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1巻
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プロローグ
……真っ暗な夢を見ていた気がする。
でも今の私が感じているのは暖かくて柔らかな布団の感触で、もう夢からとっくに覚めているんだろう。
薄目を開けると柔らかな光が差し込んで、朝なら仕事に行かないと、なんて思って起き上がった。
「ん……?」
私の職場は喫茶店なので朝が早い。オーナーは温厚な人だけど、時間には厳しいから遅刻は……って、ここは、どこ?
私が暮らしているのは手狭なワンルームの古いアパートのはず。十畳以上はありそうなだだっ広い和室に住んでいる覚えはない。旅館っぽいけど、それにしてはなにもなさすぎる。机も座布団もなく、ただ私が寝ている布団しかない。
物といえば床の間に置かれた渋い花瓶くらいだ。あとは壁にかかった時計。障子の向こう側が明るいので、今は昼の一時……あれ? 昼の一時? え、完全に遅刻? いや、でもここはどこなの!?
わけがわからず呆然と辺りを見回していると、ドタドタと足音が近付いてきて、勢いよく襖が開いた。
現れたのは黒色のスーツに身を包んだ男性……知らない人だ。
歳は二十代後半か三十代前半くらい。後ろに撫で付けた短めの黒髪と、どこか冷たさを感じる三白眼が印象的なその人は私と目が合うと、端正な顔に安堵の表情を浮かべた。
「目が覚めたか」
男性はそう言って私の傍に膝をつくと、私を抱きしめようとするかのように両腕を伸ばしてくる。怖くなった私は咄嗟にその手を払い除け、身体を反らして距離をとった。
私の反応に男性は驚いたように目を見開いた。
「どうした?」
どうしたもなにも、私はこの人を知らなかった。
私の人間関係はさほど広くない。職場である喫茶店はオーナーも含めて従業員は全員女性で、男性は数少ない昔からの知り合いと大学時代から付き合っている彼氏だけ。
お客さんかと思ったけど、こんな美丈夫がお店に来たら覚えているはずだ。
しかしいくら見た目が良くても、知らない男性に突然手を伸ばされたら避けるに決まっている。
不安と緊張で心臓は早鐘を打ち、背筋が冷たくなった。
あなたは誰なのか。そう尋ねようと口を開いたけれど、掠れたような音が漏れるだけで、自分でも驚くくらいに喉が枯れていた。
「ああ、喉が乾いているのか。待っていろ。すぐに持ってこさせる」
男性がそう言って優しく微笑むと、その背後で音がした。
見ると、廊下に黒いスーツの男たちがずらりと控えて、恭しく頭を下げていた。
「ひっ……」
廊下に控えている男たちは、誰がどう見てもその道の人たちだった。
スーツの上からでもわかる鍛えられた肉体に、厳つい顔付き。何人かの顔には傷や火傷の痕が見える。
この人たちは誰なんだろう。そしてどうして私はこんなところにいるの? 私はただ、眠っていただけなのに。
昨日の夜は普通に……あれ? 眠る前の事をうまく思い出せない。
思い出そうとしても、見慣れない景色がぐるぐる回り出して灰色になるばかりで、頭が痛くなってきた。
「悪い、驚かせたか。調子が悪いなら寝ていい」
男が心配そうに私の顔を覗き込んでくるけど、どうしてこの人は見ず知らずの私のことをこんなに心配してくれるんだろうか。まるで愛しい恋人か奥さんが倒れたみたいに。
私の彼氏、こんなに心配してくれない気がする。
「若、水と白湯をお持ちしました」
誰かが枕元にお盆に乗ったグラスと湯呑みを置いた。グラスの方は切子だろうか。照明をキラキラ反射させて輝いている。
湯呑みの方もよくわからないけど高そう。
そして今うっかり聞き流しそうになったけど、この男の人に呼びかけるときに「若」って言いました?
薄々というかほぼほぼここがそういうお家なのは感じてたけど、本当にそうなの? というか、あなた、「若」なんですか?
ますますわからない。どうしてそんな人が私の心配をしてるの? なんで湯呑みを手渡したりしてくれるの?
