうかがう。何かを感じているのか、少し苦しげな表情で口元を微かに動かす。ウッドも同感だ。確かにここには何かある。
 ここが絶望の砂漠の果てなのだろうか。
 ウッドはフロスという者がどういった事情を抱えてこんな場所を目指したのか知らない。彼がどういった性格の者なのかも分からない。ただ、もし彼がウッドと同じように「歌」によって変化したアルタイ族だとすれば、あの戦闘ばかりの世界から離れたくなる気持は分からなくはなかった。

 ウッドは手を伸ばす。岩山の斜面は張り付くようにして登らなければならないほど急だった。それでもウッドにしてみれば、今までのどこまで続くのか分からない砂漠を歩き続けるよりはずっと、そこを登る気分は楽だった。
 誰かが待っているのかも知れない。
 そんな期待が力に変わったのだろうか。ウッドの腕はしっかりと伸び、岩を掴まえ、ぐいぐいと登っていく。
 十メートルほども、登っただろうか。

「あれ、か」

 それは横穴だった。
 奥が見えない。深いのかも知れない。
 だがウッドは気づいた。入り口の傍に落ちていたものを拾い上げる。これは何だろう。
 燃え滓だった。何かの葉、だろうか。鼻に近づけると仄かに甘い匂いがした。
 それを捨て、ウッドは横穴の奥へと向かう。穴の中に入るとひやりとしていた。
 日光が遮られ、温度が随分と低くなっている。振り返れば入り口の部分だけ随分と明るく感じる。
 穴はずっと真っ直ぐだったが、入り口が小さく見える辺りまで来ると右に折れていた。だがそこも直ぐに行き止まりになる。行き止まりにはなったが、そこには何とかウッドが潜れるほどの大きさの木戸が取り付けてあった。ウッドは向こう側の気配を探ろうと扉に耳を近づける。
 だがそれを待っていたかのようにタイミングよく木戸が動いた。ウッドは完全に裏をかかれ、迫ってくる木戸から飛び退いて逃れることしか出来なかった。

「ここまで来る輩が、こんな時代にもいるとはな」

 それは先ほどウッドが目にした幻だった。いや、それと同じに頭からすっぽりと皮のマントを被っている者だ。ウッドより頭二つ分は背が低いが、それでも彼がアルタイ族の者だということだけは分かった。フードを取るとすっかり白くなった頭髪の下、額に皺の寄った顔が現れた。目玉が大きいのか、よく目立ち、視線が合っただけでじっと凝視されているような気分になる。頬の辺りの肌は乾き切ってポロポロと剥がれてきそうだったが、唇には生気が宿っていた。
 ウッドは小さく息を呑み込んでから、彼に尋ねた。

「あんたが、フロスか」
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