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1巻

1-3

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 とりあえず隠そう。何か着るもの……と辺りを見回しても何もない。昨夜着ていた浴衣は乱れたシーツとほとんど一体化していて、とても着れる状態になかった。

「ヴっ……」

 私は這うようにして布団から抜け出し、手近なふすまを開けた。布団が積まれた上に、綺麗に折り畳まれたシーツが置かれている。
 本来の使い方じゃないけど贅沢は言っていられないので、私はそれを身体に巻き付けてそろそろと廊下に出る障子の前に移動する。
 とりあえずお風呂場を借りて身体を洗おう。確かこの部屋から出て二回くらい廊下を曲れば、突き当たりにお風呂場があったはず。問題は途中でこの状態を誰かに見られてしまわないかということで……

「姐さん」
「ひえっ!」

 私は咄嗟に障子から手を離して一歩後ろに下がった。
 まさか廊下に人がいたとは。え、なんで? 私に何か御用で? いや、というかそこにいられたら私出られないので、一時的にでもいいのでこの場を離れていただけませんか。
 そうお願いしたいのに、急な動きに身体が付いていかず、一歩下がったところで私はしばらくうめいていた。

「あの……」
「はい」

 私がうめいている間も、廊下の人はじっと待っていた。何か用事だろうか。急用でなければ先にお風呂に行きたいのですが。

「何か、御用ですか……?」
「ご入浴の準備はできておりますので、今から向かわれるのでしたら人払いをしますが」

 え、怖い。いや、これ上条さんの配慮か。でも、私が起きてすぐお風呂行きたいのを、この人が知ってるのは……あ、そういえばここ、和室。私のカッスカスの声でもこうして普通に会話ができてしまうのは、隔てているものが障子で和紙一枚だから……
 つまり、昨夜のあれこれ、廊下にダダ漏れ?

「ああああぁ……」

 恥ずかしい。このまま溶けて消えてしまいたい。
 結構遅い時間だったし、みんな寝てる……わけないか。というか私がうるさかったりしました⁉
 二重三重の意味で居たたまれない。

「……体調が悪いようでしたら若をお呼びしますが」
「や、やめてくださいっ!」

 ここで上条さんを呼ばれたら私、どんな顔すればいいの?というかこうなってるの上条さんのせいだよね? 上条さんがあんなことするから……って、思い出したら滅茶苦茶恥ずかしくなってきた。

「お風呂、行きますから、人払いを……お願いします……」
「承知しました」

 私の表情筋と情緒はさっきからゴロンゴロン二転三転しているのに、廊下の人は始終落ち着いていて、私だけ動揺しまくってるみたいで余計に恥ずかしい。
 三分ほど待ってほしいと言われたので大人しく待っていると、廊下から人の気配が消えた。
 恐る恐る障子を開けて、できるだけ足音を立てないようゆっくり進む。人払いをするという言葉を信じていないわけじゃないけど、廊下を曲がる前には誰もいないことを確認してこそこそ移動した。
 結果、誰にも会うことなく脱衣所に到着した。ありがとう、名も知らぬ廊下の人。
 だから脱衣所に新品の下着と浴衣が置いてあるのはなぜか、詮索はしないでおく。
 体に巻きつけていたシーツを畳んで、私はお風呂場の戸を開けた。
 うん、豪華。
 昨日の夜も借りたけど、洗い場はふたつあって広いし、浴槽はいい香りのするひのきで、大きさも少し大きめのベッドくらいある。ちょっとした宿みたいだ。
 全身をくまなく洗って湯船に入る。少し熱めのお湯が心地良い。
 ひのきの柔らかな香りに包まれながら、私はしばらくぼんやりと上の窓から差し込む光を眺めていた。
 これから私はどうなってしまうのだろうか。本当にこのまま上条さんと結婚なんてしてしまっていいのだろうか。
 この立派な浴槽もヤクザの嫁も上条さんの想いも、私なんかが享受きょうじゅしていいものじゃない。
 私は自分の頭を叩く。
 けど、痛いだけで何も思い出せない。
 上条さんは全部忘れてしまえばいいと言ったけど、そんなのは私が逃げてるだけだ。苦しいことは全部忘れて、差し出された手に守られているだけなんて、都合が良すぎる。
 それに上条さんだって、こんな私をいつまでも好きでいてくれるはずがない。一年の間に何があったのかわからないけど、たった一年だ。きっと、気まぐれとか道楽とか、物珍しさだ。飽きて捨てられて困るのは、私。
 左手をお湯から出す。薬指にはめられた指輪が、陽の光を受けて無機質に輝いた。
 上条さんには悪いけど、これはお返ししよう。これは今の私が付けていていいものじゃない。
 私は浴槽の縁に手を付いて湯船から出る。軽くシャワーを浴びようと洗い場に座った時だった。