「熱すぎたら言ってくれ。それとも水の方がいいか?」
私の手の中に収まった湯呑みは人肌よりやや温かいくらいで、中身の白湯はちょうど飲み頃といった感じだ。
喉はとても渇いていたし、見た目も匂いもおかしなところはなかったから恐る恐るひと口飲んだ。
渇いた喉をぬるいお湯がじんわり潤してくれる。
半分ほど飲んだところで、私は湯呑みをお盆に戻した。
「もういいのか?それか茶か、他のものがいいか?」
「だい、じょうぶ……です」
喉が細くなってしまったみたいにうまく声が出せない。色々聞きたいことがあるのに、絞り出したような掠れ声にしかならなかった。
「そんな声で言われてもな……喉にいい茶でも用意させるか」
男がそう言った瞬間に、誰かが立ち上がって歩き去る。状況的に、そのお茶を用意しに行ったんだろう。この場において、この男が言うことは絶対だ。
そう思わせる圧倒的な何かが、この人にはある。
いったい何者で、どうして私を心配するのか。
「あなたは、だれ、ですか」
「は?」
……その瞬間、空気が凍り付いた。
例えようもない圧迫感が肺を押す。私は何か、まずい質問をしてしまったのだろうか。
でもこの人と私は初対面だ。初対面のはずだ。
どうして、と後ろに控えている人たちの方を見ると、彼らは一様に目を逸らして、何かに怯えるように口元を真一文字に結んでいた。
何か教えてくれそうな人はいないかと首を動かそうとしたとき、両頬を挟まれて無理矢理視線を固定される。
男の瞳が見開かれ、暗い瞳が私を凝視していた。
「何の冗談だ? 梨枝子」
梨枝子、小山梨枝子……私の名前だ。
私とこの人は知り合いなの? 嘘だ。だってこんな目立つ顔の人を簡単に忘れるはずがない。
店にやってきたら店員の間で丸一日話題になりそうな、そこら辺の芸能人顔負けの容姿に、圧倒的な存在感。
今はそれがより際立って、怒らせてはいけない人を怒らせてしまったと、私は泣きそうになった。
けれど知らないものは知らない。どうしてこの人が怒っているのか。どうして私はここにいるのか。
「……出てけ。全員」
低い、苛立ちを孕んだ声。
私ではなく、背後に控えている人たちに向けられた言葉なのに、背筋に冷たいものが走った。
数秒もしないうちに襖が閉まって、広い部屋に私と男だけが残される。
男は私の頬からゆっくり手を離すと、その場に腰を下ろして長く息を吐いた。
「梨枝子、もう一度聞く。何の冗談だ?」
「冗談じゃ、なくて……本当にわからない、んです」
我ながら消え入りそうな声だ。自分の喉の太さがストローくらいしかないんじゃないかってくらい声が出ない。
「どうして、私の名前を知っているんですか」
「知っていて当然だろ。本当に何も覚えていないのか?」
何も覚えていないのとは違う気がする。
自分の名前も働いている場所も友人の顔も思い出せる。この人の事だけがわからない。
私は少し首を横に振った。
直後に男の纏う雰囲気が変わった。
「俺のことだけわからない……そういうことか?」
男は私の左手首を掴んだ。そして見せつけるように私の目の前に左手をもってくる。
……薬指に細身のダイヤの指輪がはめられていた。そして私の手首を掴んでいる男の指にも、白銀に煌めく指輪が見える。
つまり、私とこの人は知り合いどころか、婚約もしくは結婚してるってこと⁉ いやいや、どうして私が(おそらく)ヤクザ屋さんの偉い人と? 結婚? というか私、彼氏いるはずだよね。
関係については理解してしまったけど、なんで? どうして⁉
男は私の反応を伺っていたけれど、私が口をぽかんと開けたまま固まったのを見てため息をついた。
「……本当に何も覚えていないのか」
怖がらせて悪かった。男はそう言って手を離す。
「上条志弦だ。聞き覚えもないか?」
「すみません。わからない、です……」
上条さん……全く聞き覚えがない。知り合いにもそんな苗字の人はいないはずだ。
「記憶喪失、か。まああんな事があった後だからな……一時的なモンかもしれねぇし、しばらく様子見か」
渋々といった様子で上条さんは引き下がった。
「す、すみません」
「謝るな。梨枝子は悪くねぇ」
そう言って上条さんは先ほどまでの冷たく重い雰囲気を振り払って、私を落ち着かせるように微笑んだ。
私は思わず左手首をさする。強く握られたせいか手首に残る熱が、今もなお尋常でない状況に置かれている事を訴えていた。
「あ、あの……」
「どうした?」
聞きたい事が多すぎる。
私と上条さんの関係、どうして記憶喪失になんてなってしまったのか、ここはどこなのか、上条さんは何者なのか。
上条さんは静かに私を見つめている。
「目が覚めたばっかで混乱してるんだろ。また夕方にでも顔出すから、そん時にまたゆっくり話すか」
そう言って上条さんは立ち上がると、私の頭を二、三度優しく撫でて部屋を出て行った。
広い部屋にひとり残された私はただただ呆然と閉ざされた襖を眺めていることしかできない。
私はばたりと布団に倒れた。左手を上げて、指輪に触れる。
……あの人と、結婚?
