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石塚扇太郎。六十八歳。重度の認知症で、一日中ほとんど誰とも会話せずにぼんやりとして過ごしていることが多い。身寄りはなく、ホームレスになって暴行されていたところを支援団体に保護され、この月光の園へと入園させられた。
孝幸の指示で探していたこの男性が、彼とどういった関係性を持つのか、彩は知らない。けれど「どれだけ金がかかってもいい」と言うほどだから、彼の人生にとって重要な人物であることは間違いない。
山梨県の山間部にあるこの月光の園まではローカル線の無人駅に二時間毎にやってくる定期バスを利用しても一時間以上掛かる、と書かれていた。彩はレンタカーを手配し、自分が運転をしてうねうねと蛇行する生き物のような山道を結局二時間三十八分かけて目的地へと到着した。前日に苦手なアルコールを大量に摂取した香美村孝幸は後部座席で一度も目を覚まさないままで、車のエンジン音が消えた瞬間に「着いたか」と声を漏らした。
「連絡はしてありますが、施設のスタッフからは会っても誰か分かってもらえないから、その覚悟をもって来て下さいと何度も言われました。どうやらここはそういう人間ばかりが入っている施設なようです」
「別に構わない。分かっていなくても、人間の心に一度刻まれたものは忘れないから」
時折、孝幸は背筋がゾクリとするようなことをさらっと口にする。本人に自覚はないし、別に特別なことを言ったつもりもないだろう。けれど彩にとってその瞬間は何か神のような存在に試されているのではないかと錯覚する。
口調はいつもと変わらないものの、まだ足元が覚束ない孝幸を残し、彩は先に施設の受付へと向かう。二人分の面会手続きを済ませ、スタッフに場所や簡単なルールを聞いた。
建物は一階が事務室や資材置き場、スタッフルームにキッチンスペースなどで構成され、二階へはエレベータで上がらないといけない。スタッフ用の階段があるのだろうがそれは隠されているようだった。
スリッパに履き替えて二階に上がる。孝幸はいつもに比べるとややテンションが高いように見えた。ただ彼の場合、ほとんどその表情が変わらない。最初に見た時にはこの人物には感情というものが備わっているのだろうかと感じたほどだ。それくらい、立っているだけだと人形っぽさがある。
事務室の前を通りかかった時も白髪混じりの事務員の女性が怪訝な顔をして孝幸のことを見ていた。
エレベータを出たところがソファなどが置かれたロビィになっていて、にこやかにペールグリーンの制服姿のスタッフが出迎えてくれた。
「お聞きしております。石塚様のお知り合いですね」
「ええ」
知り合い、という以上のことを「のむら」と平仮名の名札を付けた男性は尋ねない。おそらくここにはワケアリの入居者が多いということだろう。笑顔で対応してくれてはいるが、そこには見えないガラスの壁を間にしているような、そういう違和感が存在していた。
「石塚様は一般の方が立入禁止の三階の個室にいらっしゃるので、二階のレクリエーションルームでお待ちいただけますか。ここを出てすぐの広いエリアです」
「わかりました。お願いします」
野村というスタッフが呼びに行くのかと思ったら、彼は受付の内線電話を取り、それで別のスタッフに連れてくるよう連絡した。確かにここを一人で受け持っている彼が空けてしまったら来客の対応に困るだろう。何よりここから出ていこうとする入所者を止める人間がいなくなる。
ロビィから通路に出るには鍵の掛かったドアを通る必要があった。通路側に出る時には手動でロックを解除し、それが自動で閉じる。逆にロビィに戻る時には通路側に設置されたインターフォンを使って開けてもらうようだ。
ロビィから通路を挟み、壁などの仕切りが全くない三十メートルほどの大きな空間があった。テーブルと椅子、ソファにテレビがいくつかと、他にも遊具やゲーム機と思われるものが置かれている。ここがレクリエーションルームなのだろう。実際、入所者らしき私服の老人たちのグループがいくつかテーブルを占拠していた。そうかと思えば目の前を半裸の男性が駆け抜けていく。奇声を放っているが目は生きている人間のそれだ。その男性を百八十はありそうな屈強な男性スタッフが追いかけていき、壁際に寄せると「戻りましょうか」とその体躯に似つかわしくない優しい声を出した。その男性は反論なのか、何か口走るのだがどれもよく聞き取れない上、甲高い。それでもスタッフの彼は「まだ食事の時間ではないですから」と丁寧に言い聞かせようとしている。
彩がその光景に目を取られている間に、孝幸はテーブルの間を抜け、部屋の奥へと向かっていた。そこには一台のオルガンがある。ピアノではなく、ただのオルガンだ。
彼はその蓋を開けると二、三音を鳴らす。空間に響いたそれは歪んでいた。長く使っていないのか、調律がなっていない。絶対音感なんてものを持たない彩ですらそれが分かるのだから、相当なものだろう。
孝幸も同様の感想を持ったらしく、すぐに蓋を閉め、興味を失って離れてしまった。
それからも孝幸は所在なく部屋を歩き回り、落ち着きのない様子でテーブルに置かれたハンドグリップや木彫りの木馬に触れたり、床に落ちていたゴムボールを拾ってそれを部屋の隅の用具箱に仕舞ったり、普段は見ないような姿を彩の目に映した。
結局三十分以上待たされてから車椅子に乗った小豆色のジャージに抹茶色のニット帽姿の男性が現れた。ちょうどソファに孝幸が腰を下ろして一息ついたところだった。
「お待たせしました。石塚さん。こちら、お知り合いだそうですよ」
