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島崎彩はあれから香美村孝幸の行方を探した。警察や捜索の専門家も雇った。それと同時に彼が戻らなかった時に備えて、全ての財産や権利関係の処分をどうするのか考える必要があったが、それについては専門の弁護士に頼んでいたことが後に判明した。
彼は最初から全てを計画していたのだ。ブライアン山田経由で知ったのは、あの日、石塚扇太郎を連れ出して自分の嘆きの旋律を聞かせることで、その後、何が起こるのか。そこまでを全て知った上で、あのピアノを、あの日だけの為だけに必死に構成をし、練習をし、披露した。
あのマンションの一室は実際に孝幸がピアノを教わり、訓練を受けた場所によく似せてあったというが、今となってはそれを確かめることは不可能だ。その記憶を持つ石塚は死に、孝幸は失踪してしまったからだ。
結局、財産の半分はツアーなどのイベントキャンセル料に当てられ、残りは児童養護施設などに寄付された。当然、彩たち、働いていたスタッフの退職金などもそこに含まれていたが、やっと見つけた自分の人生を通してやりたい仕事だと思っていたものがこんな想定外の形で途絶えてしまうというのは、本当に人生は何が起こるか分からない。
その後、彩は音楽関係者のコネクションを通じて幾つか事務所やマネージャーの仕事を渡り歩いたが、四十台となった今、それらの仕事に一区切りをつけ、小さな旅行を楽しんでいた。あの孝幸が消えたロスの街だ。あれから何度か訪れているが、当然、街中で彼とすれ違ったりはしない。そもそも生きているかどうかも分からない。
ただあれだけの才能だ。マニアからすれば有名人だし、どこかで噂にはなるだろう。それが一切ないのは、生きていない証明といってもいい。
「また来たね。去年の夏以来か」
「嘆きのメロディをちょうだい」
一度、孝幸から飲みに誘われて立ち寄ったジャズバーだった。彼と出会うことはないけれど、願掛けのような気持ちでロスに来た時には通っている。
マスターは彩より二回りほど大きいが、色黒で肉体を鍛えているからか、もっと若そうに見える。
嘆きのメロディというカクテルはジンベースの青一色のカクテルだ。少し彩には刺激が強い。それでも飲むと、感情のない人形のようだと思っていた香美村孝幸にもちゃんと人間らしい反応や受け答えがあったことを思い出す。
――石塚扇太郎を、恨んでいたのかどうか。
それについては未だに考えるが、彩の答えはノーだ。自殺を選んだのは結果論で、彼が本当に望んだものではないと彩は思っている。
けれど結果は出てしまった。不幸な結末を迎えたことを、一体彼はどう思ったのだろう。あの無表情の裏側で、何を考えたのだろう。
それが行方をくらました直接の原因かは分からないものの、何かしらの要因となっているだろう。
最近、涙も出ない。彼の演奏はCDやデジタルデータでは再現できないものだということが、彼の失踪後に判明した。多くのファンの間では共通の認識だったようだが、彩は常に彼の生演奏に触れられるポジションだったので、そこまで思わなかったのだ。しかしあの後、どんなに音質の良い機材で聴いても二度とあのせり上がってくる悲しみと後悔の渦は訪れなかった。
と、小さな拍手が起こる。見ると店の片隅にあるピアノの前に、ニット帽を着た背の曲がった老人が座っていた。彼は徐ろにドレミを奏でると、そこから軽快なジャズナンバーを弾き始めた。
不思議と胸が温かくなるメロディだ。香美村孝幸の演奏とは真逆といっていい、人生の中の小さな喜びの瞬間を思い出す。そういう旋律が流れていた。
「ああ。最近ね、よく来て弾いていくんだ。上手いもんだが、聞いてもよく分からないんだ。英語があまり得意じゃないらしくてね」
彩は立ち上がり、ピアノに寄っていく。
「あの」
演奏の区切りがついたところで、思い切って声を掛けてみた。日本語だ。
「懐かしい言葉だ」
「いいピアノですね」
「ありがとう」
「どこかでやられてたんですか?」
「よく、覚えてなくてね。すみません」
「香美村孝幸という名に、覚えは?」
「さあ」
「わかりました。ありがとうございます。あ、これは、私からのプレゼントです」
彩は手にした嘆きのメロディをピアノの上に置くと、背を向けて店を出ていく。