硬く冷たい金属の質感が、これは夢じゃないと言っている。
でも、夢と言われる方がまだ現実的だ。
私はただ、普通の喫茶店で働く普通の生活を送っていたはずだ。上条さんじゃない彼氏もいて、それなりに平和に平凡に生きていた。
上条さんみたいな人と知り合いになる余地なんてない。しかも結婚なんて、そもそも考えてもいなかったのに。
そうだ彼氏……雄吾に連絡してみよう。
雄吾は大学の後輩で、私の卒業前からだからもうすぐ付き合って二年になる、はずだった。
今の状態だと何かあって別れたのかもしれないけど、少なくとも何があったのか知ってるはずだ。
……と思い至ったものの、スマホが見当たらない。
枕元や畳の上にはそれらしいものがなかった。
どこかにしまっているのだろうか。とりあえず床の間の横の戸を開けてみる。中は空っぽだった。
別の場所を開けてみても、布団が高く積まれていたり、座布団が入っていたり、私の私物がどこにもない。
この部屋にはないのだろうか。そう思って恐る恐る上条さんが出て行った襖を開ける。
「ひっ」
思わず声が出て、そのまますぐ襖を閉める。
開けてすぐのところに、怖くて厳ついお兄さんが立っていた。それも複数人。
見張り、というやつだろうか……上条さん、「若」とか言われてたし、かなり上の立場の人なんだろうけど、なんでまた私なんかを……
「失礼します」
あたふたしていたら外から声をかけられた。
あまりにびっくりして「ふぁい?」なんて上擦った声で返事をしてしまい、穴があったら入りたい。
「……何か御用ですか」
「えーっと、私のスマホ、どこにしまってるのかご存知ありませんか?」
「お隣の部屋が姐さんのお部屋ですが、そちらになければ存じ上げません。何か調べ物ですか?」
あ、隣の部屋も私の部屋なのか。あとで探してみよう。
「ちょっと連絡を取りたい人が」
「どなたでしょうか?」
「それは……」
元(?)彼氏の雄吾です。なんて言ったら仮にこの人が持っていたとしても、絶対渡してもらえない気がする。
どう答えたものかと悩んでいると、カリカリと引っ掻くような音がして、私はそちらを見た。
私の部屋だという部屋の逆側の襖の向こうに何かいるようだった。
「すみません、ちょっと失礼します」
鍵がかかるわけでもないので開けようと思えば普通に開くはずだし、少し下の方から聞こえるから野良猫でも迷い込んだんだろうか。
開けてみると、何やら黒い塊が突進してきた。勢い余って部屋の真ん中でターンすると、私の方に向かってくる。
黒い犬だった。
懐かれているのか、前脚を私の太腿の上あたりに押し付けて立っている犬は、目を輝かせて尻尾を振っている。
……なに、この可愛い子。
大きさは柴犬をひと回り大きくしたくらい。顔付きと体を見るに日本犬……甲斐犬っぽいけど、それにしては毛足が少し長い気がする。洋犬が混じっているんだろうか。
子どもの頃実家で飼っていたコリーを思い出す。
まあ、犬種が何にせよ可愛いことに変わりはない。
どうやら懐いてくれているようなので、首の下辺りを触らせてもらう。
柔らかい。もふもふ。毛艶もいいし、首輪もしてるから飼い犬なのは間違いなさそう。それにこの子を撫でているとなぜか安心する。組の誰か、もしくは上条さんの飼い犬だろうか。
「だ、大丈夫ですか?」
外の人が心配そうに声をかけてくる。
「あの、黒い犬が……」
「コウさんがそちらに? 確かに散歩の時間ではありますが」
この子はコウって名前なのか。男の子だからコウくん……なんとなく馴染みがある気がする。
にしてもヤクザさんにさん付けされてるのか、犬。ということは、上条さんの飼い犬?
「この子……コウさんの飼い主は上条さんですか?」
「……え? そうですが、姐さんも散歩行かれたりしてましたよね」
なんでそんなことを聞くのかと言いたげな声音だった。どうやら私もこの子を可愛がっていたらしい。
まあこれだけ可愛い子、近くにいたら絶対可愛がるけども。
コウくんは何かを期待する目で私を見上げてきた。
「ああ、いた。すみません姐さん。散歩用のリードに変えようとしたら急に走ってそちらに……」
コウくんがやってきた方からリードを手にした別の上条さんの部下らしき人がやってくる。
「このところ姐さんと離れていたので、会いたかったのかと……散歩は自分が行きますから、姐さんは休んでいてください」
「ええ、まあ、この状況で散歩には行けないですね……」
散歩の時間だというから、散歩をせがまれているんだろう。二つ返事でOKしたいところだけど、散歩ルートどころかこの辺りの道知らないし、あの上条さんの愛犬を私が散歩させていいんだろうか。
「ごめんね、行けないんだ……」
頭を撫でながらそう言うと、コウくんは前脚を下ろしてお座りの姿勢をとり、寂しげに見上げてくる。
うっ……罪悪感。
そうしている間にコウくんはリードをつけられていた。
「姐さんはお疲れだから、な?」
そう声をかけられてリードに繋がれたからか、コウくんは諦めたように立ち上がる。
若干の抵抗を見せながらも、上条さんの部下に引っ張られたコウくんは散歩に出かけていった。
その後ろ姿を見送りつつ、突然の犬の登場で停止していた脳を復帰させる。
何の話だったっけ? えっと、そうだ、連絡相手。
「ええっと、連絡を取りたい相手ですよね」
「はい」
私は上手く回らない頭をなんとか動かして職場のオーナーに、と嘘をつく。
「お仕事は辞められたと伺っていますが……」
「辞めた?」
喫茶店を? 辞めた? え、どうして? 覚えはないけど結婚するから?