石塚さん、と呼んだ男性スタッフの方を見ることなく焦点の合っているのかいないのかよく分からない視線を孝幸に向けると、男はこう言った。
「こんな奴ぁ知らねえな」
孝幸の指示で探していたこの男性が、彼とどういった関係性を持つのか、彩は知らない。けれど「どれだけ金がかかってもいい」と言うほどだから、彼の人生にとって重要な人物であることは間違いない。
山梨県の山間部にあるこの月光の園まではローカル線の無人駅に二時間毎にやってくる定期バスを利用しても一時間以上掛かる、と書かれていた。彩はレンタカーを手配し、自分が運転をしてうねうねと蛇行する生き物のような山道を結局二時間三十八分かけて目的地へと到着した。前日に苦手なアルコールを大量に摂取した香美村孝幸は後部座席で一度も目を覚まさないままで、車のエンジン音が消えた瞬間に「着いたか」と声を漏らした。
「連絡はしてありますが、施設のスタッフからは会っても誰か分かってもらえないから、その覚悟をもって来て下さいと何度も言われました。どうやらここはそういう人間ばかりが入っている施設なようです」
「別に構わない。分かっていなくても、人間の心に一度刻まれたものは忘れないから」
時折、孝幸は背筋がゾクリとするようなことをさらっと口にする。本人に自覚はないし、別に特別なことを言ったつもりもないだろう。けれど彩にとってその瞬間は何か神のような存在に試されているのではないかと錯覚する。
口調はいつもと変わらないものの、まだ足元が覚束ない孝幸を残し、彩は先に施設の受付へと向かう。二人分の面会手続きを済ませ、スタッフに場所や簡単なルールを聞いた。
建物は一階が事務室や資材置き場、スタッフルームにキッチンスペースなどで構成され、二階へはエレベータで上がらないといけない。スタッフ用の階段があるのだろうがそれは隠されているようだった。
スリッパに履き替えて二階に上がる。孝幸はいつもに比べるとややテンションが高いように見えた。ただ彼の場合、ほとんどその表情が変わらない。最初に見た時にはこの人物には感情というものが備わっているのだろうかと感じたほどだ。それくらい、立っているだけだと人形っぽさがある。
事務室の前を通りかかった時も白髪混じりの事務員の女性が怪訝な顔をして孝幸のことを見ていた。
エレベータを出たところがソファなどが置かれたロビィになっていて、にこやかにペールグリーンの制服姿のスタッフが出迎えてくれた。
「お聞きしております。石塚様のお知り合いですね」
「ええ」
知り合い、という以上のことを「のむら」と平仮名の名札を付けた男性は尋ねない。おそらくここにはワケアリの入居者が多いということだろう。笑顔で対応してくれてはいるが、そこには見えないガラスの壁を間にしているような、そういう違和感が存在していた。
「石塚様は一般の方が立入禁止の三階の個室にいらっしゃるので、二階のレクリエーションルームでお待ちいただけますか。ここを出てすぐの広いエリアです」
「わかりました。お願いします」
野村というスタッフが呼びに行くのかと思ったら、彼は受付の内線電話を取り、それで別のスタッフに連れてくるよう連絡した。確かにここを一人で受け持っている彼が空けてしまったら来客の対応に困るだろう。何よりここから出ていこうとする入所者を止める人間がいなくなる。
ロビィから通路に出るには鍵の掛かったドアを通る必要があった。通路側に出る時には手動でロックを解除し、それが自動で閉じる。逆にロビィに戻る時には通路側に設置されたインターフォンを使って開けてもらうようだ。
ロビィから通路を挟み、壁などの仕切りが全くない三十メートルほどの大きな空間があった。テーブルと椅子、ソファにテレビがいくつかと、他にも遊具やゲーム機と思われるものが置かれている。ここがレクリエーションルームなのだろう。実際、入所者らしき私服の老人たちのグループがいくつかテーブルを占拠していた。そうかと思えば目の前を半裸の男性が駆け抜けていく。奇声を放っているが目は生きている人間のそれだ。その男性を百八十はありそうな屈強な男性スタッフが追いかけていき、壁際に寄せると「戻りましょうか」とその体躯に似つかわしくない優しい声を出した。その男性は反論なのか、何か口走るのだがどれもよく聞き取れない上、甲高い。それでもスタッフの彼は「まだ食事の時間ではないですから」と丁寧に言い聞かせようとしている。
彩がその光景に目を取られている間に、孝幸はテーブルの間を抜け、部屋の奥へと向かっていた。そこには一台のオルガンがある。ピアノではなく、ただのオルガンだ。
彼はその蓋を開けると二、三音を鳴らす。空間に響いたそれは歪んでいた。長く使っていないのか、調律がなっていない。絶対音感なんてものを持たない彩ですらそれが分かるのだから、相当なものだろう。
孝幸も同様の感想を持ったらしく、すぐに蓋を閉め、興味を失って離れてしまった。
それからも孝幸は所在なく部屋を歩き回り、落ち着きのない様子でテーブルに置かれたハンドグリップや木彫りの木馬に触れたり、床に落ちていたゴムボールを拾ってそれを部屋の隅の用具箱に仕舞ったり、普段は見ないような姿を彩の目に映した。
結局三十分以上待たされてから車椅子に乗った小豆色のジャージに抹茶色のニット帽姿の男性が現れた。ちょうどソファに孝幸が腰を下ろして一息ついたところだった。
「お待たせしました。石塚さん。こちら、お知り合いだそうですよ」
石塚さん、と呼んだ男性スタッフの方を見ることなく焦点の合っているのかいないのかよく分からない視線を孝幸に向けると、男はこう言った。
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