お客様はヤの付くご職業・裏

古亜

文字の大きさ
上 下
8 / 15

8

しおりを挟む
「楓、明日の夜空いとるか?」

お風呂から上がってソファーでぼんやりとしていたら、いつの間にか部屋に入ってきていた春斗さんに背後から抱きしめられる。
耳元に唇が軽く触れて、私は思わずびくりと肩を震わせた。

「明日、ですか……?」

元々大学に行く以外で外出はしていない。用事を作ろうにも作ることができないことくらい春斗さんは知っているはずだ。
けれど今は違う。
明日は、ここから逃げると決めた日だった。




「逃げようと思います」

迎えに来た中西さんに私はそう伝えた。

「そうですか。それが英断ですよ」

中西さんはそう言って懐から一枚の紙を取り出した。

「隣町のビジネスホテルを予約しておきました。その名義でとってあるので、覚えておいてください」

渡された紙を開いてみるとそこにはホテルの名前と最寄りの駅、そして川野桜という名前が書かれていた。

「わかりやすい偽名ですね」
「覚え易い方がいいでしょう」

山野だから川野、楓だから桜。

「ありがとうございます。でも、ここまでして頂かなくて大丈夫です。自分でなんとかします」
「……はぁ?」

中西さんは信じられないと声を荒げる。ちょうど信号で止まった車のブレーキが荒くなる。

「なんとかってどうするつもりなんだ?あんた一人で、どこかあてでもあるのか?」

これが素の口調なんだろうか。中西さんは振り返ってヤクザらしい怖い顔をしていた。

「いえ、元々逃げられるとは思っていませんから」

中西さんに逃げる事を勧められて、私は大学にいる間ずっと考えていた。
そもそも、逃げないかと言われるまで、私の中にその選択肢はなかった。日常に帰りたいとは思っていたけれど、逃げたところで日常には戻れないから。
中西さんは私がいなくなっている間に何か事を起こしたいんだろう。けれど、あの春斗さんがそれだけで失脚するようには思えない。

「逃げて、また捕まるつもりか?あの会長相手に何考えてんだ?」
「行きたいところがあるだけです」

一言だけ、謝りたかった。あの日、昌治さんからの電話で、私は昌治さんと最後に会うつもりだった。あれから3週間、心配させたんじゃないかと思う。
無事だと伝えたい。でも、春斗さんがそれを許すはずがなかった。
岩峰組の事務所に行くなんて、とてもじゃないけど誰にも言えない。
一言だけ伝えたら、私の中の昌治さんへの思いは断ち切る。
その後は、銀行でお金を下ろしてどこかのホテルかネットカフェでしばらく過ごす。
中西さんが用意してくれたビジネスホテルでもいいんだろうけど、自分の問題は自分でどうにかしたかった。
何事もなければ、日常に戻る。私なんてどこにでもいる普通の女子大生だ。捨てられるのが少し先から今になるだけの話だ。

「まあ、俺は会長の……というか一条会の目を一時的に逸らせればいいんでどっちでもいいんですけど」

中西さんはよくわからない生き物を見る目で私を見て、信号が青に変わったので車を発進させた。

「怖くないんですか」
「……怖いですよ。でも、後悔すると思ったので」

春斗さんのことは怖い。今は穏やかに接してくれているけど、その裏に何かあるんじゃないか、いつその面が出てきてしまうのか、その時私はどうすればいいのか、わからない。
逃げて捕まったなら、その時こそ春斗さんは私を完全に支配しようとするかもしれない。
脳裏に春斗さんの獰猛な瞳が浮かぶ。考えるだけで背筋が凍りついて、あの日の恐怖を思い出す。
けれどそうなったのなら受け入れるしかないことを私は理解していた。むしろ、そうなるかもしれないと思っている方がいつなのかと怯えるよりもましだ。




……現に、今の私は不思議と穏やかだった。
いつ破裂するのかわからないから余計に怖い。風船も自分で自ら割るのならそう怖くはないから。
春斗さんは横から私の顔を覗き込んで返事を待っている。

「大丈夫ですよ」
「そうか。なら、俺が帰ったら出かけよな」

優しく微笑んだ春斗さんは私の頬に軽く口付けを落として、再び部屋を出て行った。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