「ええ、三ヶ月ほど前に」
「さ、三ヶ月……?」
そんなに前に辞めたの? だって私の中ではまだ仕事は続けてるし、辞めるもなにも最後に仕事に行ってから三ヶ月も経ってるはずがない。
「あの、今は何月何日ですか」
こんな時間旅行者のテンプレみたいな台詞を本気で言う日が来るとは思わなかった。
そして襖の向こうの人が教えてくれた日付けを聞いた私は言葉を失った。私が覚えている日付けより少し前だったから。
「えっと……少し前に丸々食品の工場が火事になりませんでしたか?」
何か日付けに確証が持てる情報はないかと、ぼろぼろの記憶を辿ってすぐに思い浮かんだのはそんなニュースだった。
ここの会社のチョコが好きでたまに買っていて、体感的には一週間前くらいのニュースだ。
「それは去年の今頃ですよ」
その言葉を聞いて、驚きのあまり私はその場に膝を付いた。
一年前……私の記憶はそこで止まっている。
「大丈夫ですか、姐さん? 去年のニュースがどうかしたんですか?」
外の人が何か話しかけてくるけど、内容がまともに頭に入ってこなかった。
たった一年。でもその間に何があったら雄吾と別れて上条さんと出会って結婚することになるんだろうか。思い出そうとしても、記憶の中の私は普通の日常を過ごしていただけで、上条さんと出会った覚えも雄吾と別れた覚えも、コウくんのお世話をした覚えもない。
無理矢理思い出そうとするけれど、蘇るのは暗闇ばかりで、あとはズキリと頭が痛むだけだった。
「すいません。ありがとうございました……」
私はなんとかお礼の言葉を絞り出して、その場でずっと頭を抱えていた。
◆
やがて日も暮れてきて、障子紙を通して差し込む光が橙色を帯びてくる。
夕方に顔を出すという言葉のとおり、十八時を回った頃に上条さんはやってきた。
「中畑から聞いた。ここ一年の記憶がないのか?」
布団の上で膝を抱えている私の横に座った上条さんは優しく背中を撫でてくれる。
私はゆっくり頷いた。
「一年前ならまだ会ってねぇな。まあ、少しずつ思い出すだろ」
……やっぱり、一年前にはまだ上条さんに会っていないんだ。
でも、むしろたった一年で何があったらこの人と結ばれる事になるんだろうか。
「私と上条さんは、どうやって知り合ったんですか」
「上条さんじゃなくて下の名前で呼べって、あんだけ教え……言ったんだが」
上条さんは不満げに鼻を鳴らしながらも、丸々忘れたなら仕方ないのかと独り言のようにこぼした。
「会ったのは北の繁華街だ。面倒な客引きに捕まってたから助けた」
北の繁華街、あのホストクラブやらキャバクラやなんかが立ち並ぶところかな。一年前の私はなんでまたそんなところに行ったんだろうか。
「正直梨枝子のこの話は忘れたいんだがな……そん時付き合ってた男に二股されて、自棄になって来たとか言ってたな」
「ふ、二股? 雄吾が?」
その瞬間、肩に回されていた上条さんの手に力が入る。よっぽどこの話をしたくないらしい。
私としては推理ものを読もうとしたら、一ページ目に犯人と動機とトリックが書かれていたような衝撃で、しかもそれは自分の事だから詳細が気になるけど……あまり聞かない方が良さそうだった。そのうち思い出すんだろうか。でも、今のを聞いても小説を読んでるみたいで実感が湧かない。
「思い出させない方がいい気がしてきたな。もう俺と結婚して終わりでいいだろ」
「それはさすがに、急すぎると言いますか……準備も何もできません」
「なにもする必要はない。俺のモンになってくれさえすれば」
上条さんは当然のように言い放った。
このままでは本当にこの人と結婚することになってしまう気がして、私は話題を変えた。
「いったい、私に何があったんですか? 頭を打ったとか、事故にでも遭ったんでしょうか?」
「……無理に思い出す事じゃない。忘れたいから、忘れたんだろ」
上条さんの瞳が細く窄められる。
冷たい氷のような視線に、この人は裏の社会の人なんだと、改めて実感した。
「目が覚めた時、俺のことを忘れたなんて言うから驚いて責めるような言い方になったが、記憶喪失になるくらい、嫌な思いしたんだろ。忘れたままでもいい。その程度で俺の気持ちは変わらねぇ。コウも相変わらず梨枝子には懐いてるしな」
「で、でも、何も覚えていないのにけっ、結婚なんて……」
そもそも上条さんの事も全くわからない。ヤクザの偉い人、そんなとんでもない情報しかないのに。
「まあ今は疲れてるだろうしゆっくり休め。梨枝子、海老好きだろ。いい牡丹海老を仕入れさせたから、後で一緒に食べるか」
私は何も覚えていないのに、上条さんは優しい。どうしてここまで気に入られてしまったのか。一年前に戻った平凡な私にはさっぱりわからなかった。
……真っ暗な夢を見ていた気がする。
でも今の私が感じているのは暖かくて柔らかな布団の感触で、もう夢からとっくに覚めているんだろう。
薄目を開けると柔らかな光が差し込んで、朝なら仕事に行かないと、なんて思って起き上がった。
「ん……?」
私の職場は喫茶店なので朝が早い。オーナーは温厚な人だけど、時間には厳しいから遅刻は……って、ここは、どこ?