「……なにこれ」

 左の脇腹に赤黒い楕円形の傷跡のようなものがあった。周辺の皮膚にもわずかに引き攣れたような痕がある。
 脇腹といっても背中の方で、身体を捻らないとよく見えないし、泡で見えなかったとかで気付かなかったんだろう。
 触れてみても痛みはないし、いつどこでできたものなのかさっぱりわからない。
 この一年の間に怪我でもしたんだろうか。他にもないかな、とくまなく全身を見たらもう一箇所、似たような傷跡があった。
 見たところ痕にはなってるけど治癒はしていて最近できたものではなさそうだから、私の記憶喪失とはあまり関係がないんだろうか。
 それよりも、さっきから背中とか肩とか見て思ったけど、上条さんは昨夜、かなり容赦無く全身を噛んでいったらしい。
 温まったからか、白い皮膚にはっきりと無数の赤が浮かんでいた。しばらく消えそうにないし、背中とか肩はともかく、首筋の痕はどう隠そうか。
 お風呂上がってすぐならタオルでも巻いておけばいいけど、マフラーの時期でもないし、そもそも室内でマフラーはおかしいし……なんて鏡の前に立って考えていると、突然脱衣所の戸が開いた。

「ああ、大丈夫そうだな」

 そう言って顔を出したのは上条さんだった。相変わらずのスーツ姿で、この和風な浴室にはなんとも不釣り合いな格好だ。
 いや、それより……

「ど、どうしてここに?」

 まあ、上条さんのお宅なんだからどこにいようと自由かもしれないけど、ここは浴室で、当然私は何も着ていない。むしろスーツ姿で入ってきている上条さんがおかしい。
 私は咄嗟に近くにあった手拭いをつかんで前を覆った。

「体調が悪そうだって寺前てらまえが伝えにきた。来てみたら随分と静かだったから、万一沈んでねぇか心配でな」

 寺前さんって、廊下にいた人か。大丈夫って言ったのに……

「もう出るつもりなので、大丈夫です。大丈夫ですからそのっ……ひゃっ!」

 私はジリジリと後ろに下がったけど、すぐそこに壁があって、ぬるい木の感触に短く悲鳴をあげてしまう。そして私は上条さんに追い込まれたような状態になった。

「そんな警戒しなくても、今は何もしねぇよ。疲れてるだろうし、俺もすぐ戻るからな」

 残念、上条さんはそう言って流れるように私の後頭部に手を回して、唇を重ねた。
 そのまま空いている方の手で私の身体を抱き寄せると、冷たい手で私の背中を撫でる。抵抗しようにも、私が上条さんの身体を押したところでびくともしない。
 唇も塞がれて声を上げることすらできず、私はただ上条さんにされるがままにその口付けを受け入れていた。
 ようやく唇が離れたと思っても、すぐに再び塞がれて落ち着いて息を吸う間がない。

「ほんと、梨枝子はキスが苦手だな。鼻から吸えばいいんだよ」
「簡単に、言わないで……んんっ!」
「まあ、そんな梨枝子も好きなんだが。中途半端に十分で戻るなんて言わねぇ方がよかったな」

 上条さんはそう言って背中に這わせた手を下の方に下ろす。大きな手が腰をつかんだ。

「それにしても、我ながらよく噛んだな。痛くねぇか?」

 肩のあたりに残った痕を指先でなぞりながら上条さんは言う。さっき鏡で見たけど、右肩だけでも四箇所くらい赤くなっていた。背中側のよく見えない箇所も含めると、いったいどれだけ噛まれたんだろうか。
 とはいえ痛みはほとんどないので、私は小さく首を横に振った。

「俺のモンだからと思って付けすぎたな。梨枝子、お前もここに付けてくれ」
「……え?」

 上条さんはトントンと自身の首筋を指先で叩く。
 スーツから剥き出しのその場所は、誰がどう見ても一目で目に入るところだ。

「お前は俺のモンって言ったが、俺がお前のモンでもある。梨枝子、俺はお前のものだ。好きに付けろ」
「いや、そんな……できませんよ」
「ちょっと歯を立てて、吸うだけだ」

