嘆きのピアニスト

凪司工房

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 ステージの中央だけがスポットを浴びていた。漆黒のグランドピアノが怪しく光り、その体を震わせて国立劇場の大ホール全体に旋律を伝えている。奏者の男性の細く綺麗な指が淀みなく動き、次々と弦を叩くと、不思議な波長が広がるのだ。とても美しい旋律なのに曲名は『激情』と名付けられていた。彼のオリジナル曲だ。オーケストラをバックに控えさせておきながらその殆どがピアノの音のみで構成されている。それなのに力強く、また時に激しく、豪雨のようなピアノの速弾きが紛れ込む。

 誰もがその演奏を息を詰めて聴いていた。いや、聴くというよりは浸る、あるいは体全体に浴びるといった様相で、そのうち、知らず知らず涙を流していることに気づく。一人だけかと思えば自分の周囲の誰もが涙を浮かべ、または流し、ハンカチを取り出してすすり泣く。会場全体が通夜のように湿っぽい空気に包まれ、その悲しみの波は観客だけでなくステージ上の演奏者たちにも伝播していく。

 ヴァイオリン担当の一人の女性は涙で続けられず、楽器を置いた。チェロの男性は弓を握る手が震え、それ以上弾けなくなってしまった。フルートもオーボエも口を離し、ティンパニはバチを置いて腕組みをしてしまった。

 誰もが自分の感情に浸っていた。それも悲しみや後悔という、辛く重く苦しい感情だ。我慢しても次から次に涙が溢れ、終いには嗚咽となって会場に吐露してしまう。

 それでもピアノは終わらない。続いていく。旋律はどこまでも彼らの心を揺さぶり、そして十五分という区切りで糸が切られたようにぷつりとそれは途切れて終わった。

 最初の拍手がされるまでの静寂は実に三百秒にも及び、それは観客からではなく、ずっとステージ袖でこの舞台を見守っていた今回の演奏会のプロデューサーである秋元によって、半ば強引に拍手がされたのだ。すぐにそれは拍手の雨を引き起こす。スタンディングオベーションは五分以上続いた。
 その拍手に、しかしピアノ奏者は応えようとはしない。彼はただ天井を見上げ、惚けたように表情なく、ぼんやりと座ったままになっている。
 これが世界で『嘆きのピアニスト』と呼ばれる香美村孝幸の、演奏後の姿だった。誰もが彼の演奏と、この魂が抜けてしまったかのような瞬間の目撃者になりたかったのだ。

 こうして、彼の来日公演最終日は大成功で幕を下ろした。
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