私が暮らしているのは手狭なワンルームの古いアパートのはず。十畳以上はありそうなだだっ広い和室に住んでいる覚えはない。旅館っぽいけど、それにしてはなにもなさすぎる。机も座布団もなく、ただ私が寝ている布団しかない。
物といえば床の間に置かれた渋い花瓶くらいだ。あとは壁にかかった時計。障子の向こう側が明るいので、今は昼の一時……あれ? 昼の一時? え、完全に遅刻? いや、でもここはどこなの!?
わけがわからず呆然と辺りを見回していると、ドタドタと足音が近付いてきて、勢いよく襖が開いた。
現れたのは黒色のスーツに身を包んだ男性……知らない人だ。
歳は二十代後半か三十代前半くらい。後ろに撫で付けた短めの黒髪と、どこか冷たさを感じる三白眼が印象的なその人は私と目が合うと、端正な顔に安堵の表情を浮かべた。
「目が覚めたか」
男性はそう言って私の傍に膝をつくと、私を抱きしめようとするかのように両腕を伸ばしてくる。怖くなった私は咄嗟にその手を払い除け、身体を反らして距離をとった。
私の反応に男性は驚いたように目を見開いた。
「どうした?」
どうしたもなにも、私はこの人を知らなかった。
私の人間関係はさほど広くない。職場である喫茶店はオーナーも含めて従業員は全員女性で、男性は数少ない昔からの知り合いと大学時代から付き合っている彼氏だけ。
お客さんかと思ったけど、こんな美丈夫がお店に来たら覚えているはずだ。
しかしいくら見た目が良くても、知らない男性に突然手を伸ばされたら避けるに決まっている。
不安と緊張で心臓は早鐘を打ち、背筋が冷たくなった。
あなたは誰なのか。そう尋ねようと口を開いたけれど、掠れたような音が漏れるだけで、自分でも驚くくらいに喉が枯れていた。
「ああ、喉が乾いているのか。待っていろ。すぐに持ってこさせる」
男性がそう言って優しく微笑むと、その背後で音がした。
見ると、廊下に黒いスーツの男たちがずらりと控えて、恭しく頭を下げていた。
「ひっ……」
廊下に控えている男たちは、誰がどう見てもその道の人たちだった。
スーツの上からでもわかる鍛えられた肉体に、厳つい顔付き。何人かの顔には傷や火傷の痕が見える。
この人たちは誰なんだろう。そしてどうして私はこんなところにいるの? 私はただ、眠っていただけなのに。
昨日の夜は普通に……あれ? 眠る前の事をうまく思い出せない。
思い出そうとしても、見慣れない景色がぐるぐる回り出して灰色になるばかりで、頭が痛くなってきた。
「悪い、驚かせたか。調子が悪いなら寝ていい」
男が心配そうに私の顔を覗き込んでくるけど、どうしてこの人は見ず知らずの私のことをこんなに心配してくれるんだろうか。まるで愛しい恋人か奥さんが倒れたみたいに。
私の彼氏、こんなに心配してくれない気がする。
「若、水と白湯をお持ちしました」
誰かが枕元にお盆に乗ったグラスと湯呑みを置いた。グラスの方は切子だろうか。照明をキラキラ反射させて輝いている。
湯呑みの方もよくわからないけど高そう。
そして今うっかり聞き流しそうになったけど、この男の人に呼びかけるときに「若」って言いました?
薄々というかほぼほぼここがそういうお家なのは感じてたけど、本当にそうなの? というか、あなた、「若」なんですか?
ますますわからない。どうしてそんな人が私の心配をしてるの? なんで湯呑みを手渡したりしてくれるの?