 そう言って上条さんは私の首筋のまだ白い箇所に歯を立てる。心なしか昨夜よりも念入りに歯の角度を変え、印を刻まれた。
 これを、上条さんにする。私が……
 上条さんは無防備に首筋を差し出して待っている。
 時間がないとか言ってたから、このまま何もせずに……という考えが頭をよぎったけど、気付けば両手首をつかまれて壁に押し付けられて、身動きが取れなくなっていた。
 これはきっと、私が上条さんの首を噛むまで離さないという宣言だろう。
 けどそんなことしたら、私が上条さんを自分のものだと主張したみたいになってしまう。
 この人の首筋にそんな痕を付けられる人は、きっとどこにもいない。
 上条さんが望んでのこととはいえ、それを知っているのは上条さん本人だけだ。側から見たら、それは……
 躊躇ためらっていると、上条さんが私の手首をつかむ力が強まった。

「梨枝子、早く」

 その有無を言わせぬ声音に、私の身体は勝手に動いていた。
 口を開けて首の皮膚を歯で軽く挟む。
 整髪剤の匂いが鼻を突いた。

「もっとだ。安心しろ、痛くねぇから。ちゃんと歯ァ立てろ」

 耳元に触れる声は優しいけれど、逆らう事を許さない強制力があった。
 上条さんは私が付けた痕を鏡で確かめ、吸う力が弱いからと何度かやり直しをさせた。
 私はその度に上条さんに言われるがままに歯を立てて、口付けを落とす。

「……まあ、いいか」

 ようやく満足したのか、上条さんは私の手を離す。
 そして鏡越しに私が付けた痕を眺めて微笑むと、テストで満点を取った子どもの頭を撫でるように私の頭を撫でて、浴室を出ていった。



  第二章


 気がついたら私は部屋に戻って来ていた。
 あれからどうやって戻ってきたんだろうか。浴室で立ちすくんでいた私は上の空のまま、とにかく浴衣を着て戻って来たんだろう。
 その証拠にドライヤーをし忘れた髪は濡れたままで、浴衣も襟が左右逆だった。
 浴衣を直して、首に巻いてきたタオルで髪を拭く。
 ふと、綺麗に敷かれた布団が目に入った。
 いつの間に。あれを誰か、たぶん廊下にいた人……寺前さんが片付けたんだと思うと、寺前さんとは今後ずっと障子越しでしか会話できそうにない。どんな顔すればいいの。というか、正直まともに会話できない気がする。

