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「楓、明日の夜空いとるか?」
お風呂から上がってソファーでぼんやりとしていたら、いつの間にか部屋に入ってきていた春斗さんに背後から抱きしめられる。
耳元に唇が軽く触れて、私は思わずびくりと肩を震わせた。
「明日、ですか……?」
元々大学に行く以外で外出はしていない。用事を作ろうにも作ることができないことくらい春斗さんは知っているはずだ。
けれど今は違う。
明日は、ここから逃げると決めた日だった。
「逃げようと思います」
迎えに来た中西さんに私はそう伝えた。
「そうですか。それが英断ですよ」
中西さんはそう言って懐から一枚の紙を取り出した。
「隣町のビジネスホテルを予約しておきました。その名義でとってあるので、覚えておいてください」
渡された紙を開いてみるとそこにはホテルの名前と最寄りの駅、そして川野桜という名前が書かれていた。
「わかりやすい偽名ですね」
「覚え易い方がいいでしょう」
山野だから川野、楓だから桜。
「ありがとうございます。でも、ここまでして頂かなくて大丈夫です。自分でなんとかします」
「……はぁ?」
中西さんは信じられないと声を荒げる。ちょうど信号で止まった車のブレーキが荒くなる。
「なんとかってどうするつもりなんだ?あんた一人で、どこかあてでもあるのか?」
これが素の口調なんだろうか。中西さんは振り返ってヤクザらしい怖い顔をしていた。
「いえ、元々逃げられるとは思っていませんから」
中西さんに逃げる事を勧められて、私は大学にいる間ずっと考えていた。
そもそも、逃げないかと言われるまで、私の中にその選択肢はなかった。日常に帰りたいとは思っていたけれど、逃げたところで日常には戻れないから。
中西さんは私がいなくなっている間に何か事を起こしたいんだろう。けれど、あの春斗さんがそれだけで失脚するようには思えない。
「逃げて、また捕まるつもりか?あの会長相手に何考えてんだ?」
「行きたいところがあるだけです」
一言だけ、謝りたかった。あの日、昌治さんからの電話で、私は昌治さんと最後に会うつもりだった。あれから3週間、心配させたんじゃないかと思う。
無事だと伝えたい。でも、春斗さんがそれを許すはずがなかった。
岩峰組の事務所に行くなんて、とてもじゃないけど誰にも言えない。
一言だけ伝えたら、私の中の昌治さんへの思いは断ち切る。
その後は、銀行でお金を下ろしてどこかのホテルかネットカフェでしばらく過ごす。
中西さんが用意してくれたビジネスホテルでもいいんだろうけど、自分の問題は自分でどうにかしたかった。
何事もなければ、日常に戻る。私なんてどこにでもいる普通の女子大生だ。捨てられるのが少し先から今になるだけの話だ。
「まあ、俺は会長の……というか一条会の目を一時的に逸らせればいいんでどっちでもいいんですけど」
中西さんはよくわからない生き物を見る目で私を見て、信号が青に変わったので車を発進させた。
「怖くないんですか」
「……怖いですよ。でも、後悔すると思ったので」
春斗さんのことは怖い。今は穏やかに接してくれているけど、その裏に何かあるんじゃないか、いつその面が出てきてしまうのか、その時私はどうすればいいのか、わからない。
逃げて捕まったなら、その時こそ春斗さんは私を完全に支配しようとするかもしれない。
脳裏に春斗さんの獰猛な瞳が浮かぶ。考えるだけで背筋が凍りついて、あの日の恐怖を思い出す。
けれどそうなったのなら受け入れるしかないことを私は理解していた。むしろ、そうなるかもしれないと思っている方がいつなのかと怯えるよりもましだ。
……現に、今の私は不思議と穏やかだった。
いつ破裂するのかわからないから余計に怖い。風船も自分で自ら割るのならそう怖くはないから。
春斗さんは横から私の顔を覗き込んで返事を待っている。
「大丈夫ですよ」
「そうか。なら、俺が帰ったら出かけよな」
優しく微笑んだ春斗さんは私の頬に軽く口付けを落として、再び部屋を出て行った。