「熱すぎたら言ってくれ。それとも水の方がいいか?」
私の手の中に収まった湯呑みは人肌よりやや温かいくらいで、中身の白湯はちょうど飲み頃といった感じだ。
喉はとても渇いていたし、見た目も匂いもおかしなところはなかったから恐る恐るひと口飲んだ。
渇いた喉をぬるいお湯がじんわり潤してくれる。
半分ほど飲んだところで、私は湯呑みをお盆に戻した。
「もういいのか?それか茶か、他のものがいいか?」
「だい、じょうぶ……です」
喉が細くなってしまったみたいにうまく声が出せない。色々聞きたいことがあるのに、絞り出したような掠れ声にしかならなかった。
「そんな声で言われてもな……喉にいい茶でも用意させるか」
男がそう言った瞬間に、誰かが立ち上がって歩き去る。状況的に、そのお茶を用意しに行ったんだろう。この場において、この男が言うことは絶対だ。
そう思わせる圧倒的な何かが、この人にはある。
いったい何者で、どうして私を心配するのか。
「あなたは、だれ、ですか」
「は?」
……その瞬間、空気が凍り付いた。
例えようもない圧迫感が肺を押す。私は何か、まずい質問をしてしまったのだろうか。
でもこの人と私は初対面だ。初対面のはずだ。
どうして、と後ろに控えている人たちの方を見ると、彼らは一様に目を逸らして、何かに怯えるように口元を真一文字に結んでいた。
何か教えてくれそうな人はいないかと首を動かそうとしたとき、両頬を挟まれて無理矢理視線を固定される。
男の瞳が見開かれ、暗い瞳が私を凝視していた。
「何の冗談だ? 梨枝子」
梨枝子、小山梨枝子……私の名前だ。
私とこの人は知り合いなの? 嘘だ。だってこんな目立つ顔の人を簡単に忘れるはずがない。
店にやってきたら店員の間で丸一日話題になりそうな、そこら辺の芸能人顔負けの容姿に、圧倒的な存在感。
今はそれがより際立って、怒らせてはいけない人を怒らせてしまったと、私は泣きそうになった。
けれど知らないものは知らない。どうしてこの人が怒っているのか。どうして私はここにいるのか。
「……出てけ。全員」
低い、苛立ちを孕んだ声。
私ではなく、背後に控えている人たちに向けられた言葉なのに、背筋に冷たいものが走った。
数秒もしないうちに襖が閉まって、広い部屋に私と男だけが残される。
男は私の頬からゆっくり手を離すと、その場に腰を下ろして長く息を吐いた。
「梨枝子、もう一度聞く。何の冗談だ?」
「冗談じゃ、なくて……本当にわからない、んです」
我ながら消え入りそうな声だ。自分の喉の太さがストローくらいしかないんじゃないかってくらい声が出ない。
「どうして、私の名前を知っているんですか」
「知っていて当然だろ。本当に何も覚えていないのか?」
何も覚えていないのとは違う気がする。
自分の名前も働いている場所も友人の顔も思い出せる。この人の事だけがわからない。
私は少し首を横に振った。
直後に男の纏う雰囲気が変わった。
「俺のことだけわからない……そういうことか?」
男は私の左手首を掴んだ。そして見せつけるように私の目の前に左手をもってくる。
……薬指に細身のダイヤの指輪がはめられていた。そして私の手首を掴んでいる男の指にも、白銀に煌めく指輪が見える。
つまり、私とこの人は知り合いどころか、婚約もしくは結婚してるってこと⁉ いやいや、どうして私が(おそらく)ヤクザ屋さんの偉い人と? 結婚? というか私、彼氏いるはずだよね。
関係については理解してしまったけど、なんで? どうして⁉
男は私の反応を伺っていたけれど、私が口をぽかんと開けたまま固まったのを見てため息をついた。
「……本当に何も覚えていないのか」
怖がらせて悪かった。男はそう言って手を離す。
「上条志弦だ。聞き覚えもないか?」
「すみません。わからない、です……」
上条さん……全く聞き覚えがない。知り合いにもそんな苗字の人はいないはずだ。
「記憶喪失、か。まああんな事があった後だからな……一時的なモンかもしれねぇし、しばらく様子見か」
渋々といった様子で上条さんは引き下がった。
「す、すみません」
「謝るな。梨枝子は悪くねぇ」
そう言って上条さんは先ほどまでの冷たく重い雰囲気を振り払って、私を落ち着かせるように微笑んだ。
私は思わず左手首をさする。強く握られたせいか手首に残る熱が、今もなお尋常でない状況に置かれている事を訴えていた。
「あ、あの……」
「どうした?」
聞きたい事が多すぎる。
私と上条さんの関係、どうして記憶喪失になんてなってしまったのか、ここはどこなのか、上条さんは何者なのか。
上条さんは静かに私を見つめている。
「目が覚めたばっかで混乱してるんだろ。また夕方にでも顔出すから、そん時にまたゆっくり話すか」
そう言って上条さんは立ち上がると、私の頭を二、三度優しく撫でて部屋を出て行った。
広い部屋にひとり残された私はただただ呆然と閉ざされた襖を眺めていることしかできない。
私はばたりと布団に倒れた。左手を上げて、指輪に触れる。
……あの人と、結婚?