「姐さん」
「いっ!」

 またしても奇声を発してしまった。
 噂をすればなんとやら…いや、噂はしてないけど、寺前さんが障子の向こう側にいるようだった。

「ご朝食をお持ちしましたが、お持ちしてよろしいでしょうか」
「え、いや、ちょっと……」

 心の準備が。けど、お味噌汁の出汁っぽいいい匂いが間から漂ってくる。単純な私の胃は間抜けな音を立てた。

「食欲がないようでしたら、こちらは下げますが」
「い、いえっ! そこに、置いておいてください」

 そして寺前さんはご自身のお仕事にお戻りください。皿洗いも片付けも全部やるので!
 そう言うと、寺前さんは何故か少し慌てた。

「体調不良の姐さんにそんなことをさせたら、俺が若にどやされます」
「いや、片付けくらいしますけど……じゃあ、食べたら廊下に置いておきます」
「そうしてください」

 そう言って寺前さんはどこかに行って下さった。ありがたい。
 障子を開けてみると、そこには旅館の朝食みたいにやたら立派なお膳に乗った料理があった。
 ご飯と味噌汁はもちろん、焼き立ての鮭と、色とりどりのおかずが入った小鉢。ふたがしてある器には、ふるふると震える茶碗蒸しが入っていた。
 色々乗ってるけど、おかずはどれも少しずつだから量もちょうどよさそう。お米が少し多いかな?こんな状況じゃなければ写真を撮って職場のみんなにいいお宿があったとか言って自慢したいくらいだ。
 とりあえず味噌汁から、とふたを開ける。汁は赤味噌で、具はシンプルなワカメと豆腐。私が一番好きな味噌汁だった。
 出汁の効いた濃い味の味噌汁が疲れ切った身体に染み渡る。
 続いて小鉢の煮物は、口の中でほろほろ解けて、甘い風味が後を引く。
 鮭はやや辛口で、これがまたご飯に合う。ちょっとご飯が多いかと思ったけど、むしろちょうどいいか足りないくらいかもしれない。
 飲み物は急須に入ったお茶で、こうばしい玄米茶。
 茶碗蒸しは干し椎茸が多めに入って、噛み締めるとじんわりと旨みが広がる。
 どれもこれも、私の好きな味だ。
 ここの人は、私の好みを知っているんだろうか。
 やっぱり私は、上条さんと結婚するためにここに住んでいた……?
 だとしたらいつから? どういう流れで? 住んでいたアパートはどうしたの? 仕事は?
 一年間の失われた情報があまりにも多すぎる。
 何がどうして、こうなったのか。なぜかズキリと脇腹が痛んだ。お風呂場で見つけたあのあざも、ただ机の角とかにぶつけただけではあんな風にならないだろう。いつ、どこで、何があったのか。
 ……ああ、ダメだ。何も思い出せない。
 美味しい朝食のはずなのに、気付けば箸は止まっていた。


  ◆


 記憶を失って目覚めてから三日。一時的なものだろうと上条さんは言ったけれど、ぼんやり縁側に座ってコウくんと遊んだり、美味しいお茶を飲んでいるだけの生活じゃ何も思い出せそうになかった。
 何度か勇気を出してお屋敷にいる強面の黒い服の人たちに記憶を失う前のことを尋ねてみたけど、話を変えるかはぐらかされてしまう。まるで示し合わせているように。
 そして外に出ようとすると、危ないからと止められる。


 でもそうしている間に、上条さんとの結婚の用意が着々と進んでいく。今朝も、着物の採寸と言われてあちこち測られて、布地の見本を押し付けられた。
 自分の結婚なのに他人事のようだ。
 しかも相手の上条さんはヤクザ……条堂じょうどう組という組の若頭らしい。話を聞く限りだと、いくつも傘下さんかを持つ大きな組織。ますます実感が湧かない。
 けれどそんな人に私は毎晩抱かれ、身体だけはその事実を受け入れ始めていた。

『思い出さなくても、また覚えればいい』

 上条さんは昨晩もそう言って優しく、けれど底の見えない笑みを浮かべながら私の頬を撫でた。そのまま口内に挿し込まれた指はガラス細工を扱うように丁寧に歯列をなぞり、零れ落ちた唾液を拭う。
 回を重ねるごとに上条さんのものは私の身体に馴染んで、まるでそうすることが当たり前のように、喉は切なく湿った悲鳴を上げた。
 与えられる悦楽はあまりにも甘く、自分自身の内側にいつの間にか巣食っていた劣情に抗うことができない。
 ただ、一年前に置いてけぼりにされた心だけが、それを受け入れられないでいた。

「志弦さん、か。うーん……」

 どうやら私は上条さんのことを下の名前で呼んでいたそうなので、とりあえず声に出してみた。でもぎこちないし、なんだか気恥ずかしい。
 私はばったりと畳の上に横になって天井を見上げる。
 やっぱり、知らない天井だ。


  ◆


 お屋敷生活は五日目に突入したけど、相変わらず記憶が戻りそうな気配はなく、外にも出させてもらえない。
 縁側に座ってここ一年間のニュースを新聞や雑誌で確認していたけど、お屋敷ではそれしかしていないから飽きてきた。

「姐さん、新しいスマホです」

 雑誌を置いて傍らに置かれた湯飲みの側面を撫でながら空を見上げていたら、見張りのひとり、中畑さんが携帯ショップのロゴが入った紙袋を持ってきてくれた。
 私のスマホは、私が記憶を失った出来事の中で壊れたようで、上条さん経由で帰ってきた私のスマホは画面が割れていて、どれだけ電源ボタンを押しても反応しなくなっていた。
 なので手配をお願いしてたんだけど、こんなに早くいただけるとは。

「ありがとうございます」

 早速中の箱を開けてみると、新品のスマホがお目見えした。しかも長らく愛用している機種の最新型だ。
 電源を入れて初期設定を済ませる。
 スマホ無しでは退屈だし不便だろうということで、今回新しいものを用意してもらえたのは嬉しいけど……連絡先などのデータを引き継ぐ事はできなかったらしい。パスワードを変えてしまったのか、SNSにもログインできない。唯一入ることができたアカウントも、犬猫のペット動画や料理動画を見るばかりで投稿はしていないようだった。
 新しいスマホは、まるで私の1年を象徴するかのように空っぽだ。

