お客様はヤのつくご職業

古亜

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1章

37.ヤクザさんのお屋敷

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車内は静かだった。ジャズのような音楽が流れているけれど、耳をすっと抜けていって歌詞も何もわからない。
私の横に座る昌治さんはどこか遠くを睨むように外を見ている。

「……あの」

せめてお礼は言わないと。私はまた昌治さんに助けられたんだから。もし昌治さんたちが来てくれなければ、私は今頃あの屋敷の中で、取り返しのつかないことになっていただろう。
昌治さんはじっと私の方を見た。大原さんも、運転中にこっちを振り向いたりはしないけど、耳をこちらに向けていた。

「ありがとうございました。本当に、ありがとうございます……」

お礼を言ったところで気が抜けてしまったのか、今更涙が溢れた。そうだ、アパートで迫られた時からずっと、春斗さんに対する恐怖で、それ以外のことを感じることができていなかった。
助けてもらった挙句、その車内で泣きじゃくるなんてみっともないと思ったけれど、体の中に残った恐怖を流すように涙が止まらなかった。
昌治さんの手が、私の頭を優しく撫でていた。
視界が涙でぼやけるので、手の甲で拭おうとしたらそっとその手を掴まれる。
私の顔はきっと涙とか崩れた化粧とかでボロボロだ。こんな顔、昌治さんに見られたくない。
空いている方の手で顔を隠そうとしたら掴まれた手を引かれて、私は昌治さんに抱き寄せられた。
その温かさに、なぜかまた涙が溢れてくる。
そこではたと、私の頭を撫でていた手が止まった。

「……楓、これはどうした?」

なんのことだろうかと振り向いて昌治さんの方を見る。昌治さんの視線が、私の首筋に向けられていた。
そうだ、これは春斗さんに……
車中の出来事がフラッシュバックし、残っていた恐怖が私の体を震わせる。
同時に思った。私にはこの人にこうして抱き寄せられるような資格はない。むしろ、私がされたあの行為は、この人に対する裏切りでしかないのだ。

「ごめんな、さい……私、降ります。ごめんなさいっ!」

私はこの場にいてはいけない。助けられたことに感謝する義務があっても、昌治さんの優しさに甘える権利はない。
そっと昌治さんの腕から抜け出そうとしたけれど逆に引き寄せられて、私は昌治さんの肩の辺りに頭を埋めることになった。

「ごめんなさい、ごめんなさいっ!お願いですから離してください!」
「楓の頼みでもそれは聞けない。一条会の奴らに見つかったらどうするつもりだ」
「でも、私は、昌治さんに合わせる顔がないんです!」

私は首筋を隠した。まだ僅かに熱を帯びている。これを昌治さんに見られた恥ずかしさで、今すぐにでも穴を掘ってそこに逃げ込みたかった。

「……確かに、これについて許すことはできない。だが、悪いのはお前じゃないだろう」

そう言って昌治さんは首筋に当てた私の手を引き剥がして、おそらく赤くなっているであろうそこに口付けを落とす。
甘噛みじゃなくて、痛い。でも、私にこれを痛いと叫ぶ権利はないから、甘んじて受け入れる。それに不思議と、昌治さんに噛まれることには恐怖を感じなかった。
昌治さんの唇が首筋から離れたところで、私はキスをした。
ほんの僅かに唇と唇が触れただけだったけど、私に今できる最大限のお礼はこれしか思い浮かばなかったから。
私から仕掛けたキスに、昌治さんは驚きを隠せない様子で目を見開く。そんな姿をちょっと可愛いとさえ思ってしまう。
なんだ、私もこの人のことが好きなんだ。
そう思ったとき、私を抱く昌治さんの腕の力が強くなった。

「わかってるのか?住む世界が違うと言ったのは楓、お前だろう。それに歳も、俺とお前は十以上離れている」

そう。最初、私はそう言って断った。歳についても言いはしなかったけど、考えなくはなかった。
でも今日のことでわかった。
あの日、昌治さんの気持ちを知ったとき、心の中では嬉しいと思っていた。今日だって、電話があって、こうして助けてもらって、嬉しかった。
……私は昌治さんのことが好きだし、叶うなら一緒になりたい。それが本心だ。

「私も、好きですから。昌治さんのこと」

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