硬く冷たい金属の質感が、これは夢じゃないと言っている。
でも、夢と言われる方がまだ現実的だ。
私はただ、普通の喫茶店で働く普通の生活を送っていたはずだ。上条さんじゃない彼氏もいて、それなりに平和に平凡に生きていた。
上条さんみたいな人と知り合いになる余地なんてない。しかも結婚なんて、そもそも考えてもいなかったのに。
そうだ彼氏……雄吾に連絡してみよう。
雄吾は大学の後輩で、私の卒業前からだからもうすぐ付き合って二年になる、はずだった。
今の状態だと何かあって別れたのかもしれないけど、少なくとも何があったのか知ってるはずだ。
……と思い至ったものの、スマホが見当たらない。
枕元や畳の上にはそれらしいものがなかった。
どこかにしまっているのだろうか。とりあえず床の間の横の戸を開けてみる。中は空っぽだった。
別の場所を開けてみても、布団が高く積まれていたり、座布団が入っていたり、私の私物がどこにもない。
この部屋にはないのだろうか。そう思って恐る恐る上条さんが出て行った襖を開ける。
「ひっ」
思わず声が出て、そのまますぐ襖を閉める。
開けてすぐのところに、怖くて厳ついお兄さんが立っていた。それも複数人。
見張り、というやつだろうか……上条さん、「若」とか言われてたし、かなり上の立場の人なんだろうけど、なんでまた私なんかを……
「失礼します」
あたふたしていたら外から声をかけられた。
あまりにびっくりして「ふぁい?」なんて上擦った声で返事をしてしまい、穴があったら入りたい。
「……何か御用ですか」
「えーっと、私のスマホ、どこにしまってるのかご存知ありませんか?」
「お隣の部屋が姐さんのお部屋ですが、そちらになければ存じ上げません。何か調べ物ですか?」
あ、隣の部屋も私の部屋なのか。あとで探してみよう。
「ちょっと連絡を取りたい人が」
「どなたでしょうか?」
「それは……」
元(?)彼氏の雄吾です。なんて言ったら仮にこの人が持っていたとしても、絶対渡してもらえない気がする。
どう答えたものかと悩んでいると、カリカリと引っ掻くような音がして、私はそちらを見た。
私の部屋だという部屋の逆側の襖の向こうに何かいるようだった。
「すみません、ちょっと失礼します」
鍵がかかるわけでもないので開けようと思えば普通に開くはずだし、少し下の方から聞こえるから野良猫でも迷い込んだんだろうか。
開けてみると、何やら黒い塊が突進してきた。勢い余って部屋の真ん中でターンすると、私の方に向かってくる。
黒い犬だった。
懐かれているのか、前脚を私の太腿の上あたりに押し付けて立っている犬は、目を輝かせて尻尾を振っている。
……なに、この可愛い子。
大きさは柴犬をひと回り大きくしたくらい。顔付きと体を見るに日本犬……甲斐犬っぽいけど、それにしては毛足が少し長い気がする。洋犬が混じっているんだろうか。
子どもの頃実家で飼っていたコリーを思い出す。
まあ、犬種が何にせよ可愛いことに変わりはない。
どうやら懐いてくれているようなので、首の下辺りを触らせてもらう。
柔らかい。もふもふ。毛艶もいいし、首輪もしてるから飼い犬なのは間違いなさそう。それにこの子を撫でているとなぜか安心する。組の誰か、もしくは上条さんの飼い犬だろうか。
「だ、大丈夫ですか?」
外の人が心配そうに声をかけてくる。
「あの、黒い犬が……」
「コウさんがそちらに? 確かに散歩の時間ではありますが」
この子はコウって名前なのか。男の子だからコウくん……なんとなく馴染みがある気がする。
にしてもヤクザさんにさん付けされてるのか、犬。ということは、上条さんの飼い犬?
「この子……コウさんの飼い主は上条さんですか?」
「……え? そうですが、姐さんも散歩行かれたりしてましたよね」
なんでそんなことを聞くのかと言いたげな声音だった。どうやら私もこの子を可愛がっていたらしい。
まあこれだけ可愛い子、近くにいたら絶対可愛がるけども。
コウくんは何かを期待する目で私を見上げてきた。
「ああ、いた。すみません姐さん。散歩用のリードに変えようとしたら急に走ってそちらに……」
コウくんがやってきた方からリードを手にした別の上条さんの部下らしき人がやってくる。
「このところ姐さんと離れていたので、会いたかったのかと……散歩は自分が行きますから、姐さんは休んでいてください」
「ええ、まあ、この状況で散歩には行けないですね……」
散歩の時間だというから、散歩をせがまれているんだろう。二つ返事でOKしたいところだけど、散歩ルートどころかこの辺りの道知らないし、あの上条さんの愛犬を私が散歩させていいんだろうか。
「ごめんね、行けないんだ……」
頭を撫でながらそう言うと、コウくんは前脚を下ろしてお座りの姿勢をとり、寂しげに見上げてくる。
うっ……罪悪感。
そうしている間にコウくんはリードをつけられていた。
「姐さんはお疲れだから、な?」
そう声をかけられてリードに繋がれたからか、コウくんは諦めたように立ち上がる。
若干の抵抗を見せながらも、上条さんの部下に引っ張られたコウくんは散歩に出かけていった。
その後ろ姿を見送りつつ、突然の犬の登場で停止していた脳を復帰させる。
何の話だったっけ? えっと、そうだ、連絡相手。
「ええっと、連絡を取りたい相手ですよね」
「はい」
私は上手く回らない頭をなんとか動かして職場のオーナーに、と嘘をつく。
「お仕事は辞められたと伺っていますが……」
「辞めた?」
喫茶店を? 辞めた? え、どうして? 覚えはないけど結婚するから?
