お隣さんはヤのつくご職業

古亜

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美味しいは罪2

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「……疲れた」

最寄駅からアパートに帰る道すがら、私はいろんな意味で重く感じる体を引きずるみたいにして歩いていた。
何気無くスマホの電源ボタンを押して画面を開いてみる。この背景画像、いつから変えてないんだろ。いつ撮ったんだかとうに忘れてしまった植物の写真。真ん中に表示されている時刻はとっくに23時を過ぎていて、余計に体が重く感じる。
ずり落ちてきた鞄を肩にかけ直していたら、今日の無駄に長い会議の後、部長に言われた言葉を思い出した。
『最近弁当に凝ってるんだって?君はもっと肉付けた方がいいと思ってたんだよね。まあ、限度があるけど』
あんたの好みなんて知るかっての!限度ってどういう意味ですかね!?
……思い出したら腹立ってきた。疲れてるんだから余計な事考えたくないのに、あの部長のムカつく嫌味っぽい顔ばっかり浮かんでくる。
下には面倒くさいクレーム処理とか単なる付き合いに近い小さい案件とか、会議のための会議の資料とか、時間かかる割に得るものがほぼ無い仕事ばっかり回してくる。
年末でただでさえ忙しいのに、そんな尻拭いばっかりやってられない。
しかも資料作りとか細々としたのって、パソコンさえあれば家でもできてしまう。つまり持ち帰り。持って帰って勝手にやってる作業だから、会社に残ってはいないから残業じゃない。
今年も年末はテレビで歌合戦でも流しながらパソコンと向かい合うのかな。仕事納めと仕事始まりが同時にやってくるのかな。
……実家はまた一月の真ん中くらいの土日で帰るのか。まあ、新幹線空いてていいけど。
肩にかけた鞄がずっしりと重い。持って帰ってきた資料とノートパソコン。何時までかかるかなこれ……
アパートに着いてもただいまを言う気力もなく、私は黙って部屋に入って鞄を床に置いた。

「……そっちも年末は大変そうだな」

吉崎さんは用意していた鍋に蓋をして火をかけると、お皿とお箸の用意を始めた。味噌のほんのり甘い香りが漂ってきて、味噌の鍋なんだなと思った。
そっちって、吉崎さんも年末年始は何かあるのかな。
この後にする作業内容を確かめるために鞄からパソコンを引っ張り出してファイルを開く。発表用の資料の写真を全部入れ替えて、番号も変えなきゃいけない。あと取引先から送られてきた資料も読まなきゃ。何時に寝れるんだろうかと思わずため息をついていたら、いい匂いがしてきた。
吉崎さんは中身を少し確認して鍋を火から下ろし、机の鍋敷きの上にゆっくりと置いた。
いつもなら飛びついてるけど、今日はどうも体が重い。

「いただきます」

お箸を伸ばしてまずは野菜を取る。味噌の色が染み込んでくったりとした白菜。鍋の野菜はどちらかというと、煮込まれて味がしみしみで柔らかくなっているのが好きだ。この白菜はまさにそれで、白い部分なのに歯で噛む必要がなさそうなくらいに口の中で解ける。
きっと美味しい。そのはずなのに、普段なら間違いなくそう思えるはずなのに、なぜかそういう味のするものが口の中を通り過ぎていっただけのような、そんな気がした。
雰囲気がどこかピリピリしている。年末の過労死ラインなんて知らんとばかりに働かされた疲れで気が立ってるのか、それが妙に気になって仕方ない。
けど吉崎さんが何も言わずに鍋を突いているから、この微妙な雰囲気がこれ以上変な方向に向かわないように私もそれに倣って鍋の……主に野菜に箸を伸ばす。
そうして具材が半分くらいになったところで、吉崎さんが先ほどからスマホを気にしているのに気付いた。
普段もたまに連絡が来たりするから机の端に置いてあるんだけど、電話がかかってきたりメッセージが入ったりすると見るくらいで基本的に無いもののように扱われている。
けど今日は時々険しい顔でスマホを見ていた。吉崎さんの方も忙しいみたいだし、何か大事な連絡を待ってるんだろうか。
忙しいんなら、わざわざ作ってくれなくても……って、私今ものすごく嫌な感じでそれを思ってた。そんな風に思いたくないのに、思う資格なんてないのに。

「……嬢ちゃん、食欲ねぇのか?」
「まあ、その……疲れてて」

なんだか気まずい。会話もそこで終わって、もったりと重い沈黙が流れる。
鍋の残りは3分の1くらいになって、そこで私は箸を置いた。

「美味しかったです。ありがとうございました」

いつも通り食器くらいは片付けようとしてシンクに立つ。お皿を洗いながらお風呂入る前に終わらせときたい書類について考えていたら、落としきれていなかった洗剤のせいでお皿が一枚、つるりと手から滑り落ちた。

「あ」

見事真っ二つになったお皿をぼんやり見ていたら、横からするりと手が伸びてきてその破片を拾い上げた。

「すみません。私もひろいま……」
「危ねぇからいい。任せない方がよかったな」

どうして、そんな言い方するの?
吉崎さんは何気無く言ったつもりなんだろう。困ったように笑っている。私の家事能力が壊滅的なことはよく知ってるはずだから、小皿を一枚割ったところで相変わらずだなって笑ってそれでお終い。
普段ならこんなに過剰に反応したりしない。そもそも自分で買った100均の小皿だ。新しいの買いますね、で終わることなのに。私が悪いんだから私がイライラする方がおかしいのに。

「疲れてるのにやるからだ」

……ああ、まただ。胸が苦しくて喉元に熱くて嫌なものがこみ上げてくる。吉崎さんはいつも通りなのに、どうして私ばっかり。

「私は大丈夫です。平気です。片付けも自分でできます!運動です!」

語気が荒くなるのを止められない。吉崎さんもさすがにこれには表情を変える。
私はその顔を見られなくて咄嗟に壁の方を向いていた。それでも言葉は止まらない。

「いや、嬢ちゃんは休んでろ。元々疲れてるってのはわかってた」
「定職のない吉崎さんにはわからないです!頼んでいないんですから、放っておいてください!」

言い終えてすぐ、しまったと思った。そして、そう思ってからでは遅かった。

「まあ、そうだな。表の事は俺にはわからねぇ。悪いな、余計なお節介だったか」
「だから……でも……」

空気が変わってしまった気がした。関係ない事を言ってしまった。謝らなきゃ。けど、喉が腫れてしまったみたいに声が出ない。
重苦しい雰囲気の中、それを裂くようにどこからか着信音が聞こえてきて、吉崎さんが視線をそちら側に向けた。
吉崎さんはちらりと私の顔を確認すると、スマホを手に取って低い声で話し始める。

「……わかった。今から行く」

そう言って吉崎さんはスマホを仕舞うと、まだ少し残っている鍋に蓋をして自分の部屋に戻っていった。そしてすぐに扉が開く音がして、吉崎さんはアパートを出ていった。
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