「あの、中畑さん」
「なんでしょうか。姐さん」

 中畑さんはいかにもヤクザ然とした見た目の人だ。
 ツーブロックにサングラス、道ですれ違っても絶対に声をかけたくないタイプ。
 まあ三日間、毎日顔を見ていたら慣れてはきたけど、それでも怖い。
 ちなみに前からスルーしている「姐さん」呼びについては、普通に苗字とかでいいですと言ったのだけど、なぜかみんなかたくなにゆずってくれない。なぜ。恥ずかしいからやめていただきたい。

「ちょっと出かけたいんですけど」
「何かご入用ですか? こちらで手配しますが」
「買い物じゃなくて、気分転換にちょっと散歩でもしようかな、と」

 ぼんやりしているだけじゃきっと何も思い出せない。まあ記憶を取り戻す手がかりになりそうな場所の心当たりとかは一切ないけど、何もしないよりはマシなはずだ。
 連絡手段は手に入れた。スマホさえあればとりあえず連絡はできる。
 子供じゃあるまいし、地図を確認すれば迷子にもならないはず。たぶん。
 中畑さんは渋い顔をした。

「外は危険です。何が起こるかわかりません」

 いや、何ですかその理由。街にゾンビが溢れたりしてるの? さっきスマホの地図で見たけど、ここ普通の住宅地だよね? まあヤクザのお家は普通じゃないけども。

「散歩するだけですよ。この公園までとか」
「姐さんを外でお一人にはできません。若とご一緒でしたらよろしいかと」

 なぜそこで上条さんが出てくるのか。
 上条さんと一緒じゃなきゃ外出できないって、いくらここ一年の記憶が無いからって、そこまで制限される筋合いはないと思うんだけど……十年単位ならともかく、一年間の記憶が無い程度じゃ、そこまで世の中に置いてけぼりにされていないはず。一般常識までは失ってないし。

「外を一周するのも駄目なんですか?コウくんと」
「若の許可なく外出するのは危険です」

 うーん、一歩も引いてくれなさそう。
 けど強行突破しようにも、玄関あたりで止められる未来しか見えない。仮に全力でタックルしたとしてもポーンと弾き返されて終わりだ。
 でも私だって一年間の記憶が無いままは困る。

「中畑さんは何かご存知ありませんか。この一年間の私のことについて」
「申し訳ありませんが、回答は致しかねます。若にお尋ねする方がよいかと」
「その上条さんが教えてくださらないんです……」

 最初は本当にこの一年間のことを全部忘れてしまったのかと上条さんは疑っていたけど、それは一番最初だけで、今はむしろ忘れたままの方がいいと思っているのか、記憶を失ったことに関係する出来事については詳しく教えてくれない。
 聞き出そうとしてもはぐらかされるどころか、忘れろと言われる始末だ。
 まあ、雄吾の二股は知らない方が幸せだったかもしれないとは思うけど……

「若の方針なのでしたらなおのこと、私がお話しすることはできません。では、失礼します」

 中畑さんは始終硬い態度を崩すことなく、再び持ち場……といっても私の見張りらしいので廊下の角を曲がったあたりの部屋に戻っていった。
 残された私は新品のスマホの滑らかな縁を撫でながらため息をつく。
 どうすればいいんだろう。
 私のことを心配してくださるのはありがたいのだけど、上条さんは過保護なんだ。
 そして上条さんが私の記憶が戻ることを望んでいない以上、結婚云々について自分でどうにか思い出すしかない。
 そのためには何か知っていそうな人に話を聞きたい。パッと思い浮かぶのは働いてた喫茶店のオーナーとそこのバイトのゆきちゃん。あとは雄吾……
 店に電話しようか。でもヤバいやつだって疑われそうで嫌だな。直接話をしに行きたいけど、どうやって店に行くかが問題だ。
 お店には電車とバスで行ける。電車賃とお茶代くらいなら、一昨日、カバンと一緒に部屋で見つけた私の財布の中身だけで十分足りるから、外出できれば問題ないのだけど、上条さんは許してくれないだろうな。必然的に雄吾の話題になりそうだし……


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