「ええ、三ヶ月ほど前に」
「さ、三ヶ月……?」
そんなに前に辞めたの? だって私の中ではまだ仕事は続けてるし、辞めるもなにも最後に仕事に行ってから三ヶ月も経ってるはずがない。
「あの、今は何月何日ですか」
こんな時間旅行者のテンプレみたいな台詞を本気で言う日が来るとは思わなかった。
そして襖の向こうの人が教えてくれた日付けを聞いた私は言葉を失った。私が覚えている日付けより少し前だったから。
「えっと……少し前に丸々食品の工場が火事になりませんでしたか?」
何か日付けに確証が持てる情報はないかと、ぼろぼろの記憶を辿ってすぐに思い浮かんだのはそんなニュースだった。
ここの会社のチョコが好きでたまに買っていて、体感的には一週間前くらいのニュースだ。
「それは去年の今頃ですよ」
その言葉を聞いて、驚きのあまり私はその場に膝を付いた。
一年前……私の記憶はそこで止まっている。
「大丈夫ですか、姐さん? 去年のニュースがどうかしたんですか?」
外の人が何か話しかけてくるけど、内容がまともに頭に入ってこなかった。
たった一年。でもその間に何があったら雄吾と別れて上条さんと出会って結婚することになるんだろうか。思い出そうとしても、記憶の中の私は普通の日常を過ごしていただけで、上条さんと出会った覚えも雄吾と別れた覚えも、コウくんのお世話をした覚えもない。
無理矢理思い出そうとするけれど、蘇るのは暗闇ばかりで、あとはズキリと頭が痛むだけだった。
「すいません。ありがとうございました……」
私はなんとかお礼の言葉を絞り出して、その場でずっと頭を抱えていた。
◆
やがて日も暮れてきて、障子紙を通して差し込む光が橙色を帯びてくる。
夕方に顔を出すという言葉のとおり、十八時を回った頃に上条さんはやってきた。
「中畑から聞いた。ここ一年の記憶がないのか?」
布団の上で膝を抱えている私の横に座った上条さんは優しく背中を撫でてくれる。
私はゆっくり頷いた。
「一年前ならまだ会ってねぇな。まあ、少しずつ思い出すだろ」
……やっぱり、一年前にはまだ上条さんに会っていないんだ。
でも、むしろたった一年で何があったらこの人と結ばれる事になるんだろうか。
「私と上条さんは、どうやって知り合ったんですか」
「上条さんじゃなくて下の名前で呼べって、あんだけ教え……言ったんだが」
上条さんは不満げに鼻を鳴らしながらも、丸々忘れたなら仕方ないのかと独り言のようにこぼした。
「会ったのは北の繁華街だ。面倒な客引きに捕まってたから助けた」
北の繁華街、あのホストクラブやらキャバクラやなんかが立ち並ぶところかな。一年前の私はなんでまたそんなところに行ったんだろうか。
「正直梨枝子のこの話は忘れたいんだがな……そん時付き合ってた男に二股されて、自棄になって来たとか言ってたな」
「ふ、二股? 雄吾が?」
その瞬間、肩に回されていた上条さんの手に力が入る。よっぽどこの話をしたくないらしい。
私としては推理ものを読もうとしたら、一ページ目に犯人と動機とトリックが書かれていたような衝撃で、しかもそれは自分の事だから詳細が気になるけど……あまり聞かない方が良さそうだった。そのうち思い出すんだろうか。でも、今のを聞いても小説を読んでるみたいで実感が湧かない。
「思い出させない方がいい気がしてきたな。もう俺と結婚して終わりでいいだろ」
「それはさすがに、急すぎると言いますか……準備も何もできません」
「なにもする必要はない。俺のモンになってくれさえすれば」
上条さんは当然のように言い放った。
このままでは本当にこの人と結婚することになってしまう気がして、私は話題を変えた。
「いったい、私に何があったんですか? 頭を打ったとか、事故にでも遭ったんでしょうか?」
「……無理に思い出す事じゃない。忘れたいから、忘れたんだろ」
上条さんの瞳が細く窄められる。
冷たい氷のような視線に、この人は裏の社会の人なんだと、改めて実感した。
「目が覚めた時、俺のことを忘れたなんて言うから驚いて責めるような言い方になったが、記憶喪失になるくらい、嫌な思いしたんだろ。忘れたままでもいい。その程度で俺の気持ちは変わらねぇ。コウも相変わらず梨枝子には懐いてるしな」
「で、でも、何も覚えていないのにけっ、結婚なんて……」
そもそも上条さんの事も全くわからない。ヤクザの偉い人、そんなとんでもない情報しかないのに。
「まあ今は疲れてるだろうしゆっくり休め。梨枝子、海老好きだろ。いい牡丹海老を仕入れさせたから、後で一緒に食べるか」
私は何も覚えていないのに、上条さんは優しい。どうしてここまで気に入られてしまったのか。一年前に戻った平凡な私にはさっぱりわからなかった。
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2022/05/30、エタニティブックスにて一位、本当に有難うございます!
✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼
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○表紙絵は市瀬雪さまに依頼しました。
(作品シェア以外での無断転載など固くお断りします)
○雪さま
(Twitter)https://twitter.com/yukiyukisnow7?s=21
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