冗談のつもりでいたら本気だったらしい

下菊みこと
恋愛
やばいタイプのヤンデレに捕まってしまったお話。 めちゃくちゃご都合主義のSS。 小説家になろう様でも投稿しています。

虚弱なヤクザの駆け込み寺

菅井群青
恋愛
突然ドアが開いたとおもったらヤクザが抱えられてやってきた。 「今すぐ立てるようにしろ、さもなければ──」 「脅してる場合ですか?」 ギックリ腰ばかりを繰り返すヤクザの組長と、治療の相性が良かったために気に入られ、ヤクザ御用達の鍼灸院と化してしまった院に軟禁されてしまった女の話。 ※なろう、カクヨムでも投稿

レンタル彼氏がヤンデレだった件について

名乃坂
恋愛
ネガティブ喪女な女の子がレンタル彼氏をレンタルしたら、相手がヤンデレ男子だったというヤンデレSSです。

可愛い幼馴染はヤンデレでした

下菊みこと
恋愛
幼馴染モノのかなりがっつりなヤンデレ。 いつもの御都合主義のSS。 ヤンデレ君とそのお兄さんが無駄にハイスペックなせいで気付かないうちに逃げ道を潰される主人公ちゃんが可哀想かもしれません。 一応両思いなのが救いでしょうか。 小説家になろう様でも投稿しています。

内気な貧乏男爵令嬢はヤンデレ殿下の寵妃となる

下菊みこと
恋愛
ヤンデレが愛しい人を搦めとるだけ。

マイナー18禁乙女ゲームのヒロインになりました

東 万里央(あずま まりお)
恋愛
十六歳になったその日の朝、私は鏡の前で思い出した。この世界はなんちゃってルネサンス時代を舞台とした、18禁乙女ゲーム「愛欲のボルジア」だと言うことに……。私はそのヒロイン・ルクレツィアに転生していたのだ。 攻略対象のイケメンは五人。ヤンデレ鬼畜兄貴のチェーザレに男の娘のジョバンニ。フェロモン侍従のペドロに影の薄いアルフォンソ。大穴の変人両刀のレオナルド……。ハハッ、ロクなヤツがいやしねえ! こうなれば修道女ルートを目指してやる! そんな感じで涙目で爆走するルクレツィアたんのお話し。

転生先が羞恥心的な意味で地獄なんだけどっ!!

高福あさひ
恋愛
とある日、自分が乙女ゲームの世界に転生したことを知ってしまったユーフェミア。そこは前世でハマっていたとはいえ、実際に生きるのにはとんでもなく痛々しい設定がモリモリな世界で羞恥心的な意味で地獄だった!!そんな世界で羞恥心さえ我慢すればモブとして平穏無事に生活できると思っていたのだけれど…?※カクヨム様、ムーンライトノベルズ様でも公開しています。不定期更新です。タイトル回収はだいぶ後半になると思います。前半はただのシリアスです。

【ヤンデレ鬼ごっこ実況中】

階段
恋愛
ヤンデレ彼氏の鬼ごっこしながら、 屋敷(監禁場所)から脱出しようとする話 _________________________________ 【登場人物】 ・アオイ 昨日初彼氏ができた。 初デートの後、そのまま監禁される。 面食い。 ・ヒナタ アオイの彼氏。 お金持ちでイケメン。 アオイを自身の屋敷に監禁する。 ・カイト 泥棒。 ヒナタの屋敷に盗みに入るが脱出できなくなる。 アオイに協力する。 _________________________________ 【あらすじ】 彼氏との初デートを楽しんだアオイ。 彼氏に家まで送ってもらっていると急に眠気に襲われる。 目覚めると知らないベッドに横たわっており、手足を縛られていた。 色々あってヒタナに監禁された事を知り、隙を見て拘束を解いて部屋の外へ出ることに成功する。 だがそこは人里離れた大きな屋敷の最上階だった。 ヒタナから逃げ切るためには、まずこの屋敷から脱出しなければならない。 果たしてアオイはヤンデレから逃げ切ることができるのか!? _________________________________ 7話くらいで終わらせます。 短いです。 途中でR15くらいになるかもしれませんがわからないです。

処理中です...