香美村孝幸はもういない。あんな笑顔でピアノを演奏する人間が、彼のはずがないからだ。(了)
彼は最初から全てを計画していたのだ。ブライアン山田経由で知ったのは、あの日、石塚扇太郎を連れ出して自分の嘆きの旋律を聞かせることで、その後、何が起こるのか。そこまでを全て知った上で、あのピアノを、あの日だけの為だけに必死に構成をし、練習をし、披露した。
あのマンションの一室は実際に孝幸がピアノを教わり、訓練を受けた場所によく似せてあったというが、今となってはそれを確かめることは不可能だ。その記憶を持つ石塚は死に、孝幸は失踪してしまったからだ。
結局、財産の半分はツアーなどのイベントキャンセル料に当てられ、残りは児童養護施設などに寄付された。当然、彩たち、働いていたスタッフの退職金などもそこに含まれていたが、やっと見つけた自分の人生を通してやりたい仕事だと思っていたものがこんな想定外の形で途絶えてしまうというのは、本当に人生は何が起こるか分からない。
その後、彩は音楽関係者のコネクションを通じて幾つか事務所やマネージャーの仕事を渡り歩いたが、四十台となった今、それらの仕事に一区切りをつけ、小さな旅行を楽しんでいた。あの孝幸が消えたロスの街だ。あれから何度か訪れているが、当然、街中で彼とすれ違ったりはしない。そもそも生きているかどうかも分からない。
ただあれだけの才能だ。マニアからすれば有名人だし、どこかで噂にはなるだろう。それが一切ないのは、生きていない証明といってもいい。
「また来たね。去年の夏以来か」
「嘆きのメロディをちょうだい」
一度、孝幸から飲みに誘われて立ち寄ったジャズバーだった。彼と出会うことはないけれど、願掛けのような気持ちでロスに来た時には通っている。
マスターは彩より二回りほど大きいが、色黒で肉体を鍛えているからか、もっと若そうに見える。
嘆きのメロディというカクテルはジンベースの青一色のカクテルだ。少し彩には刺激が強い。それでも飲むと、感情のない人形のようだと思っていた香美村孝幸にもちゃんと人間らしい反応や受け答えがあったことを思い出す。
――石塚扇太郎を、恨んでいたのかどうか。
それについては未だに考えるが、彩の答えはノーだ。自殺を選んだのは結果論で、彼が本当に望んだものではないと彩は思っている。
けれど結果は出てしまった。不幸な結末を迎えたことを、一体彼はどう思ったのだろう。あの無表情の裏側で、何を考えたのだろう。
それが行方をくらました直接の原因かは分からないものの、何かしらの要因となっているだろう。
最近、涙も出ない。彼の演奏はCDやデジタルデータでは再現できないものだということが、彼の失踪後に判明した。多くのファンの間では共通の認識だったようだが、彩は常に彼の生演奏に触れられるポジションだったので、そこまで思わなかったのだ。しかしあの後、どんなに音質の良い機材で聴いても二度とあのせり上がってくる悲しみと後悔の渦は訪れなかった。
と、小さな拍手が起こる。見ると店の片隅にあるピアノの前に、ニット帽を着た背の曲がった老人が座っていた。彼は徐ろにドレミを奏でると、そこから軽快なジャズナンバーを弾き始めた。
不思議と胸が温かくなるメロディだ。香美村孝幸の演奏とは真逆といっていい、人生の中の小さな喜びの瞬間を思い出す。そういう旋律が流れていた。
「ああ。最近ね、よく来て弾いていくんだ。上手いもんだが、聞いてもよく分からないんだ。英語があまり得意じゃないらしくてね」
彩は立ち上がり、ピアノに寄っていく。
「あの」
演奏の区切りがついたところで、思い切って声を掛けてみた。日本語だ。
「懐かしい言葉だ」
「いいピアノですね」
「ありがとう」
「どこかでやられてたんですか?」
「よく、覚えてなくてね。すみません」
「香美村孝幸という名に、覚えは?」
「さあ」
「わかりました。ありがとうございます。あ、これは、私からのプレゼントです」
彩は手にした嘆きのメロディをピアノの上に置くと、背を向けて店を出ていく。
香美村孝幸はもういない。あんな笑顔でピアノを演奏する人間が、彼のはずがないからだ。(了)
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