お風呂から上がってソファーでぼんやりとしていたら、いつの間にか部屋に入ってきていた春斗さんに背後から抱きしめられる。
耳元に唇が軽く触れて、私は思わずびくりと肩を震わせた。
「明日、ですか……?」
元々大学に行く以外で外出はしていない。用事を作ろうにも作ることができないことくらい春斗さんは知っているはずだ。
けれど今は違う。
明日は、ここから逃げると決めた日だった。
「逃げようと思います」
迎えに来た中西さんに私はそう伝えた。
「そうですか。それが英断ですよ」
中西さんはそう言って懐から一枚の紙を取り出した。
「隣町のビジネスホテルを予約しておきました。その名義でとってあるので、覚えておいてください」
渡された紙を開いてみるとそこにはホテルの名前と最寄りの駅、そして川野桜という名前が書かれていた。
「わかりやすい偽名ですね」
「覚え易い方がいいでしょう」
山野だから川野、楓だから桜。
「ありがとうございます。でも、ここまでして頂かなくて大丈夫です。自分でなんとかします」
「……はぁ?」
中西さんは信じられないと声を荒げる。ちょうど信号で止まった車のブレーキが荒くなる。
「なんとかってどうするつもりなんだ?あんた一人で、どこかあてでもあるのか?」
これが素の口調なんだろうか。中西さんは振り返ってヤクザらしい怖い顔をしていた。
「いえ、元々逃げられるとは思っていませんから」
中西さんに逃げる事を勧められて、私は大学にいる間ずっと考えていた。
そもそも、逃げないかと言われるまで、私の中にその選択肢はなかった。日常に帰りたいとは思っていたけれど、逃げたところで日常には戻れないから。
中西さんは私がいなくなっている間に何か事を起こしたいんだろう。けれど、あの春斗さんがそれだけで失脚するようには思えない。
「逃げて、また捕まるつもりか?あの会長相手に何考えてんだ?」
「行きたいところがあるだけです」
一言だけ、謝りたかった。あの日、昌治さんからの電話で、私は昌治さんと最後に会うつもりだった。あれから3週間、心配させたんじゃないかと思う。
無事だと伝えたい。でも、春斗さんがそれを許すはずがなかった。
岩峰組の事務所に行くなんて、とてもじゃないけど誰にも言えない。
一言だけ伝えたら、私の中の昌治さんへの思いは断ち切る。
その後は、銀行でお金を下ろしてどこかのホテルかネットカフェでしばらく過ごす。
中西さんが用意してくれたビジネスホテルでもいいんだろうけど、自分の問題は自分でどうにかしたかった。
何事もなければ、日常に戻る。私なんてどこにでもいる普通の女子大生だ。捨てられるのが少し先から今になるだけの話だ。
「まあ、俺は会長の……というか一条会の目を一時的に逸らせればいいんでどっちでもいいんですけど」
中西さんはよくわからない生き物を見る目で私を見て、信号が青に変わったので車を発進させた。
「怖くないんですか」
「……怖いですよ。でも、後悔すると思ったので」
春斗さんのことは怖い。今は穏やかに接してくれているけど、その裏に何かあるんじゃないか、いつその面が出てきてしまうのか、その時私はどうすればいいのか、わからない。
逃げて捕まったなら、その時こそ春斗さんは私を完全に支配しようとするかもしれない。
脳裏に春斗さんの獰猛な瞳が浮かぶ。考えるだけで背筋が凍りついて、あの日の恐怖を思い出す。
けれどそうなったのなら受け入れるしかないことを私は理解していた。むしろ、そうなるかもしれないと思っている方がいつなのかと怯えるよりもましだ。
……現に、今の私は不思議と穏やかだった。
いつ破裂するのかわからないから余計に怖い。風船も自分で自ら割るのならそう怖くはないから。
春斗さんは横から私の顔を覗き込んで返事を待っている。
「大丈夫ですよ」
「そうか。なら、俺が帰ったら出かけよな」
優しく微笑んだ春斗さんは私の頬に軽く口付けを落として、再び部屋を出て行った。
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